岡田史子が群青を切り裂く彗星のようにあらわれたとき、漫画を描いていたもので嫉妬しないものがあったろうか.....岡田史子はらくらくと文字の呪縛を超え コマについての暗黙のしばりも超え 絵柄さえ脱ぎ捨て ペンをわりばしにかえさせした。そして 見るものたちを瑞瑞しく綺羅綺羅しいコトバのコダマする迷宮に置き去りにし 囚われたわたしたちをひそかにわらっていたのかもしれない。......けれども自ら用意周到に張り巡らした虹色にきらめく蜘蛛の糸の迷宮に岡田史子自身もとらわれ、たいせつなものはなにかを見失ったような気がしてならないのだ......。
才能というのは不思議なものだ。拙い才を血の滲むような努力と うつくしいものに向かってゆこうとする身の程を知らない歓びでもって磨きぬいてゆくものがいる。デビュー当時山岸涼子はヘタだった。実際 恥ずかしいくらいヘタだった。 今の色彩の洗練をだれが予想しただろう。伽藍のごとく構築されたものがたりをだれが予想しただろう。
岡田史子の項垂れるヘルマプロディトスや阿修羅を視ると、わたしは今でも戦慄する 焦燥に駆られる 暗い灰色の不安にゆびさきまで染まりそうになる。......ヘルマプロディトスも阿修羅もほかの人物も永遠に呪縛から逃れられはしない......岡田史子はかろやかに蝶のように飛翔してゆくように思われたのに ものがたりからひとつだに糸口は見つからないのだった。書くこととはなんだろう 語るとはなんだろう...自らを縛める呪縛からひとつずつ鎖をはがすように自由にしてゆくことではなかろうか.....まず自分を....そして読者を聴き手を。.....岡田史子にとって漫画とはいったいなんだったのだろう.....おそらく試すことであり....ひとつのステップに過ぎなかったのだろう。
それにしても なんとうつくしいこの残骸.......日に灼かれガラスのように結晶化した白い骨..... 春の夢の、希みの哀しみの残骸.......けれども 此処からはじまったのかも知れないのだ。......そこにあるのは見えない吐息......見えないけれど立ちのぼるかげろい......聴こえない音楽。
耳を閉じ 眼を瞑り 受け継いだひとたちが それぞれのコトバにして解きはなし手渡していったとしたら....これこそ再生...... 55歳で逝ってしまったあなたの若き日の贄はたしかに受け取られたのです。
所有している作品 すべてCOM ファニィ から
1967 太陽と骸骨のような少年 フライハイトと白い骨 最終ページが行方不明だったので、前のページを最終ページとして発表された。夏 ポーヴレド 天国の花 1968 ガラス玉 サンルームのひるさがり 春のふしぎ いずみよいずみ 胸をだき 首をかしげるヘルマプロディトス 赤い蔓草 PART1 赤い蔓草 PART2 1969 夢の中の宮殿 ピグマリオン 死んでしまった手首 阿修羅王 前編 死んでしまった手首 阿修羅王 後編 愛の神話 - 絵物語。連載作。私の絵本 イマジネイション 邪悪のジャック 死んでしまったルシィ ほんのすこしの水 PART1 ほんのすこしの水 PART2 1970 墓地へゆく道 トッコ・さみしい心 いとしのアンジェリカ
岡田史子の好きな漫画家 手塚治虫 水野英子 西谷祥子 大島弓子
影響を受けた漫画家 永島慎二
好きな文学作品 チボー家のジャック 楡家のひとびと
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岡田史子インタビューは→コチラ
2005年10月30日 1000の昼と夜に書いたこと
........岡田さんが漫画を書くようになったのは「人間はいつか死ぬのに、どうして生きていかなくちゃならないんだろう」という疑問に取り憑かれて、それを漫画にぶつけて、読者に問いかけたのだそうだ。その根底に12歳で母上をなくされた深い喪失感があったという。なぜ生きるか、なぜここにいなくてはならないか.....この不条理この不可解な世界を耐え忍ばなければいけないということ.....永遠の謎 .答のない命題を岡田さんはいともやすやすと漫画紙上にのせてしまった。もちろん それまでだって 試みをした漫画家はいたのだけれど 岡田さんはその象徴性 美 難解さにおいて神話そのものだったのだ。
わたしは同じ世代だった。そしてわたしは岡田史子という漫画家を正視できなかった。その世界が美しすぎて 痛ましくて 答えがでないとわかりきっているのに.....夢に溺れている感じがして.....どこにも逃げる場所など在りはしないのだ 汚れたってここで生きるしかない......とどこかで思いつつ 羨ましかった。破滅さえも。途中までしか知らないがわたしの知っている岡田史子の作品にハッピーエンドはない。
「喪失感を埋めてくれる人を探し求めて、漫画を発表していたのです。、だけども、誰もいなかった。わたしががそういう人を求めているということに気づいた人さえいなかったから。」岡田さんはのちにそう語っている。1990年岡田さんはペンを折った。そしてクリスチャンになって 4月3日亡くなった。晩年は穏やかな顔をなさっていた。求めていたものを 手にされたのだと思う。
なぜここに岡田さんのことを書いたのかといえば....わたしは絵が書けなくてついには断念したのだけれど漫画家になることを夢みていた。.....あきらめたのち長いことかかってペンのかわりのものをみつけた。わたしが声に託して語りをしているのは、そういうわけなのである。なぜ生きているのか....なぜここにいなくてはならないのか......それをずっと問いかけたかった わたしのものがたりを伝えたかった 語りをしているときは ここにいることを許されていると確かに感じとることができたから。
そして今は .自分も他のすべてのひとびともここにいることに意味がある.....(どんなに悲惨な状況であったとしても) と信じている。そしてよきこと美しきことのためなにかを生すことができると信じてもいる。アートとか芸術をわたしはフェルメールやダヴィンチの...はるかな高みにある世界のことと思っていた。そうではなくてごくふつうのひとたちが自分を回復するための試みなのだと気付いたのはおとといの電車のなかだった 歌うこと 踊ること 弾くこと 奏でること 創ること 芝居をすること 描くこと 書くこと わたしたちの語りもそういうものなのだ。自分を知ること この世の秘儀を知ること 復活と甦りの試み。
成熟とは受けとめること 逃げないこと この手に世界の闇の一部をひきうけなお あかりを灯そうとすること。しかしわたしは愛惜する。薄青い闇のなかでかすかな苦痛と予兆に眉根を寄せながらなおまどろんでいたあの頃 岡田史子という漫画家が光芒を放ち 夏樹が未だ生きていて 日本がまだ若く わたしたちの足音が建築さなかの新宿の地下通路に響いていたあの頃のこと。
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