『パンセ』に「みじめさ Misère」と題された断章がいくつかあるが、その一つ(セリエ版33、ラフュマ版414、ブランシュヴィック版171)のなかで、みじめさと気晴らしと倦怠との相互関係というか悪循環が簡潔に示されている。
La seule chose qui nous console de nos misères est le divertissement, et cependant c’est la plus grande de nos misères. Car c’est cela qui nous empêche principalement de songer à nous, et qui nous fait perdre insensiblement. Sans cela nous serions dans l’ennui, et cet ennui nous pousserait à chercher un moyen plus solide d’en sortir, mais le divertissement nous amuse et nous fait arriver insensiblement à la mort.
みじめさのうちにある私たちを慰めてくれる唯一のもの、それは気晴らしである。しかしながら、それこそ私たちの最大のみじめさだ。なぜなら自分のことを考える第一の妨げとなり、知らず知らず私たちを破滅させるのは、気晴らしなのだから。それがなければ私たちは倦怠に陥るだろう。しかし、私たちはその倦怠に促されて、そこから脱出しようと、より堅固な手段を探し求めるだろう。しかし気晴らしは時間をつぶさせ、知らず知らず死に至らせる。(岩波文庫、塩川徹也訳)
原文の最後の一文の中の « le divertissement nous amuse » が塩川訳では「気晴らしは時間をつぶさせ」となっている。前田陽一訳は「気を紛らすことは、われわれを楽しませ」となっている。現代フランス語の amuser は「楽しませる」がそのもっとも一般的な意味で、前田訳はそれに忠実な訳になっている。なぜ、塩川訳は「時間をつぶさせ」と訳しているのだろうか。
Littré は、amuser の語義として、« faire perdre le temps en choses qui amusent » (「楽しませて時間をつぶさせる」)を二番目に示しており、コルネイユから例が採られている。Le Grand Robert も、古義として « occuper en faisant perdre le temps » という意味を第一目に掲げている。誰かの「相手をして時間をつぶさせる」、「時間をつぶすのに付き合う」というほどの意味で、Littré と同じコルネイユの例が挙げられている。つまり、パスカルの時代にはこの意味で使われていたということだろう。
さらに、Le Grand Robert は、第一義からの拡張として、« faire durer (un échange) sans arriver au fait »(「おしゃべりを延々と続け、本題に入らないようにする」)という意味を挙げている。
これらの語義を勘案すると、塩川訳がなぜ「時間をつぶさせ」となっているのかがわかる。気晴らしは、単に私たちを楽しませることではなく、本当に大切なことから私たちの気を逸らせることで私たちに時間を無駄に過ごさせることだということである。