昨年庭に植えたヒメシャラの苗木が
いつの間にか枯れていた…
火曜日の午後、夫の叔母の連れ合いの葬儀に参列した。
彼のことを、なんと呼んでいいのか分からず、夫がそう呼んでいたように私も“ひろしさん”と呼んでいた。
心臓にペースメーカーを入れていたと聞いてはいたが、
あまりにも突然の訃報に私は驚いた。
が、
それ以上に驚いたのは告別式でのこと、
親族代表の長男が挨拶で明かした病名だった。
あの女子水泳選手と同じ…
だが、
抗がん剤治療は受けなかったらしい。
QOLを考えた事と「もう歳だから…」が理由らしいが、
私には、それだけではないように思えた。
ひろしさんは叔母の看病を17年間続け、
昨年その叔母を看取った。
叔母にとっても、ひろしさんにとっても、
お互いが無くてはならない存在だったはずだ。
叔母を看取った後で役割を終えた…と、思ったのかもしれない。
病気が発覚した時も、もしかしたら叔母のところに早く行きたいと思ったのではないかしら…。
「7月の末に畑で採れた西瓜を持った来てくれた時は、いつもと変わらなかったよ、
でも、珍しく新しいシャツを着て小綺麗にしていたねぇ」
義母は、ひろしさんの病名にさほど驚きもせず、話を続けた。
「いつもハーちゃん(叔母の愛称)から、着る物は幾らでもあるんだから、ちゃんとしなさい!って叱られていたから、何か思うところがあって新しいシャツ着てきたのかねぇ」
義母が生前のひろしさんと会ったのは、その時が最後だったと言う。
真面目で寡黙な人だった。
ひろしさんは、叔母が亡くなった後もひとりで畑に出て黙々と野菜づくりに勤しんでいたらしい。
私と義母は、
自宅療養中だった叔母を見舞うために、度々、夫婦の家を訪れた。
ひろしさんは、いつも車椅子の叔母に言われるがままに甲斐甲斐しく動き、
私と義母にお茶やお茶菓子を出して、もてなしてくれた。
小一時間滞在する間に、
湯呑みのお茶が半分くらいになると、すぐに継ぎ足してくれる…
叔母から、「茶葉を替えて」
と言われると黙って、茶葉を入れ替えて、また私と義母の湯呑みに、お茶を入れてくれる…
とにかく、まめな人だった。
叔母といる時のひろしさんは、ほとんど喋らずに、
私や義母に話しかける言葉といえば、
「よかったらどうぞ」
と、お菓子を勧めてくれる時ぐらいだが、
一度だけ、
ひろしさんから声をかけてくれた事があった…
あれは、私が退院して間もない頃だったか
いつものように義母と一緒に叔母を見舞うと、
珍しくひろしさんから、
「身体の調子はどうかね?」と嗄れた小さな声で訊いてきた。
「おかげさまで、大丈夫です」
と答えると、
いつもの穏やかな笑顔で頷いた。
次に話したのは叔母の葬儀に参列できなかった私が、初七日に訪問した際だ。
ひろしさんは、少しやつれていたが
長男のお嫁さんと一緒に、私を仏間に迎え入れてくれ、
長かった叔母の闘病生活の事を話してくれた。
あの時のひろしさんは気が張っていたのか、別人のように、しっかりとした口調でよく話してくれた。
ひろしさんの告別式は30人程度のこぢんまりした式だったが、
かつての仕事仲間は、
「若い頃から真面目で仕事が終わると一目散に帰るんだよ」と言い、
誰もが
「真面目でよく働く人だったねぇ」
そう言って、ひろしさんを偲んだ。
いつも、畑で作った農作物を届けてくれた。
今年の夏にもらったひろしさんが作ったスイカは、とても甘かったが、
夫と食べながら、
「ひろしさん、大丈夫かなぁ」
と話した事があった。
仲の良い高齢夫婦の場合、
妻に先立たれると2年以内に夫も亡くなる…
そんな話を聞いた事があるが、
夫の伯父夫婦も
今回の叔母夫婦も、そうだった…。
「後を追うように…」と誰かが言っていたが、
ひろしさんは自分で納得して
人生を終えたのではないかな…
もっと生きていて欲しかったけれど、
それはそれで、
かっこいい人生の終い方だと、
私には思えてくるのだ。