内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

みじめさ・気晴らし・倦怠 ―『パンセ』の一断章より

2023-07-11 23:59:59 | 哲学

 『パンセ』に「みじめさ Misère」と題された断章がいくつかあるが、その一つ(セリエ版33、ラフュマ版414、ブランシュヴィック版171)のなかで、みじめさと気晴らしと倦怠との相互関係というか悪循環が簡潔に示されている。

La seule chose qui nous console de nos misères est le divertissement, et cependant c’est la plus grande de nos misères. Car c’est cela qui nous empêche principalement de songer à nous, et qui nous fait perdre insensiblement. Sans cela nous serions dans l’ennui, et cet ennui nous pousserait à chercher un moyen plus solide d’en sortir, mais le divertissement nous amuse et nous fait arriver insensiblement à la mort.

みじめさのうちにある私たちを慰めてくれる唯一のもの、それは気晴らしである。しかしながら、それこそ私たちの最大のみじめさだ。なぜなら自分のことを考える第一の妨げとなり、知らず知らず私たちを破滅させるのは、気晴らしなのだから。それがなければ私たちは倦怠に陥るだろう。しかし、私たちはその倦怠に促されて、そこから脱出しようと、より堅固な手段を探し求めるだろう。しかし気晴らしは時間をつぶさせ、知らず知らず死に至らせる。(岩波文庫、塩川徹也訳)

 原文の最後の一文の中の « le divertissement nous amuse » が塩川訳では「気晴らしは時間をつぶさせ」となっている。前田陽一訳は「気を紛らすことは、われわれを楽しませ」となっている。現代フランス語の amuser は「楽しませる」がそのもっとも一般的な意味で、前田訳はそれに忠実な訳になっている。なぜ、塩川訳は「時間をつぶさせ」と訳しているのだろうか。
 Littré は、amuser の語義として、« faire perdre le temps en choses qui amusent » (「楽しませて時間をつぶさせる」)を二番目に示しており、コルネイユから例が採られている。Le Grand Robert も、古義として « occuper en faisant perdre le temps » という意味を第一目に掲げている。誰かの「相手をして時間をつぶさせる」、「時間をつぶすのに付き合う」というほどの意味で、Littré と同じコルネイユの例が挙げられている。つまり、パスカルの時代にはこの意味で使われていたということだろう。
 さらに、Le Grand Robert は、第一義からの拡張として、« faire durer (un échange) sans arriver au fait »(「おしゃべりを延々と続け、本題に入らないようにする」)という意味を挙げている。
 これらの語義を勘案すると、塩川訳がなぜ「時間をつぶさせ」となっているのかがわかる。気晴らしは、単に私たちを楽しませることではなく、本当に大切なことから私たちの気を逸らせることで私たちに時間を無駄に過ごさせることだということである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「完全な休息のうちにあることほど、人間にとって耐えがたいことはない」― パスカルにおける「倦怠 ennui」について(承前)

2023-07-10 12:52:43 | 哲学

 昨日の記事で引用した断章136のなかの「倦怠」についての塩川徹也氏の後注には断章622が参照箇所として挙げられていた。その断章をまず読んでみよう。

情熱も仕事も気晴らしも熱中もなしに完全な休息のうちにあることほど、人間にとって耐えがたいことはない。そのとき、彼は自分が虚無であり、見捨てられ、無能で自立できず、無力で空っぽなことを感ずる。するとたちまち彼の魂の奥底から、倦怠、メランコリー、悲しみ、悲嘆、憤怒、絶望が湧き上がる。

Rien n’est si insupportable à l’homme que d’être dans un plein repos, sans passions, sans affaires, sans divertissement, sans application. Il sent alors son néant, son abandon, son insuffisance, sa dépendance, son impuissance, son vide. Incontinent il sortira du fond de son âme l’ennui, la noirceur, la tristesse, le chagrin, le dépit, le désespoir.

 何らかの外的要因によって ennui が引き起こされるのではなく、むしろ完全な休息のうちにあって自分と向き合わざるをえないときに ennui は魂の奥底から湧き上がってくる。

このようにして、人間の不幸はあまりにも大きいので、悲しみの原因がまったくない場合でも、生来の資質そのものによって悲しみに陥るだろう。(断章136、塩川徹也訳)

Ainsi l’homme est si malheureux qu’il s’ennuierait même sans aucune cause d’ennui par l’état propre de sa complexion.

 原文の ennui を塩川氏は「悲しみ」と訳している。確かに、ここで「倦怠」は使いにくい(前田陽一訳は「倦怠」と訳している)。この悲しみは、何か不幸な出来事があったから生じるのではなくて、人間の生来の資質そのものから発生する。何もすることがない「ありのままの」自分に向き合うことは耐え難い。それは死すべき存在である人間の実存を剥き出しに突きつけてくる。

死の危険なしに死を思うより、死を思わずに死ぬほうが耐えやすい。(断章138)

La mort est plus aisée à supporter sans y penser que la pensée de la mort sans péril.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


パスカルにおける「倦怠 ennui」について

2023-07-09 23:59:59 | 哲学

 パスカルの『パンセ』のなかには「気晴らし divertissement」と題されたファイルがあり、このテーマはパスカルの人間学(anthropologie)の中心的テーマの一つである。パスカルにおいて、気晴らしと倦怠(ennui)は不可分であり、一つの問題の表裏をなしている。
 しかし、divertissement も ennui も、パスカルが『パンセ』のなかで両語に与えている意味に忠実に理解しないと、パスカルの人間学を捉え損ねることになる。
 塩川徹也氏は岩波文庫版『パンセ(上)』の上記のファイルの冒頭に次のように注記している。

「気晴らし」は、パスカルの人間学のキーワードである。それは、仕事や心配事に集中している気持ちをそらせ紛らわせる活動、とりわけ余暇に行われる娯楽であるが、本章に見るように、彼はその意味を拡張して、まじめな仕事を含めた人間の活動のいっさいを気晴らしと見なしている。(159頁)

 およそ人間がこの世で熱心に取り組むこと・熱中していること・危険を承知で何かを獲得しようと全力を尽くすことはすべて、この拡張された意味での気晴らしであり、それは何ごとからか目を逸らすためであり、そのためにこそ人間は次から次へと気晴らしを探し、それに打ち込もうとする。その逃れようとする何ごとかが倦怠である。

このようにして一生涯が過ぎていき、人々はいくつかの障害に打ち勝つことをつうじて休息を求める。ところがそれを克服すると、休息は堪えがたいものとなる。休息が倦怠を生み出すからだ。休息を脱して、喧騒を乞い求めなければならない。さもなければ、目下の不幸か、将来をおびやかす不幸に思いを向けることになる。そしてたとえどこから見ても安全だとしても、心の底に生まれながらに根を張った倦怠が自分勝手にうごめき出し、精神をその毒気で満たさずにはおかないだろう。(塩川徹也訳、ラフュマ版136、ブランシュヴィック版139)

Ainsi s’écoule toute la vie, on cherche le repos en combattant quelques obstacles. Et si on les a surmontés, le repos devient insupportable par l’ennui qu’il engendre. Il en faut sortir et mendier le tumulte. Car ou l’on pense aux misères qu’on a ou à celles qui nous menacent. Et quand on se verrait même assez à l’abri de toutes parts, l’ennui, de son autorité privée, ne laisserait pas de sortir du fond du cœur, où il a des racines naturelles, et de remplir l’esprit de son venin.

 是が非でも気晴らしを求める人間が逃れようと必死になっているのは、無為においてこの倦怠と向き合うことだ。
 引用した一節に出てくる「倦怠」に塩川氏は次のような後注を付している。

「倦怠」と訳した原語 ennui は、パスカルの時代には、悲しみや苦しみ、あるいは絶望という意味合いもあった。「どこから見ても安全」なのに感ずる ennui は、原因を特定することのできない悲しみ、メランコリー、あるいは、のちに実存主義の主要な概念となる「不安」でもある。断章六二二参照。(171‐172頁)

 これらの引用からだけでも、パスカルにおける ennui が「倦怠」という日本語ではよく捉えきれないことがわかる。実際、ennui がそこから派生した動詞 ennuyer のもともとの意味は、「憎むべき、忌まわしい、あるいは不愉快極まりないといった感情を引き起こすこと」であり、ennui は、それと並行的に「嫌悪、深い悲しみ」を意味していた(Dictionnaire historique de la langue française, Le Robert, 2016 参照)。
 Littré にも、I. « Tourment de l’âme causé par la mort de personnes aimées, par leur absence, par la perte d’espérances, par des malheurs quelconques. »(「愛する人の死、その不在、希望の喪失、何等かの不幸によって魂に引き起こされる苦しみ」) ; II. « Sorte de vide qui se fait sentir à l’âme privée d’action ou d’intérêt aux choses. »(「行動や物事に対する関心が奪われた魂が感じさせられる空虚のようなもの」)とある。
 おぞましいもの・憎むべきものという感情を人間に引き起こすもの、その感情そのもの、そしてその感情に支配された状態が ennui なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ヘンデルで涼む真夏の日暮れ時

2023-07-08 03:12:11 | 雑感

 湿度では東京の夏と勝負になりませんが、気温ではストラスブールもここのところ30度を超える日が続いています。今日は34度まで上がりました。湿度はなんと28%。
 こんな日が一ヶ月も続いたら、それこそ水不足で大変なことになりますが、無責任にも私はこのよう乾いた暑さが偏愛的に好き、なのです(妄言を許されるならば、「好き」はつねに偏愛です)。汗をあまりかかないし、かいてもすぐに乾きます。ものみな萎えるこういうカラカラの夏、逆説的なのですが、「ああ、今、生きている」って、ひしひしと感じるのです(私って、ヘンタイ?)。
 四半世紀前、アルル近くの小村で二週間ほどヴァカンスを過ごしたとき、日中の気温が40度近くまで上昇したことがありました。ゆるやかな起伏の石灰質の白い地面にオリーブの木が点在するだけの広大な風景のなかに人影はなく、まるで時間が止まってしまったかのような感覚が不意に訪れ、衝撃を受けました。それは私にとってまさに「永遠の正午」経験でした。
 そんなちょっとニーチェ的な経験をたっぷりセンチメンタルに回想しつつ過ごした今日の夕暮れ時、キンキンに冷えたラングドック産のお気に入りのロゼでほろ酔い気分に浸りながら、さて何を聴こうかなとCDの並んだ棚を眺めていると、シベリウスとかグリーグとか、まず北欧系に食指が動くのですが、「いや、今日の気分はちょっと違うな」と躊躇していると、「こういうときは、なんてたってヘンデルでしょ」という託宣が天上から聞こえてきました(って、ただの幻聴でしょ)。
 ヴィヴァルディでもなく、スカルラッティでもなく、バッハでもなく、モーツアルトでもなく、ましてやベートーヴェンではなく、ブラームス? アリエナイ(秋まで待ってよ)、あっ、でも、ハイドンとかメンデルスゾーンも悪くないかも、と、ちょっとはヒヨリながらも、「やっぱ、夏はヘンデルでしょ」という、独善的・短絡的かつ無根拠な結論へと至るのでありました。
 というわけで、さっきから、ヘンデル全集を片っ端から聴いています。とはいえ、『水上の音楽』とか『王宮の花火の音楽』とかが特に夏向きだと思っているわけではないのです。オペラ好きではないのですが、ヘンデルのオペラは別格です。アリアは言うまでもなく。器楽曲はみんな好き、といってもいいくらい。
 かくして、ヘンデルで涼む真夏の日暮れ時、でありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


これから花咲く笑顔の美しいひまわりよ、お日様は必ずあなたに微笑む

2023-07-07 18:15:39 | 雑感

 昨夜は、これから花咲くひまわりとちょっとおしゃれなレストランで食事をしました。
 その笑顔が初夏の陽光の下に輝くひまわりように素敵な彼女は、今、これから自分が進むべき道に悩んでいます。どっちに向かって進もうとしても、たちどころに障害が立ちはだかります。泣き叫びたい心境なのです。いや、実際、ここ二週間、彼女は何度も涙をこぼしているのです。
 「どうすればいいのでしょう」と訊かれても、筋金入りの木偶の坊の私に妙案などあるはずもありません。「自分がもっとも大切にしたいことを最優先し、この一年はその他のあらゆる可能性も探りつつ、次のチャンスを待つのがいいのでは」という、毒にも薬にもならない御託を並べるくらいしか能がありません。
 それでも、彼女が「もっている」人であることを老生は確信しています。自分のことはよくわからないまま、あれよあれよという間に老いの急坂を転げ落ちつつある私ですが、不思議なことに、「あっ、この人は必ず何か大切なことをつかめる。だから大丈夫」と思える人と、一生懸命頑張っていることは認めるけれど、そっちに行くと「ちょっと難しいのかな」と思える人との区別はかなり的確にできるのです。それはその人たちのその後が証明しています。
 レストランで会話を存分楽しんだ後、自宅前まで送り、別れ際、満面の笑顔で手を振りながら歩道を渡っていくひまわりに背を向け、心のなかで Bon courage ! Bonne chance ! と呟きながらとぼとぼと帰路につきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「無垢な魂は、愛が無垢なものに見えれば見えるほど、その影響を受けやすい」― 十七世紀フランスの反演劇派の論法

2023-07-06 15:19:35 | 哲学

 十七世紀フランスの演劇の隆盛について、山上浩嗣氏の『パスカル『パンセ』を楽しむ 名句案内40章』(講談社学術文庫、2016年)のなかの「コラム5 パスカルと演劇」に簡にして要を得た説明があるので、それをまず引く。

一七世紀フランスは、コルネイユ、ラシーヌ、モリエールらの活躍、ならびにリシュリューら権力者による庇護のおかげで演劇の隆盛を見たが、同時に演劇は、教会による批判の対象でもあった。演劇は恋や野心や復讐などの危険な情念をあたかも美徳であるかのように描き出すことで、情念に対する観客の警戒心をゆるめるばかりか、演じられた行いを自分も実践したいという気持ちをかき立てる。―このような主張は、世紀半ばにおける演劇批判文書において、しきりにくり返された。なかでも、パスカルの盟友ピエール・ニコルは、演劇批判の決定版となる『演劇論』(一六六七年)において、あらゆるキリスト者はこの空しい見世物を前にして目を閉じなければならないこと、さらには、「喜ばしき盲目(l’aveuglement salutaire)」を与えられるように神に祈るべきことを主張した。

 このような演劇批判文書が多数出回ったということは、とりもなおさず、当時それだけ演劇が民衆の娯楽として人気を博していたことを意味している。
 この歴史的文脈のなかで、アリストテレス『詩学』の悲劇論のカタルシス概念が読み替えられ、というよりも、誤って解釈され、その誤った解釈を目指してアリストテレスが批判される。アリストテレスにしてみれば、いい迷惑である。
 その誤解(いや、意図的な曲解と言ってもいい)とは、アリストテレスは、悲劇による観客の「感情の浄化(カタルシス)」を論じているのに、十七世紀の演劇論者たちは、カタルシスを人間の「感情からの浄化」と曲解し、そんなことは演劇にはできないどころか、上の引用にあるように、むしろある種の感情をかき立てる効果を演劇はもっており、その悪しき効果は人間を敬虔なる信仰から遠ざけると批判する。
 例えば、岩波文庫版塩川徹也訳の『パンセ(中)』の断章七六四(セリエ版六三〇、ブランシュヴィック版一一)の « car plus il paraît innocent aux âmes innocentes, plus elles sont capables d’en être touchées »(「なぜなら無垢な魂は、愛が無垢なものに見えれば見えるほど、その影響を受けやすいのだから。」)に注が付されており、「一六六〇年代には、演劇の倫理性をめぐって論争が繰り広げられるが、そこで反演劇派が用いた論法。たとえば、オラトワール会士であったスノー神父は次のように述べている。「芝居は魅力的であればあるほど、危険である。さらに付け加えて、汚れなく見えれば見えるほど犯罪的だとさえ言いたい」(『君主論―主権者の義務』一六六一年)とある。この注は、Le Livre de Poche の La Pochothèque 版(セリエ版)の同箇所の注(p. 1164)をほぼ踏襲している。

On reconnaît ici le paradoxe de Senault, lieu commun de la polémique antithéâtrale des années 1660-1670 : « Plus elle [la comédie] est charmante, plus elle est dangereuse ; et j’ajouterais même que plus elle semble honnête, plus je la tiens criminelle » (J.-F. Senault, Le Monarque ou les Devoirs du souverain, 1661). 


パスカルの演劇論 ― 演劇ほど恐るべき気晴らしはない

2023-07-05 18:58:46 | 哲学

 パスカルの時代は、フランス古典演劇全盛時代でもあり、三大古典劇作家、コルネイユ(1606‐1684)、モリエール(1622‐1673)、ラシーヌ(1639‐1699)はまさにパスカルの同時代人であった。パスカルは青年時代ルーアンに一家で移り住んでいたときにコルネイユと知り合いになっている。そのきっかけや両者の付き合いがどのようなものだったのかについては何もわかっていないが、『パンセ』にはコルネイユの名が二回登場し、その作品への明示的あるいは暗示的言及も数か所見られる。パスカルがどこかの劇場でコルネイユの作品を鑑賞したことがあったのかどうかもわからない。
 しかし、パスカルが演劇に関心をもっていたことは確かである。実際、『パンセ』には演劇に対するパスカルの批判的な見方が表明されていると見なせる断章がある。ただし、この断章の執筆者については以下のような特殊事情がある。
 若い頃は華やかな宮廷生活を謳歌し、サロンを主宰して当代一流の知識人を集めたが、晩年はパリのポール・ロワイヤル修道院のとなりに私邸を築いて敬虔な信仰生活を送っていたサブレ侯爵夫人は、自分が書いた文章の添削をパスカルに依頼した。その添削された文章が断章として『パンセ』に組み込まれているのである。『パンセ』諸校訂版では、パスカルが添削あるいは付加した箇所がイタリックで示されている。

 Tous les grands divertissements sont dangereux pour la vie chrétienne. Mais entre tous ceux que le monde a inventés, il n’y en a point qui soit plus à craindre que la comédie. C’est une représentation si naturelle et si délicate des passions qu’elle les émeut et les fait naître dans notre cœur, et surtout celle de l’amour, principalement lorsqu’on le représente fort chaste et fort honnête, car plus il paraît innocent aux âmes innocentes, plus elles sont capables d’en être touchées. Sa violence plaît à notre amour-propre, qui forme aussitôt un désir de causer les mêmes effets que l’on voit si bien représentés. Et l’on se fait au même temps une conscience fondée sur l’honnêteté des sentiments qu’on y voit, qui ôtent la crainte des âmes pures, qui s’imaginent que ce n’est pas blesser la pureté d’aimer d’un amour qui leur semble si sage
 Ainsi l’on s’en va de la comédie le cœur si rempli de toutes les beautés et de toutes les douceurs de l’amour, et l’âme et l’esprit si persuadés de son innocence qu’on est tout préparé à recevoir ses premières impressions, ou plutôt à chercher l’occasion de les faire naître dans le cœur de quelqu’un pour recevoir les mêmes plaisirs et les mêmes sacrifices que l’on a vus si bien dépeints dans la comédie.
                                  Ed. Sellier 630 ; éd. Lafuma 764 ; éd. Brunschvicg 11.

 あらゆる大がかりな気ばらしは、キリスト者の生活にとっては危険である。しかし、この世が発明したすべての気ばらしのなかでも、演劇ほど恐るべきものはない。それは情念の実に自然で微妙な演出であるから、情念をかきたて、われわれの心のなかにそれを起こさせる。特に恋愛の情念を。ことにその恋愛がきわめて純潔でまじめなものとして演じられていれば特にそうである。なぜなら、それが潔白な魂に潔白に映ればうつるほど、それによって動かされやすくなるからである。その恋愛の激しさが、われわれの自尊心を喜ばせる。その自愛心は、目の前でこんなに巧みに演じられているのと同じ効果をひきおこそうとする欲望をただちにいだく。それと同時にそこに見られる感情のまじめさに基づいた一種の自覚がつくられ、その自覚が純な魂の懸念を取り除き、あのようにつつましく見える愛で愛することが純潔を傷つけられることにはならないという気になるのである。
 こうして、人は恋愛のあらゆる美しさと楽しさとに心をすっかり満たされ、魂と精神とは恋愛の潔白さを信じきって劇場から出て行く。そのため、恋愛の最初の作用を受け入れたり、あるいはむしろ、劇中であのように巧みに描写されているのを見たのと同じ快楽と同じ犠牲とを受け入れるために、その恋愛の最初の作用をだれかの心のなかに起こさせる機会を求める用意がすっかり整った状態になっているのである。(前田陽一訳、中公文庫)

 サブレ侯爵夫人の意向に沿いながら、それを補強する方向で入念な添削が施されていることから、たとえこの文章はパスカル自身の文章とは言えないにしても、そこにパスカルの演劇観が示されているとも考えられる。あるいは、少なくとも、この文章がパスカル自身の手になる他の断章と一つに束ねられていたことからして、サブレ侯爵夫人の演劇観にパスカルが概ね同意していたと見なすことは許されるだろう。
 この批判的演劇観の背景として、同時のフランス古典演劇界でアリストテレスの『詩学』の悲劇論における「カタルシス」概念を巡る論争がある。十七世紀フランス演劇界で起こる「カタルシス」概念の意味変換については、2022年10月20日の記事で一度話題にしているが、明日の記事ではそれとは違った文脈でもう一度「カタルシス」論争を取り上げ直す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人生という芝居の最後の幕

2023-07-04 09:23:16 | 哲学

 十六・十七世紀、つまり、モンテーニュそしてパスカルの時代、comédie というフランス語は、芝居・劇全体を意味し、いわゆる喜劇ばかりでなく悲劇もそのなかに含まれていた。だから「人生というコメディ」というとき、それは悲喜こもごも・喜怒哀楽・栄光と悲惨などなど人生のすべての出来事をひっくるめてドラマとして捉えている。『エセー』第一巻・第十八(十九)章「われわれの幸福は、死後でなければ判断してはならない」に、モンテーニュが哲学者ソロンの言葉を以下のように解釈している箇所がある。

ce même bonheur de notre vie, qui dépend de la tranquillité et du contentement d’un esprit bien né, et de la résolution et de l’assurance d’une âme réglée, ne doit jamais être attribué à l’homme, tant qu’on ne lui a pas vu jouer le dernier acte de sa comédie, et sans doute le plus difficile.

われわれの人生の幸福というものは、生まれのよい精神が、平静でいられるのか、満足できるのかといったことにかかっているし、規律正しい精神が、確信をもって、決然としていられるのかにもかかっている。とはいえ、人生という芝居の最後の幕を見届けないかぎり、この人は幸福であったというべきではない。死という終幕こそは、たぶんもっともむずかしいのだから。(宮下志朗訳)

 原文の comédie は「芝居」と訳されている。関根秀雄訳も同様である。
 パスカルの『パンセ』には『エセー』のこの一節を踏まえていると諸家が指摘する断章がある。

Le dernier acte est sanglant, quelque belle que soit la comédie en tout le reste. On jette enfin de la terre sur la tête, et en voilà pour jamais.

最後の幕は血で汚される。劇の他の場面がどんなに美しくても同じだ。ついには人々が頭の上に土を投げかけ、それで永久におしまいである。(前田陽一訳、中公文庫)

芝居では、他のすべての場面がどれほど美しくても、最終幕は血なまぐさい。ついに頭上に土くれが投げかけられ、それで永遠に一巻の終わりだ。(塩川徹也訳、岩波文庫)

 『エセー』の一節には、まだ救いというか、暖かみが感じられるが、『パンセ』の断章には、読むものの心をまるで短刀で一突きに刺すような冷たい鋭さが感じられる。こんなこと言われたら、それまで陽気なおしゃべりで賑わっていた座が一挙にして凍りつくというか……。
 確かに、喜劇的な人生であれ、悲劇的な人生であれ、死が最終幕である点では同じだ。芝居が終われば役者は永久に舞台を立ち去り、戻っては来ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


七月は「パスカル月間」にしようと思っていたのに…… 「NO」と言えないニホンジンの私の人生は「トコロガ」の連続

2023-07-03 22:01:34 | 哲学

 今月31日から8月4日までの五日間、東京で夏期集中講義としてメルロ=ポンティの『眼と精神』を日本の修士課程の学生たちと読むことになっているから、今月は私的「メルロ=ポンティ月間」とするつもりでいたのですが、冬にパリ・ナンテール大学でする発表の準備の一環としてパスカル関連の書籍を読みだしたら、それどころではなくなってしまいました。
 それに、五月が私的「モンテーニュ月間」だったことからしても、フランス哲学史的順序にしたがえば「パスカル月間」とするのが順当でしょう。
 いや、それならばデカルトが先でしょうという当然至極の指摘が聞こえてきますが、これは、当分、飛ばすことになるだろうと思います。私にもかつてあった若き日には、『省察』をラテン語で読もうと結構頑張ったこともあるのですが、どうも苦手なのですね(カルテジアンのご寛恕を乞う)。
 というわけで、7月の記事はパスカル率が急上昇するだろうと予想されます。で、今日もパスカルについて記事を書くつもりでいたのです。
 トコロガです(人生、まことにトコロガの連続であります)。今日、思いもかけず、フランスの記号学の専門雑誌から査読の依頼が届きました。
 どうも一昨年あたりから、フランスでの出版物に関して、ニホン・テツガク・キンゲンダイという三条件が揃うと、とりあえず私のところに査読や書評の依頼が来るようになって、正直に言うと、嬉しさと煩わしさとが半々です(だって、すべてほぼ無報酬ですから。「同情するなら、金をくれ!」― ナツカシィ)。
 まだ引き受けるかどうか迷っているので、査読を依頼された論文のテーマ及び概要は伏せますが、これがまた実にアクチュアルで面白そうな論文なのです。他に原稿執筆の予定がなければ二つ返事で引き受けるところなのですが、一晩考えてから返事します。と書きつつ、実はもうほぼ引き受けるつもりでいる自分が厭わしい。私には他にもっと重要な仕事があるから、申し訳ないが引き受けられないときっぱり言えんのかい、オマエは!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本語能力試験監督

2023-07-02 23:59:59 | 雑感

 今日の午後、日本語能力試験(JLPT)が大学の階段教室を使って実施された。5つあるレベルのうち、私が担当したのはN2、上から二番目のレベルである。受験予定者は52名だったが、実際に受験したのは42名。それだけ少ない分現場での対処はより易しかったとは言えるが、今回は、どうしたわけか受験者側に昨年までにない記入ミスが目立ち、それへの対処には手間取った。2014年からコロナ禍等の理由で試験が行われなかった2020年・2021年を除いて、毎回試験監督を請け負っているが、こんなことははじめてだった。幸い、二人のアシスタントが実に有能で、機転を利かせてくれたお陰で、受験生の不利にならないようにすべて対処することができた。
 コロナ禍前は12月第一日曜日(これは世界61カ国で実施されているJLPT共通)に行われていたが、学年度の半ばであり、学生たちにとっては都合の良い時期とは言えないし、ストラスブールの場合、寒さも問題で、ある年はかなり雪が降って、交通機関に遅れが出るなどの問題もあった。それもあって、2022年から7月第一日曜日実施へ移行した。これは実施機関である大学にとっても受験者にとっても望ましい移行だった。受験者数は一気に増加し、今回は、全レベル合わせて250名超、16の国から受験者が来た。これにはヨーロッパでは7月実施の国が少ないということもある。
 受験者数が増えることは喜ばしいとは言えるが、同時に会場の問題も発生する。受験者数に対して十分に広い教室が足りないのだ。私が担当したN2は240人収容可能な階段教室で行われたが、長机が16列しかなく、その両端に受験者を座らせただけは足りない。試験中に受験票確認や記入ミス・漏れを指摘するためにアシスタントが巡回できるには、一列おきに座らせなくてはならない。ところが、そのためには一列に6人座らせなくてはならない。しかし、これでは受験者間の間隔が十分に確保できない。そこで仕方なく、一列おきではなく、13列連続で一列に4人ずつ座らせることにした。
 それゆえ、試験中に解答用紙への記入ミス・漏れを受験者に指摘することができなかった。長机の両端に座っている受験者に対しては可能だが、それだけでは他の受験生に対して不公平になり、やむなく試験中の確認は行わなかった。これが記入ミス・漏れを試験終了後に当該受験生に訂正させるという対処法を取らざるを得なくした。十数名の該当者がいたが、上に書いたように、二人のアシスタントが実に手際よく処理してくれたので、無事すべてのケースを処理できた。二人には感謝のほかはない。
 すべての確認作業を終えて、帰宅の途についたのは午後5時半過ぎ。帰宅後、少し疲れもあり、ちょっとくじけかけたが、すぐに気を取り直し、ジョギングに出かける。心地よい夏の夕方の乾いた暑さの中、8キロあまり走り、気持ちよく汗を流すことができた。