内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

言い表し難い生の奥処 ― ヴァージニア・ウルフとマイスター・エックハルト(一)

2016-08-20 11:08:39 | 読游摘録

 昨日紹介したマイスター・エックハルト全ドイツ語著述仏訳の巻頭に置かれた Eric Mangin による序論にヴァージニア・ウルフの作品への言及が見られる段落が現れるのは、人間の知性による表現が不可能な神性とまさにそれゆえにこそ魂のうちに自覚されるその現前との間の緊張関係が問題とされた段落の直後である(op. cit., p. 29-30)。それは、そのような緊張関係が文学における深い直観においても見られると序論の筆者は考えるからである。
 主に参照されている作品は、ウルフの代表作の一つ『波』である。六人の男女のモノローグからなり、それぞれのモノローグで語られるのは自分以外の人物たちについてで、己自身については語られないという極めて特異な形式の作品である。
 しかし、序論では、そのような作品構成の特異性はまったく無視されており、ウルフの文学作品に通底するテーマと Mangin 氏が考える、生の捉えがたい奥底を表現しようとする絶え間ない努力を『波』の中にも氏は見出そうとする。
 当該段落の氏の所説を今日明日の二回に分けて追ってみよう。
 ウルフの文学的努力の形は、氏によれば、寄せては返す波とそれに対する態度として表象される。心の中で揺れ動き砕ける波を感じること。その囁きに耳を傾けること。そして、波が引いたとき、姿を現した風景の痕跡を一瞬知覚すること。
 すべては過ぎ去り、すべては永久に変わりゆく。生とは絶えざる遁走であり、常に流れ行くものである。人間は、どのようにして己のうちで波うちつつ流れ行くこの生の流れに対して戦うことができるのか。
 さらに恐ろしいことには、そもそも自己について、私たちの心の奥底で逆巻くものについて私たちは語りうるのだろうか。私たちが何であるのかは到底知り難い。おそらくは、本質的なことは私たちの手を逃れることを認めなくてはならないだろう。恒常的な何ものかに到達することは不可能であり、言葉は常に諸事象の複雑さを前にして不十分であろう。
 しかし、まさに生を言い表すことのこの困難さが、徐々にではあるが、書くとはどういうことか、つまり、思考の暗がりの細道を辿り、魂の内奥で起こっていることを探索するとはどういうことなのかという問いに対する答えを描き出していく。
 かくして、書くことによって私たちは存在の奥処へと降りてゆき、何ものかが現前する場所へと到達する。