Mangin 氏の序論の続きを読む。
昨日の記事の末尾で、エックハルトの中高ドイツ語テキストの文学的美しさに言及したが、エックハルト自身に文学的企図があったわけではもちろんない。そもそも中世に書かれた述作類に対して「文学」という概念を適用すること自体、必ずしも自明なことではない。
とはいえ、エックハルトの著述に見られる特異な表現の数々は、教化を目的とした単なる修辞として片付けることもできない。魂において感受された神の現前とその言語による掌握不可能性の自覚との緊張関係は、エックハルトのドイツ語著作の主たる特徴とさえ言うことができる。
それらの著作は、それ自体は言表不可能な主題による無限の変奏曲として読むこともできる。そのように読むとき、言語の厚い壁の向こう側に、自らを言い表そうとする何ものかの壊れやすく儚い痕跡を感知するに至ることがある。
「誰がその御言葉を言い表すことができるのか。誰もできない、その御言葉そのもの以外は。」(説教五三)
L’esprit doit continuellement dépasser et aller au-delà, cette aventure peut parfois même être douloureuse, et dans tous les cas il ne peut y avoir de repos pour celui qui cherche à dire ce qui est présent au plus profond de lui. Ne jamais se reposer, toujours dépasser, traverser les apparences et passer sur l’autre rive (Mt 14,22)... (op. cit., p. 32)