旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

フマユーン廟

2020-05-10 20:34:52 | インド
2005年《手造の旅》インドより
★予定していたネパールの旅が現地の政治事情で突然中止となり、急遽(一週間前だったと記憶します)インドのVISAを申請して催行。参加予定だった皆さんのほとんどがネパール→インドへの変更を受け入れてくださり催行できた。デリー、アグラ、ジャイプール、定番三都市の旅。

タージ・マハルのモデルとなった廟である

ムガール帝国はもともとペルシャ語で「モンゴル」を発音した音からきている。
チンギス・ハーンの大帝国が分裂した後、現ウズベキスタンあたりを支配したチムールの子孫である初代バーブルが建国した。
その息子、第二代フマユーン帝は治世の途中で北インド支配を失ったが、妻の実家であるペルシャの助けを借りて1555年にデリーに戻り首都とした。
翌1556年に没した夫の墓を、ペルシャ系の妻ハミーダ・バーヌ・ベーグムが1565-72にかけて建設した。
彼女の息子が大帝と呼ばれるようになるアクバル。
ハミーダは皇帝の母・後宮の支配者として息子の死の前年1604年まで権勢をふるっていた。

砦のようにつくられた中心部へ至る急な階段

インドではじめてのペルシャ風の建築。
砂岩と大理石を上手に組み合わせたデザイン。

四つの区画に分けられたペルシャ風の広大な庭園が付属している。

高い天井のドームの下にフマユーン帝の棺がある。
遺体はこの中にはなく、その下の地中に埋葬されている。

妻や子供たちの墓、縁者あわせて百人以上の墓があった。
資料によると、これらの墓碑はかつて、ペルシャ風のタイル装飾がされていたのだそうだ。

フマユーン廟はムガール帝国滅亡の舞台にもなっている。
1857年、通称「セポイの乱」が発生し、最後のムガール皇帝バハドゥール・シャーは不本意ながらその盟主に担がれた。
デリーは一時反乱軍が支配したが英国軍が包囲。
老帝は、1857年9月にデリーの王宮を脱出してこの祖先の廟に隠れた。
9月20日、イギリス軍はまさにフマユーンの墓の前で最後の皇帝バハドゥール・シャーを捕えた。
彼自身は殺されずにミャンマーに幽閉されることになったが、二人の息子と孫はデリー陥落の折に処刑されている。

イギリス軍の略奪は建物を飾っていたすべての装飾に及んだ

今はがらんとした感じだが、色鮮やかに飾られていたにちがいない。
それは、約六十年後に建設されたタージ・マハルをみれば想像できる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする