内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「平和な近代生活」の中で想像力を働かせる

2016-08-06 07:14:34 | 読游摘録

 今日も暑い日になるとの天気予報。この記事を書いている午前7時の時点ですでに気温は27度。蒸し暑い。さらに暑くなり思考力が低下する前に、ギルバート・マレー『ギリシア宗教発展の五段階』の一節を読んでみよう。
 平和な近代生活の中で古代ギリシア人たちの生活の不安定さを想像することは確かに容易ではないだろう。しかし、安全な生活が当時とは違った意味で必ずしも保証されなくなった現代社会に生きる私たちは、その原因について必ずしも明確な認識をもっているわけではない。その認識の欠如が不安、恐怖、憎悪を増幅し、敵を生み出し、犠牲を捧げる「祭壇」を作らせる。

The extraordinary security of our modern life in times of peace makes it hard for us to realize, except by a definite effort of the imagination, the constant precariousness, the frightful proximity of death, that was usual in these weak ancient communities. They were in fear of wild beasts; they were helpless against floods, helpless against pestilences. Their food depended on the crops of one tiny plot of ground; and if the Saviour was not reborn with the spring, they slowly and miserably died. And all the while they knew almost nothing of the real causes that made crops succeed or fail. They only felt sure it was somehow a matter of pollution, of unexpiated defilement.

平和時の私たちの近代生活が尋常以上に安全なために私たちははっきりと想像力をはたらかせようと努力しなくてはこれらの力弱い古代社会に普通であった絶え間ない死の不安や恐ろしい身近さを実感することは困難であろう。彼らは野獣を恐れていた、彼らは洪水に対し、疫病に対して無力であった。彼らの食料は一片の矮小な土地の収穫に左右されていた。そしてもし救い手が春と共に更生しなかったならば、彼らは徐々に惨めに死んで行くのであった。そしてその間中彼らは収穫を成功させまた失敗させる真の原因についてほとんど何も知らなかった。彼らはただそれがともかくも穢れや贖われない不浄の問題だと確信していただけである。(岩波文庫、藤田健治訳)