内的自己対話-川の畔のささめごと

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マイスター・エックハルトあるいは内奥の深み

2016-08-25 17:34:10 | 読游摘録

 マイスター・エックハルト独語全著述仏訳一巻本の編訳者である Éric Mangin 氏は、Maître Eckhart ou la profondeur de l’intime (Éditions du Seuil) という大変美しいエックハルト研究を2012年に出版されている。
 タイトルにある « l’intime » は、エックハルトの精神的人間学の中核をなす概念であり、著者はそれについて序論で丁寧に説明している。この概念を通じてエックハルトの全著作を読み直し、特にエックハルト思想の基軸である「離脱」経験について考察することができると著者は考える。
 フランス語の intime は、ラテン語の intimus の訳であり、このラテン語は interior の最上級である。それはまたドイツ語の innersteinnigeste との訳でもあり、それぞれ innerinnic という形容詞から派生した実詞である。したがって、 « l’intime » は、「最も内なるもの」(« ce qui est le plus intérieur »)と定義することができる。日本語に訳すとすれば、「内奥」となるであろうか。
 エックハルトはこの語を他の語と結びつけて用いることがしばしばあるので、それらの用法からさらにこの語についての理解を深めることができる。例えば、内奥とは、「最も純粋なもの」「最も高きもの」の同意語である。さらに、「第一のもの」「純一なるもの」「最も深きもの」「最も甘美なもの」「最も自然なもの」「最も豊穣なもの」とも言い換えられる。
 それゆえ、内奥は、一人の人にとって最も内密なものであると同時に最も普遍的なものとしてエックハルトのテキストに現れる。言い換えれば、内奥は、あるものの同一性を、それ固有の特異性によってではなく、そのものがそれを通じで他のすべてのものと繋がるものが顕にされる場所なのである。内奥は、したがって、あるものが永遠にそうであるところのもの、本質的にそうであるところのもの、そのもののうちの創造に因らない何ものかが明らかになる処なのである。