内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第三章(六)

2014-04-06 01:53:00 | 哲学

 

2— 「内的人間の人間学」― 場所的論理のからのメーヌ・ド・ビランへの評価と批判(1)

 西田は、一九三〇年に書かれた小論文「人間学」、同年に執筆、発表された論文「場所の自己限定としての意識作用」、そしておそらく同年末に執筆され、翌年発表された論文「私の絶対無の自覚的限定というもの」の中でメーヌ・ド・ビランを引用している。それらの中で、西田は、ビランの哲学に対して好意的な見解を述べているだけでなく、場所の論理によって開かれたパースペクティヴの中で、ビランの人間学に対して若干の批判的考察も行っている。この時期の西田のビランについての考察は、いずれも小論文「人間学」の中にフランス語でそのまま引用されているビランの Nouveaux essais d’anthropologie の中の一節をめぐって為されている。

私は動き、意志し、あるいは行動しようと考え、それゆえ私は自分が原因であると知り、それゆえ私は原因あるいは力として現実的に在るあるいは実在する。
J’agis, je veux, ou je pense l’action, donc je me sais cause, donc je suis ou j’existe réellement à titre de cause ou de force.

Nouveaux essais d’anthropologie, p. 77.

 この引用は、西田がフランスの「感情 sentiment の哲学」の中に見出されるとする「情意的自覚の事実に基いた一種の内的人間の人間学」を主題とする文脈の中に見出される。西田によれば、この人間学は、デカルトのコギトから出発して、デカルト自身が歩んだのとは異なった方向に進む哲学的探究の可能性を示している。西田は、そこで、デカルトのコギトを自覚として捉えながら、それが自覚の情意的側面を無視して知的側面にのみ偏り、その結果として、コギトが知的実体として扱われ、それが形而上学的真理として用いられていることを批判している。この観点から、西田は、コギトを出発点とするもう一つの途があることを示すのだが、それが内的直接的覚知としての自覚に含まれる情感的知見に基づく人間的諸事実の知識としての人間学なのである。西田によれば、この人間学を創始したのがパスカルであり、パスカルにおいては断片的考察の集成に過ぎなかったものを、未完成とはいえ、内的人間の人間学として構築しようと試みたのがビランなのである。西田は、ビランが内感の事実的価値を出発点としてその哲学を構築しようとしたことと、直接的に把握可能な内的生の感覚の圏域にとどまることに満足せずに内的人間と外的人間との統一を確立しよう試みていることとを高く評価している。そこでもまた、西田は、フランス語のまま Nouveaux essais d’anthropologie の別の一節を引用している。

意志することは単純、純粋かつ瞬間的なあ魂の作用であり、それにおいて、あるいはそれによって、この知的で活動的な力が外部に、そしてそれ自身の内部に顕現する。
Le vouloir est un acte simple, pur et instantané de l’âme, en qui ou par qui cette force intelligente et active se manifeste au dehors et à elle-même intérieurement.

Nouveaux essais d’anthropologie, p. 179.

 しかしながら、西田は、ビランの試みが内的人間の圏域を超えて外的人間の体系化された認識、とりわけ社会的歴史的人間の人間学を構築することには成功していないことを批判する。西田は、この超克の可能性を、真の自己は歴史的世界において「行為する」ということの中に見取っている。内的直接的覚知によって把握された個々の特殊な自己の還元不可能な立場をそれとして確保しながら、人間は外的世界においていかに行為し、働くことができるのか。場所の論理の発見とその直接的な展開によって特徴づけられる後期において、西田は、この問題を解くための鍵をまだ探している。その鍵はビランの哲学の中には見出しがたいと西田が考えていることは明らかである。
 ところが、その鍵は、ビランの「自己身体の内的空間」、精神の作用にも客観的空間にも還元不可能なこの延長が行為する人間の内部と外部の媒介項としての機能を果たしているということそのことのうちに隠されいると私たちは考える。しかし、ここでは、まだこの問題に立ち入らずに、ただ、ここでもまた、ビランによって発見された「自己身体の内的空間」というハイブリッドな空間が西田によって見落とされたままであることを確認するにとどめる。西田においては、先の問題を解くための鍵は、歴史的実在の世界における認識と行為との二重の原理である「行為的直観」概念の構想と共に与えられることになるのだが、私たちは、西田がこの後改めてビランの能動的習慣を取り上げ直すテキストを読むときにこの問題に立ち戻り、そこで行為的直観の世界において自己身体の内的空間がどのように位置づけられるか検討することにする。