内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

白紙答案にエコポイントを ― 地球環境にやさしい試験答案対策の提案

2022-11-10 22:22:49 | 講義の余白から

 万聖節の休暇直前の試験週間に行われた中間試験の答案を今日学生たちに返した。授業のはじめに、「答案返すから、取りに来てください」と言うと、みな一斉に教壇に駆け寄ってきて行列ができた。一通り答案受領が済んだ後、一時間かけて詳細な講評と解説を行った。
 受験者は53名。うち28名が20点満点で合格最低点の10点以上。最高点は19,4(100点満点に換算すると97点、最低点は0,4(同2点)、平均点9,6点(同48点)。現今の日本の大学だと、これはありえないほど厳しい採点ということになるのかも知れないが、フランスの大学ではごく平均的な結果である。
 完全な白紙答案はなかったが、ほとんど白紙に近い答案は数枚あった。それでも何か書いてあれば零点にはしなかった。問題となんの関係もないことが書いてある答案もあったが、その場合、字が綺麗で、書いてあることにそれなりの筋が通っていれば、「インク代」あるいは「手書き代」として小数点以下の点を贈呈した(大盤振る舞いである)。
 白紙に近い答案は採点が楽である。採点に1分とかからない。教師思いであるとさえ言ってもよい。ところが、くそ汚い字で何やらいっぱい書いてあると、一応読まざるを得ない。読んだ結果、デタラメであることが判明すると、教師も人間である、ふつふつと怒りが湧き、結果、採点は厳しくなる(といっても、2,4が2,2になるくらいの話である)。ただ、こちらの怒りを伝えるために、極太の赤ペンで答案用紙を切り裂くように大きなバツをつけたくもなる(実際にはしない)。
 白紙に近い答案もデタラメな答案も、氏名・学籍番号が記してある。これを忘れた答案はなかった。というか、答案提出時にこちらがチェックするので、名無しの権兵衛はまずありえない。それに、答案とは別に、受験したことを証明する署名用紙がある。試験中にこちらが巡回してこの用紙に署名させる。これは不正がないか監視する意味もある。
 提出することがほぼ無意味なこれらの答案を見て溜息まじりに思った。これは資源の無駄遣いである、と。どうせ真面目に解答する気がないのならば、氏名も学生番号も記さず、再利用が可能なまっさらの答案用紙を返すほうがエコロジカルではないか。
 そこで思案した。そのような箸にも棒にもかからない学生たちには、答案用紙を汚すことなくそのまま返却させる手立てはないものか、と。
 たとえば、彼らには試験時に「白旗」を持参させる。問題を見て「こりゃダメだ」と思ったら、答案用紙に氏名・学籍番号を記入する前にその白旗を挙げさせる。すると、私は署名用紙をもってその学生のところに行き署名させる。署名すれば、直ちに退出してよいとする。こうすれば、答案用紙はまっさらのままであるから、別の試験に使える。
 ただ、これだけの措置では、デタラメを書きなぐってわずかでも点数を稼ごうとする反エコロジカルな輩は応じないであろう。そこで、まっさらな答案用紙を返却した場合には、エコポイントとして1点(20点満点中の1点である)贈呈することにしてはどうであろう。
 賭けてもいいが、少なくとも数人はエコポイント欲しさに白旗を挙げるはずである。何の努力もせずに、「エコポイント、ゲット。 ラッキー!」と喜ぶはずである。かくして、数枚の答案用紙が浪費されることもなく、教師が採点のために消費するエネルギーもそれだけ減少する。
 これは地球環境にやさしいきわめて現代的な妙案ではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


罪浅からぬ哲学講義

2022-11-09 23:59:59 | 講義の余白から

 修士の演習で中井正一の『美学入門』を読んでいると以前このブログにも書いたことがあるが、実のところ、教室で本文を読んだのは最初の一回だけで、あとはテキストから何を問題として取り出すことができるか、どのようなテーマを発展させられるか、という話が中心で、学生たちにもその線に沿って発表してもらっていた。そして、万聖節前の演習と今日の演習では、私自身が中井のテキストに刺激されてどんなことを考えたか話した。前回は、『陰影の現象学』と題して、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』とメルロ=ポンティの『眼と精神』を交叉させることで開かれてくる現象学的美学の話をした。今日は、シモンドンの技術の哲学と個体化の哲学とに依拠しつつ、自然の技術性と技術の本性についてのシモンドンの考えを紹介した。予定ではそこからさらにどのような美学思想が引き出せるかまで話すつもりだったのだが、話しているうちに浮かんできた考えに話が何度も逸れてしまったので、美学思想については来週に回した。テキストを読んでいるときもそうなのだが、シモンドンは私の思考をよく刺激してくれて、いろいろとアイデアが浮かんできてしまうのである。学生たちにはいい迷惑に違いない。なんで日本学科の演習で哲学の講義を受けなくてはならないのかと内心不満に思っているであろう。残念ながら、三木清の技術の哲学と構想力の論理について話し終えるまでは哲学講義が続くのである。あと三回は必要だ。彼らにとっては生き地獄であろう。しかし、安心したまえ。この罪浅からぬ哲学講義ゆえに最終的に地獄に落ちるのは私の方であろうから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


読む薬としてのモンテーニュ

2022-11-08 23:59:59 | 読游摘録

 モンテーニュは日本で今もよく読まれていることは、『エセー』の翻訳が複数流通していることだけでなく、モンテーニュ関連書籍が近年も少なからず出版されていることからも想像できる。
 本国フランスではもちろんのこと、モンテーニュ関連の出版物はとても多い。ただ、学術的な研究でしばしば引用される PUF 版原文は16世紀のフランス語表記を尊重している(この版には今日の専門家の間では批判がある)が、この表記法は一般のフランス人にとっては『エセー』を近づきがたい古典にしてしまっている。そこで表記を現代化した版や一部の表現を現代フランス語に置き換えている版も多数ある。私はただの素人であるが、『エセ―』は、PUF版以外に、Pochothèque 版(2001年)、Arléa 版(2002年)、Pléiade 版(2007年)Folio classique 版(2009年)が手元にある。それに加えて、Gallimard « Quarto » 版と Robert Laffont « Bouquins » 版の現代フランス語版も所有している。今月に入って、Le dictionnaire des Essais de Montaigne, Éditions Léo Scheer, 2011 と Dictionnaire Montaigne, Classiques Garnier, « Classiques jaunes », 2018 とが私の「モンテーニュ・コレクション」に加わった。これらの書籍はすべて仕事机の上か、机前に座ったままで手が届く書架に並べられている。神経を使う仕事で頭が疲れたときにふとそのいずれかを手にとって数頁読む。そうすると疲れた頭が癒される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


一つのカタルシスの経験としてのドラマ鑑賞

2022-11-07 18:40:36 | 講義の余白から

 万聖節の休暇明け初日の今日、学部三年生向けの日本語のみで行う授業があった。年度当初の予定を昨日になって変更して(この辺、シラバスに拘束されない自由のありがたみを噛みしめています)、今週から三回、「日本人の死生観」という共通タイトルのもと、「生まれてすぐに消えゆくいのち」「生まれてきた意味」「死者を送るということ」というテーマをそれぞれの回で扱うことにした。
 今日は休み明けの初日だから、日本語の音に対して学生たちの脳を再起動させる必要があるかと、いくつかのテレビ番組のサンプルを授業の枕として視聴させた。
 金曜日の授業で中間試験前に対馬のことを扱ったのだが、ちょうど対馬をテーマとした10月22日放送の「ブラタモリ」がアマゾンプライムの中のNHKオンデマンドのコレクションで視聴可能だったので、その出だしを視聴させた。テキストや地図や写真だけではわからない今の対馬の風景が映し出され、学生たちも興味を示してくれた。
 次に紹介したのが、10月からのクールでいちばん話題になっているドラマ『Silent』の第一話と第二話のダイジェスト版だった。今の日本の空気を感じさせることにもなるかと思って選んだ。それぞれ五分とごく短いダイジェストだったが、驚いたことに、それを見ただけで泣き出した女子学生いた。なんの心の準備もないところに、何か彼女の心に直に触れるものがあったようだ。
 私もこのドラマはFODで毎週配信開始されるとすぐに視聴している。目黒蓮の演技がいい。主役の川口春奈はじめ、他の出演者たちも好演。あまり出番はないが、目黒蓮演ずる佐倉想の妹萌を演じている桜田ひよりに注目している。彼女は今後飛躍すると思う。個人的には、聾唖者を演じている夏帆さんが今後どのようにストーリーに絡んでくるのかが特に気になっている。
 今日の授業の「メインディッシュ」は清原果耶主演『透明なゆりかご』(2018年)。この作品は昨年度に続き今年の授業でも必ずどこかで取り上げるつもりでいたが、年度当初の予定よりも前倒しして今日にした。すべての回を紹介したいほどの名作だが、それは無理な話なので、30分ほどで作品全体の概要を紹介した後、最終回45分をまるごと鑑賞させた。VPNを使って日本向けネットフリックスで配信中の版を使った。アマゾンプライムでも視聴可能なのだが、ネットフリックスのほうにだけ日本語の字幕が付いていて、学生たちの日本語理解力を考慮すると、そのほうが鑑賞のためには好都合だからだ。
 今年の三年生は年度初めから全体として集中度の高いクラスだが、最後まで私語もなくよく観ていた。去年の三年生とは大違いだ。テーマがテーマだけに女子学生のほうがより集中して観ていたのは驚くにあたらないとして、作品に入り込んでしまってすすり泣きしながら、あるいはそれを必死に隠そうとしながら観ている子たちが何人かいたのには再び驚かされた。それはなによりも作品そのものの力によることだが、ほとんど言語の障害なしにストーリーがストレートに理解できたことも大きいだろう。男子学生も概して真剣に見ていた。
 学生たちにとって、ちょっと大げさに言えば、一つのカタルシスの経験だったのではないかと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


イングリッシュなニホンケンキュウにおいて完璧にオアコンである私

2022-11-06 23:59:59 | 雑感

 三日間のワークショップに「参加」と言えば明らかに言い過ぎであり、「陪席」と言っても白々しく、現実により相応しい言葉を厳正に選べば、初日は一応身体的に会場に形だけ出席し(それにもかかわらず、セッション後、レストランではしっかりデザートまで図々しくいただき)、二日目と三日目は、自宅で試験の採点その他雑用を片付けながら、ZOOMをオンにして発表をストリーミングのように聞き流していたという偽善的で不誠実この上ないアリバイ工作を行っていたに過ぎませんでした。これはワークショップのオーガニゼーションに問題があったからではなく、もっぱら私個人のパーソナルな問題です。
 ワークショップ一週間前になってようやく全発表のアブストラクトが送信されてきました。それをざっと読んで、「お呼びでないよなぁ~」と深い溜息をつき、それでも直前になってすべて欠席というのはちょっと角が立つかもしれないなあと、小心者の私は愚考し、初日だけはストラスブールからコルマールまで移動しましたが、正直に言うと、気も体も重かった。私なんか居なくてもまったくワークショップにとって問題ないし、その場に居れば居たで何か発言を求められかねないけれどそれはどうしようもなく鬱陶しかったからです。
 なんかもう、ワールドワイドなニホンケンキュウはイングリッシュが唯一の共通言語で、それでバリバリガンガン、バイリンガルみたいにディスカッションできるニンゲンしか、もう必要としていないんですよね。そういうユニフォームでクリアーでフレンドリーなコミュニケーションのセカイにおいて、母語以外辛うじてフランス語しかできない私は、議論の余地なく、「オアコン」なんだよね。
 この三日間のワークショップはそのような現実を罪もない藁人形に情け容赦なく楔を打ち込むごとくに私に思い知らせてくれたのでありました。
 ワークショップに参加された若く将来有望な研究者の皆さん、私があなたたちと再び相まみえることはないでしょうけれど、他人事ながら今後のますますのご活躍を心より祈念いたしております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「変換器」としての人間 ― シモンドン哲学のキーワード

2022-11-05 23:59:59 | 哲学

 トランスナショナリズムという言葉は、昨年の CEEJA のワークショップのテーマでも使われていて、それに触発されて書いたのが昨年10月25日の記事であった。「トランス」という接頭辞については、シモンドンの ILFIMEOT を真剣に読み始めた2016年からずっと気になっているのだが、トランスナショナリズムという言葉に出会って再びその関心が再燃した。
 このブログでも、シモンドンにおける transduction について度々言及している。特に2016年の四つの記事(2月24日25日4月2日5日6日)などではかなり詳細に分析してもいる。Le Grand Robert の transduction の項には、シモンドンの MEOT の次の一節が用例として採られている。

Or, dans un transducteur parfait, aucune énergie n’est actualisée ; aucune non plus n’est mise en réserve : le transducteur ne fait partie ni du domaine de l’énergie potentielle, ni du domaine de l’énergie actuelle : il est véritablement le médiateur entre ces deux domaines (…) C’est au cours de ce passage du potentiel à l’actuel qu’intervient l’information ; l’information est condition d’actualisation.
 Or, cette notion de transduction peut être généralisée. Présentée à l’état pur dans les transducteurs de différentes espèces, elle existe comme fonction régulatrice dans toutes les machines qui possèdent une certaine marge d’indétermination localisée dans leur fonctionnement. L’être humain, et le vivant plus généralement, sont essentiellement des transducteurs. Le vivant élémentaire, l’animal, est en lui-même un transducteur.

Du mode d’existence des objets techniques, Aubier, 1989, p. 143.

 この引用の中に出てくる « L’être humain, et le vivant plus généralement, sont essentiellement des transducteurs. » という一文からいろいろなことが考えられる。
 電気工学などでは、transducteur は英語の transducer の訳で、日本語では「変換器」と訳され、「音声信号を電気信号に換えるなど,ある物理量を他の種類の物理量に変換する装置の総称」である。人間が「変換器」であるとは、どういうことであろうか。
 「変換器」としての人間は、ある情報を別のコードに転換することによって、それまではコミュニケーションが成り立たなかった受容体にその情報を伝達する役割を担う。受容体は、情報の受容によって変容しうるものである。と同時に、その変容が成就することで変換器側にも変容が起こりうる。この変換・受容の過程は、人間という種内に限定されない。
 人間が単に A から B への既得情報の伝達の仲立ちあるいはメッセンジャーとして働くだけならば、人間は媒介者であると言える。しかし、伝達に不可欠な変換過程そのものにおいて情報が生成される場合、人間は単に情報の媒介者であるのではなく、情報生成の必然的な契機でもある。
 変換は、意識的・意志的・意図的なものに限定されるわけではない。生命体として実在するかぎり、ヒトは変換器として働いているのであり、ヒトだけではなく生命体はすべて変換器である。
 そして、この変換過程を通じて環世界全体に準安定状態が形成されたとすれば、変換器はそのための調整機能を果たしたことになり、この調整機能が可能なのは受容する側にそれを受け入れるだけの不確定性があったからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


エリア・スタディーズの政治的起源と近年日本における「地域研究」

2022-11-04 23:59:59 | 雑感

 今日は一日、コルマールのCEEJAでのワークショップに参加してきた。このワークショップは今年で五回目、私は初回から毎回オブザーバーとして参加している。主にヨーロッパの高等教育機関に所属している若手日本研究者たちに発表、相互交流、オブザーバーとのディスカッションの機会を提供することがその設立の趣旨である(今年のテーマと参加者についてはこちらのサイトを御覧ください)。
 初日の今日は、午前中の二つの発表の後、午後は、コーネル大学名誉教授の酒井直樹先生とイナルコのミカエル・リュッケン教授のキーノートという贅沢なプログラムであった。発表・質疑応答はすべて英語で行われた。
 酒井先生は昨年のプログラムにもアメリカからリモート講演をしていただいたが、今回は現地にお越しいただいた。キーノートの内容は、今年刊行された英語の最近著とその前身である日本語の著作『ひきこもりの国民主義』(岩波書店、2017年)の要点の紹介と出版にまつわるエピソードであった。
 私は、先生の発表内容そのものとはすこしずれてしまう関心からなのだが、発表の中で繰り返されたArea Study という言葉にずっと引っ掛かっている。去年のご講演を聴いた後にもことの言葉について一つ質問したのだが、今回のご講演を聴いて、その質問がいかに的はずれであったか、今にして悟ったという次第である。
 エリア・スタディという言葉は、今では日本でも広く使われるようになっているようで、大学の科目や学生の海外研修のプログラム名としてこの言葉が使われているのを見かけたことも何度かある。
 具体的にはどのような研究を指すのだろうか。例えば、『イミダス』では、「地域研究.一定の地域や住民について,文化的・経済的・社会的な諸資料を集めて実地研究をする」とある。しかし、これだけではまだ漠然としていてよくわからない。『小学館ランダムハウス英和大辞典』では、「ある地域についての,天然資源,歴史,言語,制度および文化的・経済的特徴などの人類学的または社会学的研究;人間生態学(human ecology)の実地研究分野」とより詳しい定義となっているが、この定義に拠っても、なぜある地域を研究対象とするのか、実際にどのような研究方法を用いるのか、まだよくわからない。
 『日本大百科全書』を見てみよう。

広義でとらえれば地域問題の研究であるが、本来は地理学の一分野として位置づけられていた。しかし、1930年代に国際関係論研究が促進されてくると、地理学を超えた形での地域研究が要請され、国際的視野に基づく地域および国家に関する歴史、政治、経済、社会制度、文化などの具体的かつ専門的情報を求めるための研究が推進された。国際関係論と相互補完関係にたつ地域研究は、30年代から第二次世界大戦にかけてアメリカで飛躍的に発展し、ミシガン大学の日本研究所をはじめとして多くの大学で地域研究組織が設立された。爾来 、今日に至るまで、おもに先進諸国において学際的研究を基盤とした地域研究が盛んに行われるようになっている。その結果、一定地域(あるいは国)の「個性」的側面が認識され、それに基づく世界秩序論や国際関係論が構築されつつある。日本においても大学や政府系の地域研究組織が活動しているが、近年、諸大学で国際関係論を主とする学部・学科が設立されているのにかんがみれば、それを補完する意味でも日本における地域研究は独特の視点と情報収集に基づきなおいっそうの進展を図らねばならないといえよう。

 この説明によって、どのような歴史的文脈の中で何を目的として生まれてきたのかその輪郭が見えてきた。
 『世界大百科事典』ではさらに詳しく説明されている。その「地域研究の歴史と課題」と題され節にはこうある。

〈地域研究〉の名称で総括される学問動向の歴史はまだ浅く,学術・教育体制の中に確立された地歩はどこの国にもまだないが,研究上の趨勢としてはすでに不可逆である。第2次大戦中に〈汝の敵を知れ〉という軍事・政治的要請を契機に,アメリカ,イギリス,フランスなどで,臨時に大学に設けられた非西欧諸国の現代口語と各国事情の細目にわたる知識の速修講座が〈地域研究〉の直接の基礎になったが,遠くは1919年のメキシコ革命に伴ってもたらされた地域情報と展望分析,ユカタン半島その他のインディアン研究にその起源はある。第2次大戦後に,それがソ連・東欧研究,中国研究などの異なる政治イデオロギー圏の研究,ならびに日本,東南アジア,アフリカ,ラテン・アメリカ研究などの〈現代〉地域研究として定着した。

 これを読むと、もともとエリア・スタディーズは世界のすべての地域を対象としていたのではないことがわかる。その背景には明らかに先進諸国の一部の地政学的あるいは政治的要請があった。そこからわかることは、これらの先進諸国にとって、エリア・スタディーズはその成立の条件と目的からして、自国はその対象にはなり得ないということである。
 もともとのエリア・スタディーズと近年日本で「エリア・スタディ」あるいは「地域研究」の名の下に行われている研究教育とはほとんど別物だと言わなくてはならない。もちろん、上掲の先進諸国で発展させられた研究方法から学ぶべきところは大いにあるだろう。しかし、それをただ適用あるいは応用するだけでは、エリア・スタディーズの政治的起源について内在的に批判する観点は構築できない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


査読は何のためだと考えて私は引き受けているか

2022-11-03 17:23:51 | 雑感

 年に何回か学術雑誌から査読を頼まれる。原則としてすべて引き受ける。なぜなら、フランス語圏における或いはフランス語による日本研究の諸分野の中で、私が属している分野に関してその学問的水準に自ら責任をもつべきだと考えるからである。自分の論文が査読の対象になることも同じ理由で当然のことだと思う。
 お互いの研究を厳正に評価し合うのは、自分たちがそこで仕事をしている分野の水準を保ち、健全な学問環境を維持するためである。できればそこからさらなる発展と向上を目指したい。もっとも、現実はもっと微妙であり、恥知らずな事件が世間を騒がせることもあれば、権力の濫用の犠牲者たちがいることも知らないわけではない。ただ、そういう話をこのブログで取り上げる気がしない。
 今月末と来月五日がそれぞれ締め切りの査読がある。前者の論文は半分ほど読み終えた。最後まで読むまでもなく、結論は出ている。没である。呆れるほどフランス語の綴りの間違いがあり(自動スペルチェックで簡単に避けることができるレベルである)、文法的にも稚拙な間違いが目立つ(自動詞と他動詞の用法に混乱があり、代名動詞の使い方もよくわかっていない)。一言で言えば、フランス語で論文を書くレベルに達していない。こういう代物を平気で提出する無礼さ・無神経さには腹も立つ。
 それでも、内容的に見どころがあれば、指摘された箇所を書き直すという条件付きで掲載可という評価にすることもできる。しかし、今回のケースはそれも無理だ。まあ、贔屓目に見て、修士論文だったら合格にしてあげてもいいけれど……というところである。内容を少しでも明かすと、万が一誰の論文か特定されないとも限らないから、守秘義務上これ以上は語れない。
 一つだけよかったことがある。それは、フランスのある高名な哲学者からの引用がやたらとあって、そこはさすがに本物の一流のフランス語だから安心して読めたことである(ただし、引用頁が間違っている箇所が数か所あった)。引用されている原書はすべて手元にあるので、確認のためにそちらを読んでいるときは楽しくさえあった。
 だから、この査読が時間の浪費だと嘆いてはいない(あっ、念のために言っておきますが、まったくの無報酬ですよ)。それどころか、引用されていた既知のテキストを新たに読み直す機会を恵まれたことをちょっと感謝したいくらいである(これは皮肉ではない)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


モンテーニュとホラティウスから「痛棒」を喫する

2022-11-02 06:36:36 | 哲学

 中間試験の答案の採点やら査読やら、万聖節の貴重な一週間の休暇の間にやっておくべきことがあり、それらを一昨日箇条書きにして溜息をついていたところ、シモンドンについてのとても興味深い論文二本にネット上で出逢ってしまって、それだけでも想定外で興奮するやら困惑するやら心が乱れていたのに、その論文の筆者の手引きでシモンドンからホラティウスの詩句へと導かれ、そういえばモンテーニュはホラティウスをよく引用していたなと、『エセー』を紐解いてホラティウスの詩句を引用されている箇所の前後を読んでいると、「やっぱりモンテーニュっていいよなあ」と仕事そっちのけで『エセー』に読み耽りそうになり、「まずいなあ、この展開」とかすかな罪悪感がうごめき始めたと思ったら、さすがモンテーニュ、ちゃんと「痛棒」を用意しておいてくれました。第一巻第二五章「子供の教育について」の次の一節にしたたか打ちのめされました。モンテーニュとホラティウスに感謝申し上げます。

もしもわれわれが、いわば人生の領分を、その正当で、自然な範囲に制限することができるならば、現在おこなわれている学問の大部分が、われわれの役に立っていないことに気づくでしょう。いや、役に立っている学問のなかにさえ、いっそのこと、そのままうち捨てておけばいいような、あまり無用な広がりやら、深みがあることがわかるはずです。ですから、ソクラテスの教育法にしたがって、われわれの勉学という川の流れを、有用性の欠けるところでせき止めてしまったほうがいいのです。

ためらうことなく賢くなれ。始めるのだ。正しく生きることを延期する人間は、川の流れがやむのを待つ田舎者のようなもの。されど川は流れ、転変しつつ永遠に流れていくであろうから。(ホラティウス『書簡詩集』一のニの四〇-四三)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ホラティウスからモンテーニュへ

2022-11-01 23:59:59 | 哲学

 ホラティウスと言えば、モンテーニュの『エセー』の中で、ウェルギリウス、オウィディウス、ルクレティウスらと並んで最も頻繁に引用される詩人の一人だ。
 例えば、第一巻第一九章「哲学することは、死に方を学ぶこと」には、『カルミナ』から次の一節が引かれている(以下、引用はすべて白水社版『エセー』宮川志朗訳から)。

だれもが同じところに押しやられて、全員の運命のつぼが振られ、遅かれ早かれくじの結果が出て、われわれは永遠の破滅へと向かう小舟に乗せられるのだ。

 これは死の不可避性がテーマとなっている文脈での引用だ。同じ章の少し先には同じく『カルミナ』からこんな引用もある。

もちろん、それは逃げる兵士を追いかけるし、戦争がいやな若者の足元も、おびえる背中も容赦しない。

 その直後に、モンテーニュは、「どんな頑丈なよろいだって、あなたを守ってはくれないのだ。《いくら用心深く、鉄や青銅で身を固めても、死は、そうやって守られた首を引き抜いてしまう》(プロペルティウス『詩集』三の一八の二五-二六)のだから、毅然として死を受けとめて、これと戦うことを学ぼうではないか」と読者に呼びかける。そのための方法について具体的に述べた後にまたホラティウスを引用する。今度は『書簡詩集』からである。

明けゆくその日が、おまえにとっては最後の日だと思え。そうすれば、思いがけぬ時間が訪れて、感謝することになる。

 この引用に続けてモンテーニュは言う。

どこで死が待ちかまえているのか、定かではないのだから、こちらが、いたるところで待ち受けよう。死についてあらかじめ考えることは、自由について考えることにほかならない。死に方を学んだ人間は、奴隷の心を忘れることができた人間なのだ。いのちを失うことが不幸ではないのだと、しっかり理解した者にとって、生きることに、なんの不幸もない。死を学ぶことで、われわれはあらゆる隷属や束縛から解放されるのである。