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さすら碑 020 - 関東大震災の団結力は焼夷弾の前には無力だった - 「戦災殉難者慰霊碑」(千代田区神田佐久間町)

2024-03-16 14:39:51 | さすら碑

久しぶりに神田佐久間町のY野さんの事務所へ行くことになった。独立後初めてだから、3年ぶりかしら。秋葉原駅を降りて昭和通り口へ。うわぁ、何だか懐かしい。老舗の煎餅屋もまだ営ってる。「大衆イタリアン かね子」も潰れてない。この店には開店早々行ったな。 K敷印刷のK林さんと飲んだっけ。そのK林さんも会社を辞めたときいた。

更に先に進むと行列が絶えない、「青島食堂」。一度だけ、ここのラーメンは食べたことがある。確かに旨いラーメンだった。

さて、予定よりも早く事務所に着いてしまった。どれ、ちょっと散策するか。総武線高架沿いに佐久間公園があって、確か慰霊碑があったはずだ。

少し歩くと公園は昔のまんま。慰霊碑もまだそのままだ。確か、この佐久間公園はラジオ体操、発祥の地とされていたはずだ。昭和5年に万世橋警察の巡査が住人を集めて開催したという。

公園には慰霊碑の他、祠もあって、なんだか都心にあるとは思えない一角になっている。慰霊碑は「戦災殉難者慰霊碑」だが、碑の横にある掲示板には、戦災のことは一切記載されていない。書いてあるのは、関東大震災の際の火災を住人らが食い止めたという話しである。ただ、この話題、今も語り継がれる有名な話しらしい。関東大震災で最も大きな被害を出したのは両国の横網公園である。確かに隅田川を挟んでいるとはいえ、両国と秋葉原はもう目と鼻の先。その地において、延焼を免れたことは奇跡に近い。住民らの団結力は称賛に値する。

「戦災殉難慰霊碑」は東京大空襲の約400名にのぼる犠牲者の鎮魂碑である。関東大震災を生き延びた人らが、その22年後に異なる災厄に見舞われるとはゆめゆめ思っていなかっただろう。この町の団結力をもってしても、焼夷弾による火災を鎮火することは出来なかったのである。ただ戦時下において、神田佐久間町と神田和泉町の功績を称え、あたかも空襲に対抗できるような街宣は、つまりプロパガンダの何ものでもなかったのだ。

慰霊碑の題字は鳩山一郎氏のもの。昭和32年建立。

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