古代ギリシアの詩文・芸術・哲学ではなく、その宗教の起源という、二千数百年の時の隔たりと西洋の揺籃の地という空間的隔たりとによってその理解が二重に困難にされている対象について学ぶことが今の私たちに何をもたらしてくれるのか。それは、人間精神を今もその奥深くから突き動かしている変わらぬ精神の暗部への通路であろう。その暗部に光を当てるに十分な資料が古代ギリシアには見いだされる。ギルバート・マレーの『ギリシア宗教発展の五段階』の一連の論考は、そのような確信に裏づけられている。『五段階』を読むことは、それゆえ、自分たちが今もなおに何によって動かされ、どんな「集団的欲望」にしばしばそれと知らずに左右されているのか、改めて考える機会を私たちに与えてくれるだろう。
次の一節を読んで、それを私たちとはまったく無縁な遠い昔の未開の心性についての記述に過ぎないと私たちは言い切ることができるだろうか。
'The collective desire personified': on what does the collective desire, or collective dread, of the primitive community chiefly concentrate? On two things, the food-supply and the tribe-supply, the desire not to die of famine and not to be harried or conquered by the neighbouring tribe. The fertility of the earth and the fertility of the tribe, these two are felt in early religion as one.
「擬人化された集団的欲望」、どんなものに原始共同社会の集団的欲望または集団的畏怖が主として集中するのであろうか。二つの事の上に、すなわち食料の供給と種族の供給、飢えて死にたくないという欲望と隣接する種族によって蹂躙されまたは征服されたくないという欲望がそれである。大地の豊穣と種族の繁栄、この二つは早期の宗教では一つと感ぜられる。(岩波文庫、藤田健治訳)