昨日の続きで、Maître Eckhart, Sermons, traités, poème. Les écrits allemands, traduction de Jeanne Ancelet-Heustache et Éric Mangin, introduction et notes d’Éric Mangin, Éditions du Seuil, 2015, 864p. の序論の中でヴァージニア・ウルフが取り上げられている段落の続きを読む。
生を表現することの困難さを実感し、その表現にとっての言葉の不十分さを自覚し、それにもかかわらず書き続けることで、書く者は、何ものかがそこで本当に現前する存在の奥処へと降りてゆく。
すると、ある時突然に、「共感」(« communion »)が生じる(この仏語はカトリック世界では第一義的に「聖体拝領」を意味する)。それは、諸々の他者及び万物との邂逅である。しかし、それは壊れやすく儚い一致でしかない。
その瞬間、時間の流れは一時的に止まり、恒常的な何ものかが私たちのうちに降臨する。
ヴァージニア・ウルフの作品は、真実へとさらに一層近づくことを一個の人間に可能にする現在の瞬間の力を強調する。その現在の瞬間の力は、それによって真実へと近づくことで、生をまさにあるがままに愛することを可能にする。それがもたらすものは、生に対する同意であり、生への頌歌でさえある。« La vie est agréable, la vie est belle. »
序論の筆者 Mangin 氏は、ヴァージニア・ウルフとマイスター・エックハルトとの間に語彙における驚くべき親近性を認め、生を表現することに対する同じ困難を両者の述作の中に見出している。
しかし、なぜ、Mangin 氏は、マイスター・エックハルトの思想を解説する序論の中に一頁余りも割いてヴァージニア・ウルフに言及したのか、結局のところ、私にはよくわからない(上田閑照氏のようにシモーヌ・ヴェイユに言及するのならばよくわかるのだが)。なぜなら、まさに氏がそれを見出したと信じたところで両者は決定的に乖離するとしか私には考えられないからだ。
一切からの離脱、そして神性への突破を説くエックハルトと、生への高揚と絶望との間に終生引き裂かれ続け、悲劇的な最後を遂げるウルフとの間にあるのは、その語彙的親近性にもかかわらず、二つの異質な精神的気圏を隔てる深淵であろうと私は考える。