目が覚めて思い出した。
マラソン当日の朝、不思議な現象が起こった。普段、仕事が忙しくなったり、心配なことがあると、夜中に起きて、しばらく眠れないことが度々ある。完全に睡眠障害なのだが、目が覚めてから2時間すると、また眠くなるので、最近はジタバタしないで眠くなるのを待つのだが、そうして二度寝して、再び起きると両手がわーんと痺れた感じになることがある。痺れるといっても病的な感じではなく、うまく表現できない。マラソン当日の朝もその状態になったのだが、いつもよりわーんの響きが大きかった。目には見えないが、両親と実母、亡くなった人らが数人、応援しているような気がした。それは数分続き、体と心が安心感に包まれた。もしや、お迎えが来たのかなとすら思った。
お寺さんの行事を手伝っている時、読経とともに自分の周囲がざわざわすることがある。その時両親が喜んでいると感じる時もある。
那覇最終日、午前中は国際通りで過ごそうと思い、ホテルをチェックアウトした。ちょっと酒でも飲もうかなと。
前日のマラソンで国際通りに差し掛かった時、沿道のお店から、若い女の子が、ジョガーに向けて「ハブ酒あるよー。飲んでってー」と声を出していた。思わず笑ってしまった。その数十m先で、キャバクラなのか分からないが、2階から大音量で若い子たちが真剣に応援してくれた。あの辺りを歩いてみたかった。あわよくば、応援のお礼にハブ酒をいただこうかと思った。
国際通りを歩いたが、そのお店が見つからない。なんだか俗っぽいお店ばかりで、だんだん疲れてきた。修学旅行の高校生もうざいし、国際通りはもういいかなと思い始めた。そこでもう一度、ゆいレールの美栄橋駅に戻ることにした。
その駅近くに記念碑を見つけた。
「新修美栄橋碑」。
石碑自体がものすごく古くて、碑文が読めない。近くに解説版があったので読んでみた。知らないことがたくさん書かれていた。
解説板を要約する。
かつて、那覇は島で、中国の要人らを招く際、その行き来が難儀だった。そこで琉球の王様は海に長虹堤という道路を作った。その長虹堤には3つの橋を架けたという。その一つが美栄橋である。1735年、手狭になった美栄橋の架けかえを行った際の様子が、この碑に刻まれているという。翌年に橋が竣工したというから、碑はこの直後に建てられたのではないだろうか。そうだとすれば290年も前に建てられた記念碑なのである。「レキオ島唄アッチャー」というブログで、「新修美栄橋碑」についてこう書いている。
「その後、美栄橋は1892年に改修されたが、沖縄戦で破壊された。しかし、碑文だけは原型をとどめ、付近の民家に保管されていたものを現在地に移して保存している。沖縄には、このような史跡と石碑がたくさんあるけれど、沖縄戦でその多くが破壊されたなかで、美栄橋碑のように、碑文は原型を止めて保存されているのは珍しいのではないだろうか。」
沖縄を考えた時、やはり沖縄戦は避けて通れないし、この古い記念碑が現存することは奇跡のようなものなのか。決して小さくない記念碑だから、恐らく保管するにあたっても多くの人が関わったことだろう。
後で分かったことだが、今回自分はジュンク堂書店から美栄橋駅の少し先まで、僅かだが長虹堤跡を歩いた。記念碑の左側に柵があり、その土台がどうも長虹堤のかつての痕跡らしい。「ブラタモリ」でタモリさんが指摘したという。
前日、「前島町の歴史」という碑を見て、かつて那覇は干潟だったことが分かったが、干潟になったのは長虹堤で海が堰き止められ、土砂が堆積したからだという。まさに、長虹堤が那覇を作ったといえるのではないだろうか。
今夜飲み帰りに改めて見てきます!
こんばんは。
世の中知らないことばかりです。