内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第三章(十四)

2014-04-14 00:00:00 | 哲学

4 — 「自覚」と「内感」との交点、そして乖離(2)

 しかし、また、西田の「自覚」とビランの「内感」とが最も接近するまさにその点において、両者の間の決定的の相違点も明らかになる。
 「自覚」と「内感」とは、いずれも内在的自己経験に与えられた名であり、徹底した内在の圏域で実現されるような「生きられるものの自己自身への根源的な顕示」(Michel HENRY, Philosophie et phénoménologie du corps, p. 21, n. 3.邦訳『身体の哲学と現象学』、三三二頁)のことである。それを、西田は、「自己が自己を見る」と言い、ビランは、「自己が自己を感じる」と言う。この「見る自己」も「感じる自己」も、けっして表象化されることのない内的直接的自己知として経験されるというところまでは両者は一致する。しかし、ビランの「感じる」と西田の「見る」は相互に置き換え不可能なのである。なぜなら、ビランの身体の現象学においては、意志的努力において内側から感じられる主観的身体が明白に主題化されているのに対して、西田における内在的同一性として自覚の哲学には、それに対応するものを見出すことができないからである。
 さらに重要なことは、すでに本章で繰り返し述べてきたことだが、自己が感じる不可避の直接的抵抗によって限界づけられ、その感じる自己と不可分・不可同でありかつ非表象的な「自己身体の内的空間」が、西田においてはまったく問題にされることがないことである。というのも、この内在性にも外在性にも、主観性にも客観性にも還元不可能な、我々の自己身体に固有な、いわば両義的な空間性の問題は、おそらくビランが提起した最も重要な哲学的問題の一つだからである。
 西田とビランとのこの相違点、別の言い方をすれば、西田におけるこの「欠落」は、どう説明すればよいのか。それは、ビランが、とりわけ触覚を範例に取り、あらゆる感覚の原初的な次元、つまり自己身体が直接的な抵抗として内側から感じられる次元における経験として、内感を記述しているのに対して、西田は、対象に対して距離を取るのに最も適した感覚、ビランによれば「軽い感覚」(Essai sur les fondements de la psychologie, p. 312)である視覚を範例として、非表象的な内的経験である自覚を定式化しようとしていることに由来すると私たちは考える。
 自覚の第三の契機「自己に於て」によってはじめて、その都度の表象作用を現実化しつつそれ自身は非表象的な自己の審級、つまり内在的同一性の審級を超えて、この同一性がそこにおいて成立する審級、つまり超越的同一性の審級が問題化される。ところが、西田哲学において、この審級は、「自己身体の内的空間」のような具体的現実的限定性を持っていない。しかしまさにそれゆえにこそ、この超越的同一性の問題は、そのような中間性の空間を媒介としないで、内的経験の次元の問題から、それを超え包み、それを可能にする次元の問題へと一挙に変換される。この変換を通じて、自己の内的経験を非人称的な〈場所〉の自己限定として捉える立場、すなわち「場所の論理」の立場が拓かれたのである。
 かくして、西田哲学は、自覚論の問題構成の中で、内在性に徹するビラン哲学と交叉し、その内的生命の哲学をそれなりの仕方で取り込みつつ、しかし「自己身体の内的空間」というその決定的に重要な一論点を見落としたまま、内的生命の可能性の条件が問われうる場所論の次元へとその地平を拡張する。
 しかし、場所の論理の形成・確立期においても、内的生命が自らをそこにおいて内感する自己身体と、それがそこにおいて生きられる世界とが、それとして問題化されることはない。西田哲学において、この生ける身体の問題が主題化されるのは、行為の世界、さらには歴史的実在の世界における問題としてであり、つまり「行為的直観」と「歴史的身体」とが枢軸概念をなす最後期西田哲学の問題圏においてである。この問題圏へと探究の歩を進めるために、私たちは今やビラン哲学と西田哲学との共通の問題地平から離脱しなければならない。