2005年《手造の旅》インドより
★予定していたネパールの旅が現地の政治事情で突然中止となり、急遽(一週間前だったと記憶します)インドのVISAを申請して催行。参加予定だった皆さんのほとんどがネパール→インドへの変更を受け入れてくださり催行できた。デリー、アグラ、ジャイプール、定番三都市の旅。
タージ・マハルのモデルとなった廟である
ムガール帝国はもともとペルシャ語で「モンゴル」を発音した音からきている。
チンギス・ハーンの大帝国が分裂した後、現ウズベキスタンあたりを支配したチムールの子孫である初代バーブルが建国した。
その息子、第二代フマユーン帝は治世の途中で北インド支配を失ったが、妻の実家であるペルシャの助けを借りて1555年にデリーに戻り首都とした。
翌1556年に没した夫の墓を、ペルシャ系の妻ハミーダ・バーヌ・ベーグムが1565-72にかけて建設した。
彼女の息子が大帝と呼ばれるようになるアクバル。
ハミーダは皇帝の母・後宮の支配者として息子の死の前年1604年まで権勢をふるっていた。
砦のようにつくられた中心部へ至る急な階段
インドではじめてのペルシャ風の建築。
砂岩と大理石を上手に組み合わせたデザイン。
四つの区画に分けられたペルシャ風の広大な庭園が付属している。
高い天井のドームの下にフマユーン帝の棺がある。
遺体はこの中にはなく、その下の地中に埋葬されている。
妻や子供たちの墓、縁者あわせて百人以上の墓があった。
資料によると、これらの墓碑はかつて、ペルシャ風のタイル装飾がされていたのだそうだ。
フマユーン廟はムガール帝国滅亡の舞台にもなっている。
1857年、通称「セポイの乱」が発生し、最後のムガール皇帝バハドゥール・シャーは不本意ながらその盟主に担がれた。
デリーは一時反乱軍が支配したが英国軍が包囲。
老帝は、1857年9月にデリーの王宮を脱出してこの祖先の廟に隠れた。
9月20日、イギリス軍はまさにフマユーンの墓の前で最後の皇帝バハドゥール・シャーを捕えた。
彼自身は殺されずにミャンマーに幽閉されることになったが、二人の息子と孫はデリー陥落の折に処刑されている。
イギリス軍の略奪は建物を飾っていたすべての装飾に及んだ
今はがらんとした感じだが、色鮮やかに飾られていたにちがいない。
それは、約六十年後に建設されたタージ・マハルをみれば想像できる。
★予定していたネパールの旅が現地の政治事情で突然中止となり、急遽(一週間前だったと記憶します)インドのVISAを申請して催行。参加予定だった皆さんのほとんどがネパール→インドへの変更を受け入れてくださり催行できた。デリー、アグラ、ジャイプール、定番三都市の旅。
タージ・マハルのモデルとなった廟である
ムガール帝国はもともとペルシャ語で「モンゴル」を発音した音からきている。
チンギス・ハーンの大帝国が分裂した後、現ウズベキスタンあたりを支配したチムールの子孫である初代バーブルが建国した。
その息子、第二代フマユーン帝は治世の途中で北インド支配を失ったが、妻の実家であるペルシャの助けを借りて1555年にデリーに戻り首都とした。
翌1556年に没した夫の墓を、ペルシャ系の妻ハミーダ・バーヌ・ベーグムが1565-72にかけて建設した。
彼女の息子が大帝と呼ばれるようになるアクバル。
ハミーダは皇帝の母・後宮の支配者として息子の死の前年1604年まで権勢をふるっていた。
砦のようにつくられた中心部へ至る急な階段
インドではじめてのペルシャ風の建築。
砂岩と大理石を上手に組み合わせたデザイン。
四つの区画に分けられたペルシャ風の広大な庭園が付属している。
高い天井のドームの下にフマユーン帝の棺がある。
遺体はこの中にはなく、その下の地中に埋葬されている。
妻や子供たちの墓、縁者あわせて百人以上の墓があった。
資料によると、これらの墓碑はかつて、ペルシャ風のタイル装飾がされていたのだそうだ。
フマユーン廟はムガール帝国滅亡の舞台にもなっている。
1857年、通称「セポイの乱」が発生し、最後のムガール皇帝バハドゥール・シャーは不本意ながらその盟主に担がれた。
デリーは一時反乱軍が支配したが英国軍が包囲。
老帝は、1857年9月にデリーの王宮を脱出してこの祖先の廟に隠れた。
9月20日、イギリス軍はまさにフマユーンの墓の前で最後の皇帝バハドゥール・シャーを捕えた。
彼自身は殺されずにミャンマーに幽閉されることになったが、二人の息子と孫はデリー陥落の折に処刑されている。
イギリス軍の略奪は建物を飾っていたすべての装飾に及んだ
今はがらんとした感じだが、色鮮やかに飾られていたにちがいない。
それは、約六十年後に建設されたタージ・マハルをみれば想像できる。