内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

脳ドック体験記

2023-07-21 23:45:37 | 雑感

 錯綜体の話、意外にも受けがけっこういいようですが、今日はお休みです。
 本日午前中は、滞在先の妹夫婦の家から歩いて15分ほどのところにある脳神経外科クリニックで、帰国前に予約しておいた脳の検査を受けてきました。何か疾患があるからでもなく、脳に問題があるわけでもなく(少なくとも本人の自覚としては)、まあ、年も年だし、いつ脳梗塞に襲われるかもわからないし、認知症がいつ発症するとも知れないから、脳ドックで総合的に検査してもらおうかというのが今回検査を受けた理由です。
 精密な検査の結果は一月半後にしかわかりませんが、MRIの結果は即日で、それに基づいての医師の所見を聴くことができただけでも無駄ではなかったと思っています。結果はすべて良好で、特に経過観察を必要とする項目はありませんでした。
 他方、今回脳ドックを受けようと思ったきっかけを医師に話したところ、これはほぼ完全に素人の思い違いに過ぎなかったこともわかりました。その医師によれば、目眩や失神は、脳の疾患・障害から直接的に発生することは稀で、その原因としてはむしろ心疾患を疑うべきということでした。十分な血流が心臓から脳へと送らなかったために、一時的に脳の一部が麻痺状態になったと見るべきだということです。つまり、3月30日に生まれてはじめて気を失ったあの忘れがたい出来事の原因は、心臓にあるかも知れないということでした。
 昨年の人間ドックで心電図もとり、結果は異常なしだったのですが、それだけでは突発的な不整脈の可能的原因は発見できず、私の場合のように、運動中に突然気道狭窄が起こったとすれば、その原因を突き止めるためには、運動負荷心電図を長時間にわたって観察する必要があるとのことでした。
 ところが、そのような検査をしてくれる医療機関は少ないのです。なぜなら、それだけの設備が必要であり、時間もかかるからです。
 というわけで、この夏は、脳には異常なしということで一応満足し、心疾患の可能性については自己観察を継続するということになりました。
 今朝も10キロ走り、明日も10キロ走る予定ですが、これからは心臓の「声」により注意深く耳を傾けながら走りたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


自己同一的な実体の否定としての〈錯綜体〉、あるいは可能的な行動の総体としての〈錯綜体〉

2023-07-20 16:10:59 | 哲学

 引き続き、伊藤亜紗氏の『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』第III部「身体」第二章「生理学」のなかの錯綜体についての記述を追っていこう。
 ヴァレリーが錯綜体という概念を導入することで強調しているのは、「いかに私たちの行為が外界によって引き出されているか」、「いかに思いもよらない可能性が、私たち自身のうちに隠れているか」ということである。つまり、〈錯綜体〉は、「わたし」という存在の他動性と偶然性を強調することによって、世界の構成者としての位置から主体をずらすことを狙って作られた概念なのである。
 錯綜体が行動する能力であるとしても、それは必ずしも能動的な自己決定にもとづく行動というわけではなく、外界からの刺激に対するリアクションとして、私たちはいわば行為させられているのである。「私たちとは結局のところ、起こりうる諸々のことに取り囲まれ、支えられている一つの可能性の感情、感覚でしかない」(Cahiers, I, 1100)。錯綜体とはつまり、「どんなものであれ何らかの状況が私たちからひき出しうるものの総体」(Cahiers, II, 329)である。
 次の段落は私のコメントである。
 私たちひとりひとりが錯綜体であるということは、取り巻く環境及びその都度置かれた状況において可能でありかつ可変的な行動の総体が錯綜体なのであるから、錯綜体としての私は自己同一的な実体ではありえないということを意味している。
 伊藤書の摘録に戻る。
 私たちがこれこそ自分だと思っているものは不変の実体のようなものでは決してなく、時間とともにまったく違うものに変化する可能性を秘めている。各人の個性(だと私たちが信じているもの)など、錯綜体のさまざまなあらわれ、多分に偶発的なあらわれにすぎない。「各人のうちには、その人物がそうであるところのものの可能的な拒絶がある」(Cahiers, I, 305)。
 では、このような錯綜体はすべて偶然の産物で、そこにいかなる〈主体性〉も認めることはできないのであろうか。
 この問いに対するさしあたりの答えは、否、である。伊藤氏によれば、ヴァレリーが探究しているのは「普遍的な人間の可能性」である。この可能性は、「ひとりの人間に何ができるか」という問いの形をとって、「錯綜体」という概念が登場するはるか以前からヴァレリーによって繰り返し問われてきた。錯綜体という概念も、ある一人の人間に何が可能であるかという問いを問うために導入されたと考えることができる。
 したがって、錯綜体という概念とともに問われるべきは、いかなる条件においてひとりの人間は主体でありうるのか、という問いである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


錯綜体 ― その都度の現在において現動化されている潜在的なものの総体

2023-07-19 18:11:14 | 哲学

 昨日の記事で取り上げたヴァレリーの〈錯綜体 implexe〉を日本でその独自の身体論あるいは〈身〉の構造論に取り入れたのは市川浩である(『精神としての身体』、勁草書房、一九七五年)。本書によってこの概念はヴァレリーの専門家たち以外にも知られるようになった。その後、市川は『〈身〉の構造  身体論を超えて』(初版、青土社、一九八四年。講談社学術文庫、一九九三年)のなかで錯綜体についてさらに議論を発展させる(「IV 錯綜体としての身体」)。しかし、それはヴァレリーの錯綜体に触発された市川固有の所説としての色合いが濃く、ヴァレリーの錯綜体の説明として読むことはできない。
 ヴァレリーが錯綜体という概念を導入することで何を捉えようとしていたか知るためには、ヴァレリーのテキストに直接あたるのがもちろん正道であるが、ここでは伊藤亜紗氏の優れたヴァレリー論『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(講談社学術文庫、二〇二一年。原本『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』、水声社、二〇一三年)に依拠するという捷径を辿ることにする。
 本書における錯綜体についての詳しい考察は、最終部である第三部「身体」の第二章「生理学」において展開される。同章三番目の節「人間の可能性」と次節「能力としての錯綜体」とから、錯綜体に直接関わる箇所を見ていこう。ただし、以下の文章は引用と要約と私見との混合体であることをあらかじめお断りしておく。
 まず、錯綜体のもっとも簡潔な定義は、「わたしのうちにある潜在的なものの総体」である。この「潜在的なものの総体」は、それじたいは超(非)時間的なものだが、そのつど「現在」において現動化され、わたしという人間を構成する。
 一九三二年に発表された対話篇『《固定観念》あるいは海辺の二人』のなかで、〈わたし〉は対話者の〈医者〉に、「歩く(marcher)」という動詞をすべての時と法に活用させてみてほしいと頼む。この思考実験を通じて〈わたし〉が示そうとしているのは、歩くという運動に対する私たちの関係はその都度の現在において変化するということである。具体的に言えば、いま歩いていない私は、現在において、歩くという運動に対して「歩いた」及び「歩くだろう」という関係にあり、それだけ「歩く」あるいは「歩いている」という様態からは「離隔」されている。
 この離隔は相対的・可変的であり、私が現に歩いているときは、「歩いた」および「歩くだろう」、さらには「歩けない」「歩かない」から離隔されている。言い換えれば、現に歩いていることが、それらの別の可能態を否定している。しかし、この否定は相対的であり、他の様態の潜在性は保持されている。
 このように、その都度の現在において現動化(あるいは現勢化)されている潜在的なものの総体が錯綜体なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『眼と精神』精読のための補助線としての〈錯綜体〉

2023-07-18 23:59:59 | 哲学

 フランス語に implexe という形容詞がある。ラテン語の implexus に由来する。このラテン語は動詞 implexer(混ぜ合わせる、互いに結びつける)の過去分詞であるから、implexe は元来「混ぜ合わせられた、互いに絡み合った」という意味である。
十九世紀末までは、演劇や文学作品について、その筋書きが複雑なことを言うために使われてきた。Littré はコルネイユから例を引いている。
 二十世紀に入り、この形容詞は哲学において使われるようになる。ある概念について、「一つの図式に還元することができない」という意味で適用される。
 この形容詞を実詞として独自の意味を込めて使っているのがヴァレリーである。「錯綜体」あるいは「混合体」と訳されているが、前者のほうが適訳だと思う。そして、このヴァレリーの用法に注目した哲学者の一人がメルロ=ポンティである。
 ヴァレリーは『カイエ』のなかで、錯綜体を次のように定義している。

J’appelle Implexe, l’ensemble de tout ce que quelque circonstance que ce soit peut tirer de nous.
                                          Cahiers, t. II, « Pléiade », p. 329.

 「何らかの状況が私たちからひき出しうるものの全体」ということである。この定義で面白いのは、私たちが状況から引き出すのではなく、状況が私たちから引き出す、と言っているところである。主体としての私たちが状況からなんらかのものを引き出すのではなく、ある状況のなかに置かれた私たちから状況が引き出すものごとの全体を「錯綜体」と呼んでいるのである。
 その錯綜体に対して私たちはどのような関係にあるのか。私たちが状況に主体の権限を譲渡したということではない。状況はいわば種々の意味の生成の場であり、その生成過程全体が錯綜体であるとすれば、私たちはその過程における意味生成の媒介者である。この媒介者の可能性の条件が身体性である。さしあたりこう規定しておく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


死に至りかねない酷暑をいかに過ごすか ― 無理せず、自愛第一、のらりくらり

2023-07-17 22:52:59 | 雑感

 今日もほんとうに暑い一日でしたね。
 昨日同様かそれ以上の暑さが昨晩から予想されたので、日中の外出を避けるのはもちろんのこと、ジョギングは夜明け前の比較的気温が下がる時間帯にするほかないと(まったく走らないという選択肢は原則として最初から排除されているので)、午前4時少し前に出発しました。玄関の扉を開けた瞬間、空気にはすでにむっと湿気を帯びた暑さがこもっており、25度を超えていたのはまちがいないと思います。
 それでも、昨晩はアルコールをビール二杯(500ml)のみという、私にしてみれば年に数回あるかどうかという休肝日に等しかったせいか、昨日以上に体は軽快に動きました。たまにはお酒を控えるのもいいものですね(注:私的基準に従って、アルコール度5%以下のビールは清涼飲料水と同じカテゴリーに分類されている)。
 というわけで、体にとってきつくならない範囲で昨日以上に距離を伸ばし、結果15キロ走りました。おおよそは昨日のコースを「復習」しつつ、気分次第で若干横道に逸れたり、敢えて遠回りをしたり、駒沢公園内では数百メートル全力疾走してみるなど、アクセントをつけて走りを楽しみました。
 6時前に帰宅した後は一歩も外出せずに、三度の食事を妹夫婦と美味しくいただき、エアコンの効いた和室で、今朝方学科長から送られてきた来年度講義分担表の最終的な確認・修正をしたり、集中講義の準備をしたり、気ままに読書したり、以前何度か話題にしたウクライナ人の学生が日本語に訳し終えたウクライナ語の小説の後半部の添削をしたりして過ごしました。その間、眠くなれば、ためらうことなく昼寝をしました。夕食後、午後10時(フランスは午後3時)から学科長とZOOMでお互いのヴァカンス地から講義分担表について最終的なチェックを行いました。
 明日はさらに暑くなるとの天気予報。かねてより日本人にこそ夏の長いヴァカンスが必要であるというのが私の持論でありますが、それはともかく、死に至りかねないこの酷暑、無理せず、自愛第一で、のらりくらりと乗り切りましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ジョギング日誌 ― 生まれ育った街への帰国の挨拶

2023-07-16 22:08:44 | 雑感

 帰国直前、ストラスブールもかなり暑かった。気温が37度まで上がった日もあった。湿度は50%以下のことが多かったが、日中の外出は極力避け、ジョギングは朝か夕方にした。
 日本の夏の暑さはもちろん覚悟して帰国した。幸い帰国した14日は比較的凌ぎやすく、ゆっくりと休息できた。昨日15日からジョギング再開。午前5時過ぎに出発。13日には機内で、14日は妹夫婦の家で滞在中自由に使わせてもらっている和室で体を休めることができたこともあり、体が軽い。気温も体感で25度未満。ゆっくりと走りはじめる。微風が爽快。
 生まれ育った世田谷の住宅街に「帰国の挨拶」をしながら、昨年からの変化を探す。新しい店ができていたり、昨年まで数年間無人のまま放置されていた公団住宅跡地が更地なっていたり、小さな「発見」を楽しみながら走る。住宅街はどこも道路が掃き清められていて、気持ちよく走れる。11キロ走る。
 今朝もほぼ同時刻に出発。家から東横線の学芸大学駅まで数分、そこから高架下を都立大学駅方向へ南下、環七を横断、八雲地区をしばらく走り、曹洞宗東光寺でトイレを拝借。その近くの真言宗金蔵院をちょっと参拝、そこから少し南に下り、呑川緑道を日本体育大学前まで走り続ける。大学が面している駒沢通りを駒沢公園方向に少し走って左折、住宅街を国道246方向に北上する。246に出たところで右折し、246の歩道を駒沢公園通りまで走り、右折。駒澤大学正門前を通過して、駒沢公園内に入る。6時半前後だったが、ジョギングやウォーキングの人で賑わっている。園内を数百メートル走っただけで園外へ。あとは昨年もよく走ったコースを辿って帰着。走行距離12キロ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


哲学的遅読法の実践としてのメルロ=ポンティ『眼と精神』精読

2023-07-15 18:50:29 | 哲学

 今月31日から8月4日までの五日間の集中講義のシラバスを公開します。昨年まではシラバス提出期限の1月半ばの直後にこのブログで公開したことが何度かありましたが、今年は他のきっかけで何度かメルロ=ポンティの『眼と精神』に触れる記事を書いたことで、シラバスも公開したものと思い込んでいました。ところが、先ほど今年1月からの6月までの記事のタイトルを見直していて、まだ公開していないことに気づきました(来てるねぇ、ボケが ― お黙り!)。
 シラバスでは「メルロ=ポンティ『眼と精神』精読」というベタなタイトルになっていますが、あえてサブタイトルを追加するならば、「哲学的遅読法の実践」とでもなるでしょうか。

【講義の目的・内容】
 この演習は、メルロ=ポンティが生前に仕上げることができた最後の論考『眼と精神』(1964年)を精読し、そこから様々な哲学的問題を引き出し、それら一つ一つを検討することを主な目的とする。
 まずはテキストそのものに即して、次に哲学史的文脈の中において、そして現代哲学の課題として、それらの問題を順次検討してゆき、最終的にそれらの相互関係を明確化する作業を通じて、メルロ=ポンティが当時構想しつつあった新しい存在論の核心を捉えることを試みる。
 原書講読を目的とする演習ではないので、テキストとしては日本語訳を使う。フランス語原文は随時参照するが、それはテキストの内容理解を深めるためであり、受講の条件としてフランス語の知識は必須ではない。
 メルロ=ポンティは、主著『知覚の現象学』(1945年)の序文の中で、哲学を「世界を見ることを学び直すこと」と定義したが、この基本姿勢は『眼と精神』においても貫かれている。私たちもまた、メルロ=ポンティの考察に導かれながら、この世界の見方の学び直しを実践したい。
 『眼と精神』の原文はわずか80頁余りであるが、その中には、自然・存在・身体・知覚・芸術・科学などに関する根本的な問題が凝縮された形で提起されており、それらに対するメルロ=ポンティの考察の独自性と可能性をよく理解するためには、メルロ=ポンティの他の著作(とりわけ『見えるものと見えざるもの』(1964年))だけではなく、近代哲学(とりわけデカルト)と近代芸術(とりわけセザンヌ、マチス、クレーなどの近代絵画)を参照することが必要とされる。
 豊穣な哲学的内容を行間に湛えた『眼と精神』を最初の一文から最後の一文まで一言一句もないがしろにすることなく精読することを通じて、私たちが住まう知覚世界、私たちの身体もまたその織地の一部を成す〈存在〉、そこにおいて常に種々の形が生成しつつある〈自然〉へと導く存在論の途を辿っていく。
 今回の演習では、特に以下の三つの問いを軸として議論を展開したい。(1)メルロ=ポンティが本書で言及している画家たちは、作品制作を通じてどのようにして世界・存在・自然に創造的に関与しているのか。(2)メルロ=ポンティが言う「存在の織地 la texture de l’Être」とはどのようなものか。(3)自然に対して技術はどのような関係にあるか。

【到達目標】
現代哲学において提起されている諸問題、あるいは取り上げられなくなった諸問題について、自分たちが現にそこに置かれている〈現代〉の状況からのみ早急な判断を下すことを差し控え、いまだに暗黙のうちに或いは無自覚的に前提されてしまいがちな〈近代〉的思考の枠組みを対象化・相対化することを学び、いかなる時代の流行思想にも追随することなく、その文化的温床あるいは概念的発生機構を見極め、一つの哲学的問題を、それとして厳密に規定した上で、その規定そのものによって要請される一つの思考の順序に従って、徹底的に考え抜くための方法論を身につけること。

【日程】
第1回 演習の目的・内容・方式についての説明。テキストの紹介と書誌的情報
第2回 メルロ=ポンティの現象学概説
第3回 第一節 考察の出発点となる問題提起-世界の事物に対する科学的態度と現象学的態度あるいは科学と芸術-現代科学の問題-〈ある〉ことの先行性
第4回 第2節(1) 可視性の諸条件-見るものと見られるものとの交叉
第5回 第2節(2) イメージの身分-視覚の狂気
第6回 第3節(1) デカルト的分割-デカルト的視覚概念
第7回 第3節(2) 奥行と遠近法
第8回 第3節(3) 均衡の破綻-哲学的定言命法
第9回 第4節(1) 存在の裂開-哲学的プログラム
第10回 第4節(2) 三つの対質
第11回 第4節(3) 運動-見るということ
第12回 第5節 芸術と時間性
第13回 『眼と精神』の方法論の一つの応用、あるいは交叉的読解の試み
第14回 『眼と精神』の方法論に対する批判
第15回 総括的議論

 


黒海真只中の上空でウクライナを想う ― 「平和な」世界の非現実性

2023-07-14 23:59:59 | 雑感

 昨日朝、出発予定時刻から1時間ほど遅れて10時40分に離陸。今朝、6時8分に羽田着陸。途中乱気流通過中に何度かかなり揺れた以外はほぼ順調な航路だった。満席。日本人とその他の国の人たちと半々くらいだったろうか。日本人のなかにはマスクをしている人が少なくなかったが(私はしなかった)、その他の人たちでマスクをしていた人はごく少数だった。見たところ、観光目的の人が大半、高校生らしき30名ほどの団体が目立ったが、何かの研修旅行だろうか。
 航路は、昨年同様ロシア上空を避け、ヨーロッパ大陸のやや南方、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、ルーマニアと通過し、黒海のほぼ中央を横断して、ジョージア、アゼルバイジャン上空を通過、カスピ海を横断し、トルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン上空を経て、中国に入る。中国通過中はちょうど真夜中で、僅かな街の灯り以外は何も見えなかったのは残念。
 今回の航路でもっとも深く印象に残ったのは、夏の日差しに照らされた黒海の群青の穏やかで広大な海面とその南方沿岸に続く美しいエメラルドグリーンの海岸線だった。私の右翼側の座席からは見えなかった黒海北側に面したウクライナの港湾都市オデッサから飛行機が通過した航路までの最短距離は400キロもなかった。サポリージャまで500キロ余り。幾多の犠牲を重ねるばかりでいつ終わるとも知れない戦争が続いている国からそんなにも近いところを「平和に」何ごともないかのように通過していくことにどうしようもなく苦しい思いが込み上げてきて、自分がそのなかにいる「こちら」のほうが非現実的であるかのような異様な感覚にとらわれた。
 コロナ禍がまだ過去のものになってはいないとはいえ、昨年夏に比べればより平和で穏やかに見える日本に一年ぶりに帰ってきて、懐かしく安堵するとともに、まだ地に足がちゃんとついていないような心もとなさを覚える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


シャルル・ド・ゴール空港で搭乗便を待ちながら

2023-07-13 07:44:17 | 雑感

 午前6時にホテルを出る。空港の3つのターミナル間を結んでいる無料のナベットでターミナル3からターミナル2に移動。早朝だが、出発ロビーにはすでにかなりの旅行客。事前搭乗手続きをネット上で済ませ、搭乗券も印刷しておいたので、あとはスーツケースに付けるタグを端末でプリントアウトして、スーツケースに貼り付けるだけ。それは受付の女性が親切にも代わりにやってくれた。スーツケースの認証・計量はすべて自分でやる。ホテルを出てからここまでわずか40分弱。
 パスポート検査の前に、機内持ち込み荷物が小さなスーツケースとリュックと二つあったので、計量チェックを要求される。2つ合わせて、12,1kg。許容上限12kgだからギリギリセーフ。計量を担当した職員が、親指を突き出して、「パルフェ!」。パスポート自動認証は国と年齢別にいくつかのコースに分けられていた。荷物検査は何の問題もなかったが、身体検査はこれまでになく細かった。
 これらすべての手続きを終えるのに約1時間。早朝ということもあるだろうが、自動化の積極的な導入で以前に比べれば格段に全体の流れがよくなっている。職員の愛想がいいとはお世辞にも言えないが。
 早朝の難点は、まだ免税店が開店していないこと。おそらく8時か9時開店だろう。それを待つ間にこの記事を書いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


夏の一時帰国

2023-07-12 18:00:10 | 雑感

 明日午前9時40分シャルル・ド・ゴール空港発羽田行のエール・フランス便で帰国する。8月末まで東京に滞在する。いつものように妹夫婦の家に居候させてもらう。
 羽田には出発の翌日14日の午前5時50分に到着予定。この便に乗るために、今日中にストラスブールから空港近くまで移動し、空港近くのホテルに宿泊する。搭乗当日朝ストラスブールから空港まで直行TGVで移動できれば好都合なのだが、残念ながら搭乗手続き間に合う時間に着く列車がない。ホテル代がもったいないとも思うが、前日に空港近くに宿泊することで出発当日の空港までの移動時間が十数分と短いのはとても安心だ。
 パリに住んでいたころは、RERのB線のダンフェール=ロシュロー駅まで徒歩で15分ほどだったので、そこから空港まで直通で50分たらず、とても便利だった。
 帰国は一年ぶりになる。主にヴァカンスとしての帰国ではあるが、今回で12回目となる五日間の集中講義はある。2011年から2019年まで9年連続、2020年はコロナ禍で休講、2021年はストラスブールから遠隔授業。昨年はせっかく帰国したのに、学生からの要望で結局遠隔授業だった。今年はまず間違いなく教室での対面授業である。4年ぶりということになる。登録学生は4名。博士前期課程の演習で、1年でも2年でも履修できる。2年つづけて履修しても、それぞれ単位になる。昨年の履修者1名がいる。他方、数年前に学部4年生でも担当教員が了承すれば「先取り学習」として履修できる制度が導入された。2021年の遠隔授業のときに1名いた。とても優秀な学生だった。今回も1名該当者がいる。
 今回の演習は7月31日から8月4日までの五日間、メルロ=ポンティの『眼と精神』を精読する。ちかごろ流行りのタイパとは真逆のエクゼルシスである。翻訳を介してではあるが、随時仏語原文も参照しつつ一字一句ゆるがせにせずにゆっくりと読んでいく。演習開始までの半月余り、じっくり準備に取り組む。