例えばこんな話がある。
学生が就職先企業を決める際、決定的な役割を果たしているのは母親だという。
父親ではなく母親なのだ。
まあ、大学の入学式に参列したり、会社の入社式にさえ参列したがる母親がいる時代だから、子供の就職先決定に口を出すぐらいは当たり前のことだろう。
そのこと自体おかしな話ではない。昔から親は子の相談に乗っていたわけだから。
ただ、相談相手が父親ではなく母親に代わってきたのだ。
そのことが重要な変化を引き起こしている。
社会的認知度が重要な問題になってきたのだ。
「我、社名を知っている故にその企業あり、我、知らざる故にその企業なし」
デカルト風に言えばこんな現象が強まっている。
つまり、母親は自分が見聞きした企業を存在していると思い、そうでない企業は彼女にとって存在していないのと同じなのだ。
当然、子供の就職先に関してもこの論理を当てはめるから、自分が知っている企業の方を勧めることになる。
例えば自分が乗っている車のメーカーと、エンジンを作っているメーカーでは、後者がどんなに技術力が高く、業界では有名な企業でも、母親がそのメーカーの社名すら聞いたことがなければ、彼女は自分がよく知っている前者のメーカーを躊躇なく勧める。
こうしたことがあらゆる分野で起こっているのだ。
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学生が就職先企業を決める際、決定的な役割を果たしているのは母親だという。
父親ではなく母親なのだ。
まあ、大学の入学式に参列したり、会社の入社式にさえ参列したがる母親がいる時代だから、子供の就職先決定に口を出すぐらいは当たり前のことだろう。
そのこと自体おかしな話ではない。昔から親は子の相談に乗っていたわけだから。
ただ、相談相手が父親ではなく母親に代わってきたのだ。
そのことが重要な変化を引き起こしている。
社会的認知度が重要な問題になってきたのだ。
「我、社名を知っている故にその企業あり、我、知らざる故にその企業なし」
デカルト風に言えばこんな現象が強まっている。
つまり、母親は自分が見聞きした企業を存在していると思い、そうでない企業は彼女にとって存在していないのと同じなのだ。
当然、子供の就職先に関してもこの論理を当てはめるから、自分が知っている企業の方を勧めることになる。
例えば自分が乗っている車のメーカーと、エンジンを作っているメーカーでは、後者がどんなに技術力が高く、業界では有名な企業でも、母親がそのメーカーの社名すら聞いたことがなければ、彼女は自分がよく知っている前者のメーカーを躊躇なく勧める。
こうしたことがあらゆる分野で起こっているのだ。
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