早足になっても、背後からする「ハロー」という声は消えることなく追ってきた。ただ、ちょっと冷静になって、その声をよくよく聞いてみると、まだ幼い子どものものであることに気がついた。立ち止まって振り返ると、声の主はまだ4歳か、5歳くらいの小さな女の子だった。痩せ細った体にボロをまとったその子に、わたしは年甲斐もなく恐れたことが恥ずかしく、少し照れ笑いを浮かべて、「ハロー」と返した。
その子はわたしを見 . . . 本文を読む
インドの映画館は凄まじかった。
ジャッキーが人間技とは思えないアクションを繰り出す度、観衆は立ち上がり、嬌声をあげて喜ぶのである。ご存知の通り、ジャッキー・チェンの映画は彼が派手なアクションをする度に、何度も別角度でリプレイする構成になっているが、ボンベイの映画館に集った野郎どもらはその冗長なシーン毎に手を叩きながら奇声を発した。マークもそれに合わせて、立ち上がり、ワオ!と声を上げた。もうストー . . . 本文を読む
一瞬の出来事にわたしは呆気にとられていたが、売人の姿が見えなくなって我にかえった。
これは困ったな。
男から渡された紙袋を持って町をふらふらする訳にはいかないし、とりあえず宿に戻るとするか。
帰りの道中では少し慎重になった。男との受け渡しの瞬間を見ていた奴が、ポリスに通報していたとしたら。或いは泳がせ捜査だったら。わたしは後ろを振り返り、誰もいないことを確認しながら宿に入った。
部屋にマー . . . 本文を読む
コーヒーを飲み終えて、海へ行ってみようと思った。
海を見るために一足飛びにきたボンベイだった。インドというカオスに放り出され、これまで順調だった旅は一変した。人のパワーに圧倒され、この上ない暑さに疲弊し、町中に漂う匂いに戸惑い、そうして3週間が過ぎようとしていた。その間、入院し、何度も騙されそうになりながら、このインドを過ごしてきた。正直なところ、旅は快適ではなかったし、自分自身楽しんでもいなか . . . 本文を読む
マークが部屋から出て行ったのを見て、自分も外出の支度をした。インド第二の都市、ボンベイを散策してみようと思ったのだ。外に出ると、歩道の一角にチャイ屋を見つけた。すぐに駆け寄り、店のオヤジにチャイを一杯注文すると、あっさり彼は「No chai」と言った。え?チャイがない。それなら彼が今調理している飲み物はなんなんだ。
大鍋の中を覗いてみる。チャイと同様、何かを煮出しているようだ。だか、 . . . 本文を読む
ボンベイのヴィクトリア駅のホームで、歩きながら、その大柄な男を見上げた。頭一つ分も大きい痩身の男は、笑顔でわたしを見つめていた。
「サルベーションアーミーに行くのかい?」。
彼はわたしにそう尋ねた。
よく聞き取れず、わたしは、聴きなおした。
「ソーリー?」。
意味を汲み取って、少しゆっくりな発話に変えた彼は、もう一度同じ質問を繰り返した。どうやら、泊まるゲストハウスのことをきいているよう . . . 本文を読む
インドの地図を指でなぞり、ふと気が付いた。そう、まだこの国の海を見ていなかったことに。海を見れば、気持ちは晴れるかもしれない。また新しいスタートが切れるかもしれない。そう思い、海を目指してみようと思った。
アフマダーバードの南には、カンバト湾という湾があった。その入江の町、カンバトまでは僅か100km。バスなら数時間で着いてしまう。しかし、湾の海を見たところで果たして気分は晴れるだろうか。もっと . . . 本文を読む
ガンジーアシュラムは確かに興味深いものだったが、さしたる興奮はなかった。ただ、素朴で地味な展示物はガンジーのひととなりを表していたのは事実で、とりわけチャルカと呼ばれる糸車には静謐な雰囲気さえ漂っていた。この糸車を操るガンジーの写真を見たのはいつだったか。中学の時に学んだ教科書か、或いは大人になってから何かで見たのか。とにかく、もうその記憶は既になかった。
バスを使って宿に戻る道中、車窓から標識 . . . 本文を読む
「おい、この外国人が何か言ってるが、俺にはよく分からない。誰か分かるかな」。
恐らく彼はそんなことを言ったに違いない。すると、それを聞いたバスの乗客はぞろぞろとわたしの周囲に集まってきた。
これは大袈裟なことになってしまった。 . . . 本文を読む