内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(十一)

2014-04-25 00:00:00 | 哲学

1. 3 表現的世界の自己限定としての働く身体(3)

我々が歴史的身体的に働くといふことは、自己が歴史的世界の中に没入することであるが、而もそれが表現的世界の自己限定たるかぎり、我々が行為する、働くと云ひ得るのである(全集第八巻四七頁)。

 この引用の前半のテーゼ ―「私たちが歴史的身体として働くことは、自己が歴史的世界に没入することである」― に対しては、例えば、次のような問いが向けられうるだろう。私たちの行動は、歴史的世界それ自身の自己限定の結果としての意味しかなく、歴史的世界という自己限定的ですべてを呑み込んでしまう場所だけが世界に到来する万有の原因なのか。私たちの個別的自己は、歴史的に限定された身体として現実化される以上、歴史的世界に対して独立し自律的で自由であることは本質的に不可能であるのか。知識の獲得に関しては、個別的身体の身分は、その身体がたとえ行為の主体であったとしても、獲得された知識に対して副次的な価値しか持たないのか。なぜなら、一旦確立された知識は、非人称的であり、その他の〈見る-働く〉身体との間で共有可能であるからこそ、知識たりうるのであり、その意味で、その知識が最初に獲得された身体とは独立した対象となるからである。知識は、それとして確立されることによって、ある時ある場所に生きる個別的な歴史的身体から切り離される。このような知識の確立は、ただそれを所有しているだけの私たちの身体からその個別性と歴史性を奪い、同じ知識を持った他の身体と交換可能な、一つの一般的身体に変容させてしまうのではないか。
 以上の問いに見られるような身体の副次性や一般性を認めるとすれば、それでもなお、私たちそれぞれが個別的な歴史的身体として行為し働くと言うことができるのだろうか。できるとすれば、それはどのような意味においてなのか。西田はこのような問に対して次のように答える。それは、歴史的身体として私たちが行為するということが「表現的世界の自己限定」であるという意味においてである。この西田の答えを、論文「論理と生命」の他の箇所を参照しつつ、発展させてみよう。表現作用は、一個の個別的な〈見る-働く〉身体によって生きられなくてはならない。表現は、個別的に自己表現する能力を持った私たちの歴史的身体のそれぞれがそれを経験するかぎりにおいて、実現可能である。世界を受容し世界に受容されることで働き、形を受け入れ形を与え得るものとして世界を見ることによって、言い換えれば、世界をその内部において受け入れ、その世界にある形をその内部で与えることによって、私たちの自己は、その身体において自らを表現する。そのことは、取りも直さず、世界が私たちの身体を通じて自らを表現することなのである。もし自らの内部に独立的な自己表現的・自己創造的要素を含んでいなければ、世界は歴史的に一度限り限定され、ある表象の体系として完全に対象化され、そこに在るのは、もやは表現的でも創造的でもない不活性な世界でしかない。私たちの表現的・創造的な身体的自己において自己限定するかぎりにおいて、歴史的世界は、歴史的生命の世界になる。

我々の身体的自己は歴史的世界に於ての創造的要素として、歴史的生命は我々の身体を通じて自己自身を実現するのである(全集同巻同頁)。

 客観的に一度限定された世界においては、私たちの身体は、種々の対象の只中に投企された一つの対象に過ぎず、事実的・非人称的・置換可能な身体にとどまる。しかし、歴史的世界においては、私たちの身体は、表現するものとなり、個別的な置換不可能な歴史的身体として生きられる。この歴史的身体が世界にある一つの形を与え、表現がそこで実現される場所、世界の意味が創造される場所にになる。

世界に没入するといふことは、身体がなくなるといふことではない、単に一般的となることではない。却つてそれが深くなることである、寧ろ身体の底に徹底することである(全集同巻同頁)。