昨日の記事では、言表不可能なものに迫ろうとする表現においてヴァージニア・ウルフとマイスター・エックハルトとが親近性を有するという Mangin 氏の主張に関して私は同意しがたく、批判的な言辞を弄した。
一昨日と昨日取り上げた段落の直後の段落で、同氏は、エックハルトの述作に見られる表現に話を戻し、独語説教からのいくつかの引用を重ねながら、エックハルトが言語の不十分さを自覚しつつどのように言表不可能なものへと迫ろうとしているかを例証しようとしている。その例証自体は、もはやウルフとの比較は抜きにして検討することができる。
氏は、その段落で、多くの専門家たちによってエックハルトに帰されている唯一の詩(ラテン語で書かれた同詩の注釈において Granum sinapis[『芥子種』]という題が付されている)に特に行数を割いている。「詩において、作者(=エックハルト)は、きわめて簡素な仕方で神の現前とその把握不可能性との間の緊張を表現している。」(op. cit., p. 31)
その詩の最終節において、何かが言葉の覆いを貫いて己自身を語り始めるに至る。それは、人と神との、本来あまりにも互いに近い人と神との、壊れやすく儚い照応の瞬間である。その詩の最終節で「私」は神にこう呼びかける。「私があなたから逃れれば、あなたは私のもとへと至る。私が己を棄却すれば、そのとき私はあなたを見いだす。」
言葉による表現は、しかし、この照応の瞬間を持続させることはできない。ましてやそれを永遠化することはできない。言語は生の経験に対する距離を導入してしまう。生はまたしても私たちから逃れてゆく。しかし、まさにこの照応の瞬間の壊れやすさと儚さがこの詩に文学的な美しさを与えていると Mangin 氏は言う。