2011年ギリシャ《手造の旅》より
「このパルテノン神殿は直線で出来てはいないのよ」
「??」地元のガイドさんに説明されても、どういうことか理解できなかった。
神殿の角に連れてこられて「ここから見てごらん」と神殿の基部分を見せられた↓
あ!弓なりに盛り上がった曲線になっている!
「柱は少し膨らませてあるし(法隆寺と同じ「エンタシス」ですね)、内側に傾けて立ててあるの」
どこも真っ直ぐじゃなかったんだ!
「柱と柱の間隔も均等ではないし」
↑角に近い柱の間隔はあきらかに狭い。
紀元前5世紀後半に完成したこの神殿は、それ以前何百年にもわたって作り続けてきた神殿建築の経験を結集している。
柱を等間隔にするよりも、このほうがキュッと引き締まって見えるという効果があると、いくつも神殿をつくっていくうちに学んでいたのである。
フィーディアスやイクティノスといった名前が知られている建築家だけの成果ではない。
こういう事実はしっかり解説されてはじめて理解できる。
紀元前五世紀の丘の上の様子が復元してあった↓
↑少し下のところにあるのが「プロナオス」(=前門)
ペルシャによってBC480年に破壊された後に再建された時にその勝利を祝って巨大な勝利の女神ニケの像がおかれていた。
↓前門へ向かう階段は急でつるつるですべりやすい。
巨大なドーリア式の柱の下を、昔も今も人々が登ってゆく。
前門のすぐ前に残されている「アグリッパの台座」は↓神殿の完成から二百五十年ほど後に付け加えられたもの↓
もともとBC178年のパンアテナイ祭の馬車競技でペルガモンのエウメネス二世王が優勝した記念の銅像が上にあった。紀元前一世紀に初代ローマ皇帝アウグストゥスの片腕にして義理の息子となったアグリッパがアテネのオデオンを再建したのに敬意を表してアテネ市が彼の像を置いていた。今は失われて台座だけになっているのだ。
復元された門をくぐる
大神殿の正面向かって左にあるエレクティオン神殿は美しさではパルテノンに勝る
「カリアティード」と呼ばれる人型をした柱が有名
ここにあるのはレプリカで新アクロポリスの博物館に本物が収蔵されているが、一本だけはエルギン鄕がイギリスに運んでしまい、今は大英博物館が所蔵し↓こんな風に展示されている↓
屋内で間近に見ると、彫刻として驚嘆すべき完成度があるのがわかる
だが、もともとこんな↓環境にあったことを理解するのは難しい↓
エルギン鄕が駐在していた頃★トルコ統治下19世紀はじめごろのスケッチ画をガイドさんが見せてくれた↓
廃墟の神殿のあるアクロポリスいっぱいに家が立ち並んでいた!
**
大英博物館にあるパルテノン神殿のレリーフ彫刻の返還を、ギリシャ政府はずっと言い続けている。
アテネに滞在していたイギリス外交官エルギン鄕が、当時の統治者であったオスマン・トルコ政府より許可を得て1801-12にかけてロンドンへ移送した。現在このように展示されている↓
これらは当時残されていたレリーフの半分にもなる。爆薬までつかって神殿から引きはがしたものも少なくない。
文化財破壊だというのはもっともだ。
しかし、1821-29のギリシャ独立戦争ではアクロポリスに立て籠もるトルコ軍との間ではげしい戦闘が続き、残されていた建物やレリーフはもっと大きな破壊にさらされてしまったのである。ロンドンへ逃れたレリーフは幸運だった?
↓「返還されたらここに置きます」として、ギリシャ政府が新しく建設したアクロポリス美術館がオデオンの前にみえる↓
↑この長方形はパルテノン神殿と全く同じにつくられていて、完璧に同じ配置で見ることができるようになっている↓これが内部
ロビーの大きなガラス窓からアクロポリス上の神殿がよく見える
↑テラスからもっとよくみえる。
1980年代のおわりごろ、ロンドンではじめて「エルギン・マーブル」を見た小松は、いくら上手に解説されても「それがいったいなんなのか・どこにどんな風に存在していたのか」を、まったくイメージすることができなかった。
もし、これらがアテネにあって目の前に廃墟であってもパルテノン神殿がそびえていて、「あそこにあったものです」と指差してもらえば、きっとすぐに理解できていただろう。
メリナ・メルクーリ文化大臣(「日曜日はだめよ」で有名な元女優)は、「パルテノン神殿のレリーフはアッティカ(アテネのある地方)の蒼い空の下にあるべきなのです」と声明を発していた。
その日は、くるのだろうか。
「このパルテノン神殿は直線で出来てはいないのよ」
「??」地元のガイドさんに説明されても、どういうことか理解できなかった。
神殿の角に連れてこられて「ここから見てごらん」と神殿の基部分を見せられた↓
あ!弓なりに盛り上がった曲線になっている!
「柱は少し膨らませてあるし(法隆寺と同じ「エンタシス」ですね)、内側に傾けて立ててあるの」
どこも真っ直ぐじゃなかったんだ!
「柱と柱の間隔も均等ではないし」
↑角に近い柱の間隔はあきらかに狭い。
紀元前5世紀後半に完成したこの神殿は、それ以前何百年にもわたって作り続けてきた神殿建築の経験を結集している。
柱を等間隔にするよりも、このほうがキュッと引き締まって見えるという効果があると、いくつも神殿をつくっていくうちに学んでいたのである。
フィーディアスやイクティノスといった名前が知られている建築家だけの成果ではない。
こういう事実はしっかり解説されてはじめて理解できる。
紀元前五世紀の丘の上の様子が復元してあった↓
↑少し下のところにあるのが「プロナオス」(=前門)
ペルシャによってBC480年に破壊された後に再建された時にその勝利を祝って巨大な勝利の女神ニケの像がおかれていた。
↓前門へ向かう階段は急でつるつるですべりやすい。
巨大なドーリア式の柱の下を、昔も今も人々が登ってゆく。
前門のすぐ前に残されている「アグリッパの台座」は↓神殿の完成から二百五十年ほど後に付け加えられたもの↓
もともとBC178年のパンアテナイ祭の馬車競技でペルガモンのエウメネス二世王が優勝した記念の銅像が上にあった。紀元前一世紀に初代ローマ皇帝アウグストゥスの片腕にして義理の息子となったアグリッパがアテネのオデオンを再建したのに敬意を表してアテネ市が彼の像を置いていた。今は失われて台座だけになっているのだ。
復元された門をくぐる
大神殿の正面向かって左にあるエレクティオン神殿は美しさではパルテノンに勝る
「カリアティード」と呼ばれる人型をした柱が有名
ここにあるのはレプリカで新アクロポリスの博物館に本物が収蔵されているが、一本だけはエルギン鄕がイギリスに運んでしまい、今は大英博物館が所蔵し↓こんな風に展示されている↓
屋内で間近に見ると、彫刻として驚嘆すべき完成度があるのがわかる
だが、もともとこんな↓環境にあったことを理解するのは難しい↓
エルギン鄕が駐在していた頃★トルコ統治下19世紀はじめごろのスケッチ画をガイドさんが見せてくれた↓
廃墟の神殿のあるアクロポリスいっぱいに家が立ち並んでいた!
**
大英博物館にあるパルテノン神殿のレリーフ彫刻の返還を、ギリシャ政府はずっと言い続けている。
アテネに滞在していたイギリス外交官エルギン鄕が、当時の統治者であったオスマン・トルコ政府より許可を得て1801-12にかけてロンドンへ移送した。現在このように展示されている↓
これらは当時残されていたレリーフの半分にもなる。爆薬までつかって神殿から引きはがしたものも少なくない。
文化財破壊だというのはもっともだ。
しかし、1821-29のギリシャ独立戦争ではアクロポリスに立て籠もるトルコ軍との間ではげしい戦闘が続き、残されていた建物やレリーフはもっと大きな破壊にさらされてしまったのである。ロンドンへ逃れたレリーフは幸運だった?
↓「返還されたらここに置きます」として、ギリシャ政府が新しく建設したアクロポリス美術館がオデオンの前にみえる↓
↑この長方形はパルテノン神殿と全く同じにつくられていて、完璧に同じ配置で見ることができるようになっている↓これが内部
ロビーの大きなガラス窓からアクロポリス上の神殿がよく見える
↑テラスからもっとよくみえる。
1980年代のおわりごろ、ロンドンではじめて「エルギン・マーブル」を見た小松は、いくら上手に解説されても「それがいったいなんなのか・どこにどんな風に存在していたのか」を、まったくイメージすることができなかった。
もし、これらがアテネにあって目の前に廃墟であってもパルテノン神殿がそびえていて、「あそこにあったものです」と指差してもらえば、きっとすぐに理解できていただろう。
メリナ・メルクーリ文化大臣(「日曜日はだめよ」で有名な元女優)は、「パルテノン神殿のレリーフはアッティカ(アテネのある地方)の蒼い空の下にあるべきなのです」と声明を発していた。
その日は、くるのだろうか。