内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(八)

2014-04-22 00:00:00 | 哲学

1. 2 身体と世界との根本的関係(4)

 道具を媒介とした身体と世界との弁証法的関係の問題に立ち戻ろう。西田の身体論と道具論とが重なり合う問題領域の特徴がよく表れている論文「論理と生命」の一段落の読解を通じて、この問題を今一度考えてみよう。まず、その段落を一切省略なしに全部引用する。

我々は道具を以て物を作る。我々が物を道具として有つと云ふ時、我々の身体をも道具として有つ。我々の身体は外から見られるものである。作業的要素と作業的要素との結合から又作業的要素を生ずる。而して新なる作業的要素も亦その世界に於てあるものであり、作業的に働くものである。此の如く考へられた世界に於て、我々が働くものとして、最初の出立点として考へた身体的要素といふものも、亦この世界に於ての作業的要素の結合として造られたものである時、この世界は自己自身を限定する世界である、即ち客観的世界である。それは自己自身を形成する世界である。その不変なる形が、その世界に於ての法則と考へられるものである。身体的要素といふものは、此の如き群論的世界に於ての同一元素の如きものと考へることができる。かゝる一般者の自己限定の世界が演繹法的論理の世界である。身体的なるものが、その世界に含まれるのである。個物的なるものが一般的なるものに含まれるのである。我々が物を道具として有つといふ時、我々は何処までも世界を道具として有つと云ふことができる。併し世界が自己の身体となるといふことは自己がなくなることである。そこでは却つて自己が世界の自己限定として限定せられるのである(全集第八巻四五頁)。

 西田は、ここで、いわゆる不変の客観的世界になぜ創造性がもたらされうるのかという問題を、世界の論理的構造の内側から解き明かそうと試みている。この問題は、しかも、必然的に、主体性は世界のどこにどのようにして生れるのかという問題を包含している。このような文脈の中で、世界における身体的要素の機能がこの段落で問われている。注目すべきなのは、西田は、この問題に対して、人間の身体的機能から物としての道具との関係を介して世界における人間身体の機能を理解しようとする、いわば人間中心主義的な方向とは、まったく逆方向の探究姿勢を取っていることである。〈身体〉の固有性を世界の論理的構造から導き出そうとしているのである。つまり、世界を構成する諸要素のうちの一つの要素として、それら諸要素との関係において、身体性を規定しようとしているのである。
 身体が他の諸要素と一義的に決定可能な不変の関係性しか持たない次元が、いわゆる客観的世界に対応する。この次元にとどまるかぎり、世界は一定の法則に完全に支配され、そこに創造性はありえない。そこでは、当然のことだが、世界に新たな特異性・非連続性をもたらしうるものとしての〈身体〉は、そのようなものとしてまったく機能し得ない。しかし、それは身体性の欠如あるいは不在を意味するとは考えないところに西田哲学の一つの独創性がある。身体的要素は、いわば世界制作の「零度」として、その他のすべての諸要素をそのそれぞれの在所においてそのように在らしめていると西田は考えるのである。この意味において、西田は、身体的要素というものは、群論的世界の同一元素(単位元)ようなものだと言っているのだ。世界を構成するすべての要素に、身体性はいわば〈零〉として内含されているのであり、このことが世界の諸要素間の関係性の可能性の条件をなしている。〈身体〉は、いわば世界に遍在する微分された無数の場所であり、そのそれぞれが場所としての十全な働きを〈今〉〈ここで〉なしている、在るものをそのようなものとして〈そこに〉在らしめている。
 このように〈身体〉を規定するとき、それに対して、〈道具〉はどう規定されうるのか。それは、それまでの世界の諸要素間の関係性を変えうるものとしての可変項と規定することができる。ある道具の誕生は、世界の可変性の一つの新たな顕現であり、その顕現は、単位元としての世界の身体性に基礎づけられている。ある道具が世界に導入されると、世界の諸要素間の構成形態が何らかの仕方で変化を蒙る。その道具の使用者としての身体にも変化が生じる。しかし、そのような道具を介しての身体と世界の諸要素間の関係の変化をこの世界で可能にしているのは、世界の分節化の可能性の条件としての世界の身体性なのである。
 道具を介しての身体と世界の諸事物との関係は、身体が道具を使って物に働きかけるという一方向的な関係に還元されうるものではなく、身体がその使う道具によって、その道具を使うことそのことを通じて、いわば道具的連関の世界の一要素として働くことになるという弁証法的関係であり、このような関係は、単位元としての世界の身体性を可能性の条件としてはじめて成立する。

 この節の締め括りとして、ここまで論じてきた世界の身体性に基づいて、人間の行為的身体の固有性を要約しておこう。人間の行為的身体は、受容的かつ能動的、対象的かつ主体的な存在であり、歴史的生命の世界の初源的な知と原初的な力能との焦点である。人間の身体が初発の意志として自らを能動的であると感じることができるのは、その同じ身体が、歴史的にその都度ある仕方で限定された道具の世界の中で行動するように条件づけられているという意味で、受容的であるかぎりにおいてである。人間の身体が世界を包括する意識の主体でありうるのは、その同じ身体が、歴史的世界の中のある場所ある時代にある仕方で、限定された対象であるかぎりにおいてである。人間の身体が何かを形作ろうという意志を有つことができるのは、その同じ身体が事物の世界に投げ込まれているかぎりにおいてである。行為的直観は、行為的身体とそれを取り巻く諸事物との間の弁証法的な関係からなっているのであり、この関係は自己形成的な歴史的生命の世界において把握されるべきものである。