今月31日から8月4日までの五日間の集中講義のシラバスを公開します。昨年まではシラバス提出期限の1月半ばの直後にこのブログで公開したことが何度かありましたが、今年は他のきっかけで何度かメルロ=ポンティの『眼と精神』に触れる記事を書いたことで、シラバスも公開したものと思い込んでいました。ところが、先ほど今年1月からの6月までの記事のタイトルを見直していて、まだ公開していないことに気づきました(来てるねぇ、ボケが ― お黙り!)。
シラバスでは「メルロ=ポンティ『眼と精神』精読」というベタなタイトルになっていますが、あえてサブタイトルを追加するならば、「哲学的遅読法の実践」とでもなるでしょうか。
【講義の目的・内容】
この演習は、メルロ=ポンティが生前に仕上げることができた最後の論考『眼と精神』(1964年)を精読し、そこから様々な哲学的問題を引き出し、それら一つ一つを検討することを主な目的とする。
まずはテキストそのものに即して、次に哲学史的文脈の中において、そして現代哲学の課題として、それらの問題を順次検討してゆき、最終的にそれらの相互関係を明確化する作業を通じて、メルロ=ポンティが当時構想しつつあった新しい存在論の核心を捉えることを試みる。
原書講読を目的とする演習ではないので、テキストとしては日本語訳を使う。フランス語原文は随時参照するが、それはテキストの内容理解を深めるためであり、受講の条件としてフランス語の知識は必須ではない。
メルロ=ポンティは、主著『知覚の現象学』(1945年)の序文の中で、哲学を「世界を見ることを学び直すこと」と定義したが、この基本姿勢は『眼と精神』においても貫かれている。私たちもまた、メルロ=ポンティの考察に導かれながら、この世界の見方の学び直しを実践したい。
『眼と精神』の原文はわずか80頁余りであるが、その中には、自然・存在・身体・知覚・芸術・科学などに関する根本的な問題が凝縮された形で提起されており、それらに対するメルロ=ポンティの考察の独自性と可能性をよく理解するためには、メルロ=ポンティの他の著作(とりわけ『見えるものと見えざるもの』(1964年))だけではなく、近代哲学(とりわけデカルト)と近代芸術(とりわけセザンヌ、マチス、クレーなどの近代絵画)を参照することが必要とされる。
豊穣な哲学的内容を行間に湛えた『眼と精神』を最初の一文から最後の一文まで一言一句もないがしろにすることなく精読することを通じて、私たちが住まう知覚世界、私たちの身体もまたその織地の一部を成す〈存在〉、そこにおいて常に種々の形が生成しつつある〈自然〉へと導く存在論の途を辿っていく。
今回の演習では、特に以下の三つの問いを軸として議論を展開したい。(1)メルロ=ポンティが本書で言及している画家たちは、作品制作を通じてどのようにして世界・存在・自然に創造的に関与しているのか。(2)メルロ=ポンティが言う「存在の織地 la texture de l’Être」とはどのようなものか。(3)自然に対して技術はどのような関係にあるか。
【到達目標】
現代哲学において提起されている諸問題、あるいは取り上げられなくなった諸問題について、自分たちが現にそこに置かれている〈現代〉の状況からのみ早急な判断を下すことを差し控え、いまだに暗黙のうちに或いは無自覚的に前提されてしまいがちな〈近代〉的思考の枠組みを対象化・相対化することを学び、いかなる時代の流行思想にも追随することなく、その文化的温床あるいは概念的発生機構を見極め、一つの哲学的問題を、それとして厳密に規定した上で、その規定そのものによって要請される一つの思考の順序に従って、徹底的に考え抜くための方法論を身につけること。
【日程】
第1回 演習の目的・内容・方式についての説明。テキストの紹介と書誌的情報
第2回 メルロ=ポンティの現象学概説
第3回 第一節 考察の出発点となる問題提起-世界の事物に対する科学的態度と現象学的態度あるいは科学と芸術-現代科学の問題-〈ある〉ことの先行性
第4回 第2節(1) 可視性の諸条件-見るものと見られるものとの交叉
第5回 第2節(2) イメージの身分-視覚の狂気
第6回 第3節(1) デカルト的分割-デカルト的視覚概念
第7回 第3節(2) 奥行と遠近法
第8回 第3節(3) 均衡の破綻-哲学的定言命法
第9回 第4節(1) 存在の裂開-哲学的プログラム
第10回 第4節(2) 三つの対質
第11回 第4節(3) 運動-見るということ
第12回 第5節 芸術と時間性
第13回 『眼と精神』の方法論の一つの応用、あるいは交叉的読解の試み
第14回 『眼と精神』の方法論に対する批判
第15回 総括的議論