前田選手の涙を見るのはこれで3回目になりました。
あれは確か、第一次山本浩二政権の時でした。リーグ優勝後のことだから、92年から94年のことだったと思います。東京ドームの讀賣戦。あなたは、讀賣の選手の安打を後逸し、その選手は長駆ホームインしました(わたしの記憶が確かならば)。試合はその1点を巡る攻防で進んでいきました。
8回表の攻撃。走者一人を置いて、あなたは右翼席に逆転の本塁打を放ちました。ダイヤモンドを回ってベンチに戻ってくると、あなたはテレビカメラで大写しになっていることにも気づかず、そしてチームメイトの目も憚らないまま、大泣きしました。
2回目の涙は、02年4月5日のこと。右アキレス腱のみならず、とうとう前年には左のアキレス腱も手術したあなたが、長いリハビリを終えてこのシーズン復帰を果たしました。
5回裏、あなたの放った打球はバックスクリーンに飛び込んでいきました。ダグアウトに戻り、ベンチ裏で地元テレビのインタビューに応えた際、またもやあなたの目から涙がこぼれていました。復帰後、初めての本塁打だったからです。
この日のテレビ解説を務められていた達川光男さんに「よかったなぁ」と声をかけられると涙声で「ご迷惑をおかけしました」とあなたは呟きました。
その前年、前々年とカープの達川政権時代、あなたは故障に次ぐ故障、そして左アキレス腱の手術で、満足に試合すら出られない日々が続いて続きました。わたしも選手生命はもう終わりなのか、と思ったものでした。
あれは、00年のことだったか、仕事仲間と横浜スタジアムにベイスターズ対カープ戦を観に行ったときのことです。
あなたはスタメンから外れていましたが、試合の終盤、代打で登場してきました。
この年のことはあよく覚えているのですが、あなたはほとんど試合にも出られず、出ても往年の打球を飛ばすことは出来ない状態でした。
わたしは、この年であなたの引退を覚悟しました。
だから、この日、シーズンも週場に差し掛かった横浜戦で登場してきたあなたの姿を見たとき、「これが現役でみる前田選手の最後の姿になるかもしれない」と思い、「最後の前田かも」と大声で右翼席で叫んだものです。すると、近くにいた孫を連れたおばあちゃんが、わたしの方を振り返り、「うんうん」とうなづいていたのを思い出します。
あなたはあえなく凡退しました。
そんなあなたが、翌年溌剌とプレーし、本塁打を放った。わたしの目頭も熱くなったことは言うまでもありません。あの当時からすれば、まさかこんな日が来るとは全く想像すらできませんでした。
まさか打席が回ってくるとも思いもしませんでしたが、安打が出る雰囲気はもうテレビからも漂っていました。
2,000本安打達成おめでとうございます。
あの日の試合の8回裏も劇的でしたね。
7回裏はあなたで攻撃を終えてしまったので、8回が始まる時点で最も遠い打順があなたでした。
嶋重宣選手の逆転本塁打がとび出してから、チームはあなたに打順を回そうととにかく全員一丸になっているのがよく分かりました。
しかし、本当に打順が回るとは・・・。
そして、2死満塁というこれ以上ない見せ場が訪れるとは・・・。
あなたが、一塁ベース上で歓喜に揺れる中、2人の息子さんが花束を持ってお祝いに出てこられたとき、きっとあなたは泣いてしまうのではないかと思いました。
しかし、あなたは泣かずに優しい笑顔でお子さんの頭を撫でていましたね。
翌日の日刊スポーツには、そのときの模様をこう記しています。
「前田智に花束を届けたのは長男浩由君と二男晃宏君だった。息子2人の頭をなで、父親の顔で笑った。」
あなたは笑い、わたしは泣いた。
それはそれは微笑ましく、感動的なシーンでした。
広島カープ、松田オーナーの言葉も印象的です。
「数々の栄光と大きな挫折を乗り越えて、少年が大人になり、そして父親になった18年間を思い出します。おめでとう。」
そういえば、プロ入りからもう18年が経ってしまっていたのですね。
あなたのプロ入りは89年のドラフト。90年がルーキーイヤーでした。わたしは翌年に就職するので、あなたの方が社会人としての先輩です。
残念ながらルーキー時のあなたをわたしは覚えていません。はっきり記憶があるのは、 翌年の日本シリーズ。第何戦か失念しましたが、6番スタメンで起用されていました。
そのときの感想は「こんな若者で大丈夫か?」でした。
わたしはあなたのことを何も知りませんでした。
ともあれ、2,000本安打を達成して、塁上では泣かなかったあなたでしたが、試合後のインタビューでは泣きじゃくりましたね。
わたしが見た3回目のあなたの涙でした。
あなたを襲った突然のアクシデント。
95年の5月23日、わたしはカーラジオで試合を聞いていました。
それから復帰するまでの時間にあなたが費やした努力と涙は、それこそわたしが見たたった3回の涙の量ではないでしょう。
そして、その努力と不屈の闘志は、長い間球界の伝説になることでしょう。
今はただおめでとうという言葉と、あなたが少しでも長く現役を続けられることを祈るのみです。
来年は広島市民球場を本拠地とする最後の年になりそうです。
来季は広島であなたの雄姿を見たいと思っています。
あれは確か、第一次山本浩二政権の時でした。リーグ優勝後のことだから、92年から94年のことだったと思います。東京ドームの讀賣戦。あなたは、讀賣の選手の安打を後逸し、その選手は長駆ホームインしました(わたしの記憶が確かならば)。試合はその1点を巡る攻防で進んでいきました。
8回表の攻撃。走者一人を置いて、あなたは右翼席に逆転の本塁打を放ちました。ダイヤモンドを回ってベンチに戻ってくると、あなたはテレビカメラで大写しになっていることにも気づかず、そしてチームメイトの目も憚らないまま、大泣きしました。
2回目の涙は、02年4月5日のこと。右アキレス腱のみならず、とうとう前年には左のアキレス腱も手術したあなたが、長いリハビリを終えてこのシーズン復帰を果たしました。
5回裏、あなたの放った打球はバックスクリーンに飛び込んでいきました。ダグアウトに戻り、ベンチ裏で地元テレビのインタビューに応えた際、またもやあなたの目から涙がこぼれていました。復帰後、初めての本塁打だったからです。
この日のテレビ解説を務められていた達川光男さんに「よかったなぁ」と声をかけられると涙声で「ご迷惑をおかけしました」とあなたは呟きました。
その前年、前々年とカープの達川政権時代、あなたは故障に次ぐ故障、そして左アキレス腱の手術で、満足に試合すら出られない日々が続いて続きました。わたしも選手生命はもう終わりなのか、と思ったものでした。
あれは、00年のことだったか、仕事仲間と横浜スタジアムにベイスターズ対カープ戦を観に行ったときのことです。
あなたはスタメンから外れていましたが、試合の終盤、代打で登場してきました。
この年のことはあよく覚えているのですが、あなたはほとんど試合にも出られず、出ても往年の打球を飛ばすことは出来ない状態でした。
わたしは、この年であなたの引退を覚悟しました。
だから、この日、シーズンも週場に差し掛かった横浜戦で登場してきたあなたの姿を見たとき、「これが現役でみる前田選手の最後の姿になるかもしれない」と思い、「最後の前田かも」と大声で右翼席で叫んだものです。すると、近くにいた孫を連れたおばあちゃんが、わたしの方を振り返り、「うんうん」とうなづいていたのを思い出します。
あなたはあえなく凡退しました。
そんなあなたが、翌年溌剌とプレーし、本塁打を放った。わたしの目頭も熱くなったことは言うまでもありません。あの当時からすれば、まさかこんな日が来るとは全く想像すらできませんでした。
まさか打席が回ってくるとも思いもしませんでしたが、安打が出る雰囲気はもうテレビからも漂っていました。
2,000本安打達成おめでとうございます。
あの日の試合の8回裏も劇的でしたね。
7回裏はあなたで攻撃を終えてしまったので、8回が始まる時点で最も遠い打順があなたでした。
嶋重宣選手の逆転本塁打がとび出してから、チームはあなたに打順を回そうととにかく全員一丸になっているのがよく分かりました。
しかし、本当に打順が回るとは・・・。
そして、2死満塁というこれ以上ない見せ場が訪れるとは・・・。
あなたが、一塁ベース上で歓喜に揺れる中、2人の息子さんが花束を持ってお祝いに出てこられたとき、きっとあなたは泣いてしまうのではないかと思いました。
しかし、あなたは泣かずに優しい笑顔でお子さんの頭を撫でていましたね。
翌日の日刊スポーツには、そのときの模様をこう記しています。
「前田智に花束を届けたのは長男浩由君と二男晃宏君だった。息子2人の頭をなで、父親の顔で笑った。」
あなたは笑い、わたしは泣いた。
それはそれは微笑ましく、感動的なシーンでした。
広島カープ、松田オーナーの言葉も印象的です。
「数々の栄光と大きな挫折を乗り越えて、少年が大人になり、そして父親になった18年間を思い出します。おめでとう。」
そういえば、プロ入りからもう18年が経ってしまっていたのですね。
あなたのプロ入りは89年のドラフト。90年がルーキーイヤーでした。わたしは翌年に就職するので、あなたの方が社会人としての先輩です。
残念ながらルーキー時のあなたをわたしは覚えていません。はっきり記憶があるのは、 翌年の日本シリーズ。第何戦か失念しましたが、6番スタメンで起用されていました。
そのときの感想は「こんな若者で大丈夫か?」でした。
わたしはあなたのことを何も知りませんでした。
ともあれ、2,000本安打を達成して、塁上では泣かなかったあなたでしたが、試合後のインタビューでは泣きじゃくりましたね。
わたしが見た3回目のあなたの涙でした。
あなたを襲った突然のアクシデント。
95年の5月23日、わたしはカーラジオで試合を聞いていました。
それから復帰するまでの時間にあなたが費やした努力と涙は、それこそわたしが見たたった3回の涙の量ではないでしょう。
そして、その努力と不屈の闘志は、長い間球界の伝説になることでしょう。
今はただおめでとうという言葉と、あなたが少しでも長く現役を続けられることを祈るのみです。
来年は広島市民球場を本拠地とする最後の年になりそうです。
来季は広島であなたの雄姿を見たいと思っています。
前田選手の2000本安打にはとっても
感心させられました。
何度も怪我を乗り越えたすえの
快挙達成!!
敵ながらあっぱれです!!!
前田選手へのコメントありがとうございます。
記録達成翌日の日刊スポーツに落合監督の手記が掲載されました。
曰く「前田選手の打撃フォームは子どもたちのお手本にもなるフォーム。中日の選手たちにもそう話している」と。
また、何年か前の「Number」誌に中日福留選手のインタビューで「構えの段階からすでにトップをたもつフォームは理想」とありました。
そういえば、福留選手も構えの段階から両手はトップにありますね。
落合監督も孤高の選手と言われました。いずれ、前田選手も監督として成功してもらいたいです。