脳病院の庭は広かった。 高い塀をめぐらした芝生の周囲に、 桜の樹がぐるりと数十本植え込んであり ―― 八重桜の遅れて咲いたのが2、3本 ―― 黄昏の微風に舞い散っていた ―― その葩は遠くに近くに ―― 思い出したように、 時々ぱっと散り敷いて行く。 【吉屋信子著 「男の償い」】 |
起床時からの早い朝は、光溢れる快晴。
日の出も、うんと早くなって、もう春そのもの。
それなのに少しずつ、少しずつ・・お天気は下り、
お昼前には、とうとう雨が降り出しました。尤も霧雨ですが・・。
天気予報通りです。
さて吉屋信子著 「男の償い」、読了。
久し振りに、この手の小説を、しかも一気に読んだ気がします。
そして、涙なくして読めなかった事も。
それこそ、夜を徹して。そう、まるで女学生の頃のように。
「女学生」、何と心地良くて懐かしい響きなのでしょう。
そもそも今時、女学生なんて言葉、使いませんものね。
でも、この小説を読めば、そんな言葉が
自然に口をついて出て来るから不思議です。
そして独特の詩的な言い回しも。それはまるで音楽のようです。
時代背景は、昭和10年から12年。
何と今から70年以上も前ではありませんか。
先日の武者小路実篤もそうですが、この当時の人々は、
ここに出て来るようなこんな品格のある、美しい言葉を使っていたのでしょうか・・。
時代と共に言葉は変わる・・
そんな風に言った方がいらっしゃいました。
だとしたら・・。残念ながら退化して行ってしまったのですね。
ここでも前置きが長くなりましたね。肝心の内容はと言いますと・・。
考古学を専門とする学究肌の滋と、彼の幼馴染でもあり、
再従妹(はとこ)でもある瑠璃子は、互いに心の恋人。
暗黙のうちに将来を約束し、
津田英学塾(現津田塾大)に通う、現代的な美しい女性です。
そんな瑠璃子に多額納税者、堤との縁談が起こり、家族は大乗り気。
ひょんな事から2人の関係を知った瑠璃子の母親は激怒し、会う事を禁じます。
一方、滋は発掘調査のため滞在した伊豆の夕霧楼という老舗の旅館の、
これも匂うように美しい一人娘の寿美に一目惚れされます。
当然の事ながら美しい寿美には、それこそ降るような縁談が・・。。
(この間、色々事情はあるのですが、前後は省きます)
滋は瑠璃子への腹いせもあって、その旅館の入婿となる事に。
ただし、旅館業は全くせず、研究だけに没頭するという条件付きで。
世間知らずで、結構短気で我儘な性格の滋。
文字通り研究ばかりで、寿美の事など全く構っていません。
それでも寿美は、いそいそと滋に献身的に尽くすのですが・・。
一方、瑠璃子も滋に心を残しながら先の堤と結婚。
~こんな風に記しますと、当然、滋を挟んで瑠璃子と寿美の、
それこそ良くある三角関係・・~なんて、思ってしまいますね。
ところが、この小説は、そんな下世話なものではありません。
何しろ、「愛」 に対して次のような信念を持っている吉屋信子なのですから。
長くなりますので詳細は省きますが、
今日の引用文で、うすうす気付かれた方も多い事と思います。
脳病院とはすなわち精神病院の事。
結局、短期間で滋とは心に染まぬ別れをした寿美ですが、
思慕ゆえに辿るその後の悲劇・・。最後にプツンと切れた寿美の繊細な神経。
自分の行ないを悔い改めた滋ですが、ここでも瑠璃子の活躍があったからこその事。
精神病院での再婚式。こんな哀しい結婚式があるでしょうか・・。