内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第三章(十二)

2014-04-12 00:00:00 | 哲学

3— 「習慣の世界」― 行為的直観の立場から捉え直された能動的習慣(3)

 ここで一言補足しておく。論文「行為的直観の立場」の第四節最後の数頁に展開されている習慣論は、ビランのそれによりもラヴェッソンのそれに近い。事実、西田は、同節の末尾の補足で、ラヴェッソンの『習慣論』を同論文執筆後に読んだことを注記しながら、「習慣について洞察に富んだ美しい考」と評価している。西田は、最晩年にラヴェッソンの習慣論に強い関心を示しており、西田が生前最後に発表し、未完に終わった論文「生命」の第三節の最後の部分を、ラヴェッソンの『習慣論』の忠実な紹介に充てていることにもここで注意を促しておきたい。このことは、西田が最後期においてラヴェッソンの習慣論をきわめて高く評価していたばかりでなく、ラヴェッソン固有の「習慣」概念の中に、自身の「種」の概念が孕んでいた重大な理論的欠陥、すなわち生物学的次元から社会的次元への無媒介の移行・拡張という欠陥を克服する契機を探ろうとしていたことを意味している。この問題については本稿の第五章で詳しく考察する。

 最後期の西田哲学において、能動的習慣は行為的直観と重ね合わされ、歴史的生命の立場から位置づけ直されている。この新たに導入された観点は、単に能動的習慣という一概念についての解釈の修正を意味しているだけではなく、行為的直観という概念の導入とともに生じた西田哲学の立場の転回の方向性をよく示している。
 場所の論理に至るまでの西田は、能動的自己の内的経験から、いかにして自然的世界を含めた現実的世界の認識へ到達するかという問題を、自覚概念を深化、拡張する方向で探究し、その途上でビランの能動的習慣を能動的自己の自己超越の契機として取り込もうとしたことは先に見た通りである。この方向性は、場所の論理によって主観主義の立場が決定的に克服されて以降、批判的に検討し直され、ビランの「内的人間」もまたその論脈において俎上に載せられたが、後期においてはまだ、この内から外へという方向性が充分に克服されているとは言いがたい。
 ところが、先の引用から明らかなように、最後期において、能動的習慣は、能動的自己が世界へと自己超越する契機としてではなく、まったく反対に、「世界の自己限定」として定義される。この転回を可能にしているのが行為的直観という概念にほかならない。この理論的にきわめて生産性のある概念によって開かれたパースペクティヴの中で、能動的習慣は、行為的直観を原理とする世界の自己形成過程における世界の自己認識の一形式として捉え直される一方、その形式の固定化は、世界に自己認識をもたらした原初的能動性の顕現を阻害するという否定面を併せ持つことが明らかにされるようになったのである。しかし、行為的直観は、能動的習慣に還元されるものではなく、習慣の確立とともに失われざるをえない原初的能動性の表現の可能性の条件なのである。最後期の西田哲学は、このようにして、内在性に徹底するビラン哲学の論点を取り込みつつ、その限界点を超えて展開されてゆく。
 では、習慣の世界の知覚的中心として行動する自己身体は、歴史的自然の世界においてどのように自らを表現するのか。自己身体を表現的世界の中に位置づけるのに、その対立的で不可分な両側面を考察するだけで十分なのであろうか。これらの問題については、メルロ=ポンティの現象学的存在論の光の下に最後期西田哲学における自己身体の問題を取り上げる次章において詳しく検討することにして、次節では、その予備的考察として、ビランの内感の哲学と西田の自覚の哲学が交差する地平に今しばらくとどまりつつ、そのハイブリッドな性格と複合的な機能がそれを内在性にも外在性にも還元することを許さず、それゆえ一つの固有の空間として取り扱われることを要求する「自己身体の内的空間」が西田哲学では問題とされえない理由をより精確に捉えておこう。