2005年《手造の旅》インドより
日本なら鎌倉時代のはじめに建設されていた高さ72mの塔
デリーの南郊外にあるが、ちかごろは地下鉄でも行けるようになったそうな。
これはインドで最初に建設されたモスクに敷設されたミナレットだった。
遠くからでもよく見える。
イスラム教の勝利を広く告知する役割をしていたわけだ。
よく見ると上部のカタチが不自然。
ネット辞典Wikiの解説を要約すると、
建設当初は100m近くあったのが1369年の落雷で上部が壊れ修復、1505年の地震で上部崩落し修復。
実質イギリスの支配下位にはいっていた1803年また地震で崩落、1828年クーポラをつけて修復。
1848年にクーポラは取り除かれて現在のカタチになっている。
塔の名前はゴール朝(アフガニスタンあたりを中心としたイスラム国)からの北インド遠征軍の将軍であったクトゥブディン・アイバクにちなむ。
※もしくは当時絶大な影響力のあったイスラム神秘主義教団のクトゥブディン・バクティアル・カキかもしれない
建設をはじめたアイバクの時代に①最初のモスク(43.2m×32.9m)が完成した。
下の図の赤い部分がそれ↓
たった四年で完成できたのは、周辺のヒンズー教・ジャイナ教の二十七の寺院を破壊してその石材を再利用したから。モスクの柱にしてはヒンズー装飾が使われているのはこのせい。また、働いた職人たちはヒンズー教徒だったから、そう簡単に新しい様式に転換はできないのだ。
削られているがヒンズー教の神々の姿があったのは明白
↓この部分は復元・修復されているだろうが、どこまでがオリジナルの「混合した」デザインだったのだろう。
アフガニスタンのゴール朝の遠征軍を指揮したマムルーク(「奴隷」の意味」)だったアイバクは、やがて独立した王となってゆく。※「マムルーク朝」の由来
アイバクが落馬事故で突然亡し、跡を継いだ息子アーラム・シャーだがその暴政で民心が離反。
アイバクの側近で娘婿だったイルトゥトゥミシュが反旗をひるがえし討伐。
イルトゥトゥミシュは遊牧民首長の子だったが内紛で奴隷として売られ、アイバクが引き取った。
その能力の高さで愛され信頼される側近になっていた人物。
三代目の王となったイルトゥトゥミシュは恩あるアイバクのモスクを拡張した。
②二番目のモスク建築(1193-97)は、前出の見取り図で緑色に示されている
彼の墓がモスクのすぐ外に残されている
イスラム教は礼拝するモスクの中に墓をおいてはいけない規則になっている
※キリスト教の教会は内部に墓があったので衛生的に問題が多かった。後発のイスラム教はそれを改善した教義を導入したのだろう。
モスクではないがメッカの方向を示す方向は白いキブラ【メッカの方向)となっている。
クトゥブ・ミナールはイルトゥトゥミシュの時代に完成したとされている。
モスクは次のハルジー朝のアラー・ウディン・カーンの時代に再拡張される。
③三番目のモスク建築(1296-1316)は、前出の見取り図でいちばん大きな黒い枠=現在の廃墟として残されているもの。
アイバクの建設したモスクは、百年後には六倍の面積になっていった。
アラー・ウディン・カーンは安定した支配期に、クトゥブ・ミナールを超える高さの塔を建設しようと思い立つ。
直径二十五メートルにもなるその基礎が↑残されている。
完成していれば百五十メートル級になっただろう。
彼の墓もこのモスクの外につくられた。
クトゥブ・ミナールは13世紀から現在に至るまで、世界で最も高いミナレットである。
**
十三世紀にモスク建設が行われる前にも、ここには寺院があったとされている。
たぶんその頃にはすでにおなじように立っていただろう鉄の柱がある↓
高さは約七メートルにもなる紀元後四世紀のもの。
地中にも二メートルが埋まっている。
※全体は冒頭二枚目の写真で右下に写っている
「純度が高いので錆びません」とガイドさんが説明。
真の理由は謎だがたしかに錆びていない。
表面にサンスクリット語がブラフマー文字で書かれている↓
これによりチャンドラグプタ二世時代のものだと判明したのだそうな。
イスラム教の成立の遥か以前からものがモスクの中庭に壊されずに残されているのは幸いだ。
日本なら鎌倉時代のはじめに建設されていた高さ72mの塔
デリーの南郊外にあるが、ちかごろは地下鉄でも行けるようになったそうな。
これはインドで最初に建設されたモスクに敷設されたミナレットだった。
遠くからでもよく見える。
イスラム教の勝利を広く告知する役割をしていたわけだ。
よく見ると上部のカタチが不自然。
ネット辞典Wikiの解説を要約すると、
建設当初は100m近くあったのが1369年の落雷で上部が壊れ修復、1505年の地震で上部崩落し修復。
実質イギリスの支配下位にはいっていた1803年また地震で崩落、1828年クーポラをつけて修復。
1848年にクーポラは取り除かれて現在のカタチになっている。
塔の名前はゴール朝(アフガニスタンあたりを中心としたイスラム国)からの北インド遠征軍の将軍であったクトゥブディン・アイバクにちなむ。
※もしくは当時絶大な影響力のあったイスラム神秘主義教団のクトゥブディン・バクティアル・カキかもしれない
建設をはじめたアイバクの時代に①最初のモスク(43.2m×32.9m)が完成した。
下の図の赤い部分がそれ↓
たった四年で完成できたのは、周辺のヒンズー教・ジャイナ教の二十七の寺院を破壊してその石材を再利用したから。モスクの柱にしてはヒンズー装飾が使われているのはこのせい。また、働いた職人たちはヒンズー教徒だったから、そう簡単に新しい様式に転換はできないのだ。
削られているがヒンズー教の神々の姿があったのは明白
↓この部分は復元・修復されているだろうが、どこまでがオリジナルの「混合した」デザインだったのだろう。
アフガニスタンのゴール朝の遠征軍を指揮したマムルーク(「奴隷」の意味」)だったアイバクは、やがて独立した王となってゆく。※「マムルーク朝」の由来
アイバクが落馬事故で突然亡し、跡を継いだ息子アーラム・シャーだがその暴政で民心が離反。
アイバクの側近で娘婿だったイルトゥトゥミシュが反旗をひるがえし討伐。
イルトゥトゥミシュは遊牧民首長の子だったが内紛で奴隷として売られ、アイバクが引き取った。
その能力の高さで愛され信頼される側近になっていた人物。
三代目の王となったイルトゥトゥミシュは恩あるアイバクのモスクを拡張した。
②二番目のモスク建築(1193-97)は、前出の見取り図で緑色に示されている
彼の墓がモスクのすぐ外に残されている
イスラム教は礼拝するモスクの中に墓をおいてはいけない規則になっている
※キリスト教の教会は内部に墓があったので衛生的に問題が多かった。後発のイスラム教はそれを改善した教義を導入したのだろう。
モスクではないがメッカの方向を示す方向は白いキブラ【メッカの方向)となっている。
クトゥブ・ミナールはイルトゥトゥミシュの時代に完成したとされている。
モスクは次のハルジー朝のアラー・ウディン・カーンの時代に再拡張される。
③三番目のモスク建築(1296-1316)は、前出の見取り図でいちばん大きな黒い枠=現在の廃墟として残されているもの。
アイバクの建設したモスクは、百年後には六倍の面積になっていった。
アラー・ウディン・カーンは安定した支配期に、クトゥブ・ミナールを超える高さの塔を建設しようと思い立つ。
直径二十五メートルにもなるその基礎が↑残されている。
完成していれば百五十メートル級になっただろう。
彼の墓もこのモスクの外につくられた。
クトゥブ・ミナールは13世紀から現在に至るまで、世界で最も高いミナレットである。
**
十三世紀にモスク建設が行われる前にも、ここには寺院があったとされている。
たぶんその頃にはすでにおなじように立っていただろう鉄の柱がある↓
高さは約七メートルにもなる紀元後四世紀のもの。
地中にも二メートルが埋まっている。
※全体は冒頭二枚目の写真で右下に写っている
「純度が高いので錆びません」とガイドさんが説明。
真の理由は謎だがたしかに錆びていない。
表面にサンスクリット語がブラフマー文字で書かれている↓
これによりチャンドラグプタ二世時代のものだと判明したのだそうな。
イスラム教の成立の遥か以前からものがモスクの中庭に壊されずに残されているのは幸いだ。