音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

モーツァルト10歳のソナタ

2024-09-15 23:47:00 | 古典
土曜の午後はギターの川原さんと秋冬なコンサートの選曲でした。

10月12日(土)13:00光明寺おてライブ、
11月30日(土)道頓堀ホテルでの依頼演奏、
12月15日(日)10:00西宮ギター練習会コンサート 夙川公民館ホール

ギター川原久美子さんとフルート久米素子で演奏します。

紅茶を持ってきてくれました。
アフタヌーンティーの紅茶ブック。
 

いろいろな種類の紅茶が入っていました。
今回はアップルティー。
爽やかなりんごの風味が残暑にぴったり。
至福〜〜〜💖

真面目に選曲はしましたよ。
いつもの定番曲だけでなく、新しい曲にもチャレンジ。
モーツァルトのソナタの第二楽章を演奏することにしました。
練習しなくっちゃ!

ウォルフガング アマデウス モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

1763年6月9日7歳から1766年11月29日11歳までの約3年半、モーツァルト一家は西方への大旅行をしました。

その中でロンドンで作曲されたのが6曲からなる「ヴァイオリンまたはフルート(およびチェロ)の伴奏で演奏できるクラヴサンのためのソナタ」です。

作曲の目的は(当時20歳の)英王妃シャーロット(1744-1818年)

ソフィア・シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ(Sophia Charlotte of Mecklenburg-Strelitz, 1744年5月19日 - 1818年11月17日[1])は、イギリス国王ジョージ3世の王妃。
1781年、トマス・ゲインズバラ画
に献呈するためでした

1765年1月に「作品3」として出版されました。

これら6曲は(変ロ長調 K.10、ト長調 K.11、イ長調 K.12、ヘ長調 K.13、ハ長調 K.14、変ロ長調 K.15 )で「ロンドン・ソナタ」と呼ばれています。

モーツァルトはバッキンガム宮殿を

1764年の4月と5月の二度訪問し、1760年に即位した国王ジョージ三世(1728-1820年)

に拝謁しています。

そこではクリスティアン・バッハ(当時29歳)が王妃シャーロットの音楽教師をつとめていました。

モーツァルトは神童ぶりを発揮して一堂を驚愕させつつ、クリスティアン・バッハの作品を貪欲に吸収していきました。

ヨハン・クリスティアン・バッハ(Johann Christian Bach, 1735年9月5日 - 1782年1月1日)
そのうちのK.15は
3楽章ともハ長調で、アレグロを2つ続けたあとにメヌエットという構成に工夫がされています。

この曲には舞曲のような雰囲気があります。 第2楽章テーマは、父のレオポルトが病気療養中に、ウォルフガング モーツァルトがさまざまな作曲を試みて書き残した「ロンドンの楽譜帳」の第21曲(K.15v)と同じものです。 第3楽章メヌエットのトリオは「カリヨン(鐘楽)風メヌエット」と題され、鐘の音を真似る工夫をしています。

これら6曲はケッヘル旧全集から第6版まで「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ」とされていましたが、新全集では「ピアノ三重奏曲」と位置づけられています。 したがって、この作品は「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ第9番」または「ピアノ三重奏曲第5番」ということになっています。

もちろん私たちはフルートとギターで演奏します。






しばしの自由

2024-09-11 21:02:00 | 古典
火曜の朝は子育てサロン。
お名前を呼んで、手遊びをした後、
ボールプール。

受けました。
…めっちゃ受けました。
ボールの海でバシャバシャ泳ぐ子、飛び込む子、ボールを投げて遊ぶ子。
小さなブールでしたが、充分でした。

午後からは天満橋ルーシェ音楽院の部屋を借りてチェロの斉藤千秋さんとハイドンのロンドントリオとヘンデルのフルートソナタを合わせました。

ルーシェは天満橋を渡って川沿いに少し戻ったところです。



時間決めのレンタル練習室は、電子錠、料金は封筒に入れてポストインと徹底的に人を介さないシステムでした。

斉藤さんとは以前、エイパでお会いしました。
ようやくねがいがかなって「聴き合い会」でご一緒することができるようになりました。

ロンドントリオはフルート2本ですが、今川さんのご都合が合わなかったので、一人でファーストを吹きました。

大体のテンポを決めて、それで練習してくることにしました。今川さんにも伝えなくちゃ。

それから、ヘンデル。こちらはピアノの坂田さんとのトリオなので坂田さんにも後で伝えます。

8番のテンポを決めたら時間が余ったのでハ長調も急遽やりました。

ハ長調もいい曲!またやろう。


フランツ ヨーゼフ ハイドン(1732-1809年)神聖ローマ帝国オーストリア大公国ローラウ生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

ピアノ三重奏曲を45曲書いていました。
大部分は鍵盤楽器(チェンバロまたはピアノ)、ヴァイオリン、チェロによります。
が、Hob. XV:15-17の3曲は1790年にロンドンで出版されたときにヴァイオリンではなくフルートを使っていました。

1780年ごろにはエステルハージ家

の外でもハイドンの人気は上がり、徐々にエステルハージ家以外のために書いた曲の比率が増していきました。

の時期には『ロシア四重奏曲 作品33』(1781年)、『チェロ協奏曲第2番 作品101』(1783年)、『ピアノ協奏曲 ニ長調(Hob. XVIII:11)』(1784年出版)などの重要な作品がまとめて書かれました。

またハイドンはウィーンのアルタリア社やロンドンのフォースター社などと契約を結んで楽譜を出版しました。

1785年から翌年にかけてはフランスからの注文で『パリ交響曲』(第82番『熊』~第87番)を作曲しましたが、これはエステルハージ家以外の楽団のために書かれた最初の交響曲でした。

1785年にはスペインからの注文によって、管弦楽曲(後に弦楽四重奏曲やオラトリオに編曲)『十字架上のキリストの最後の7つの言葉』が作曲されました。

ハイドンは「侯爵が生きている限り、彼のもとを離れるわけにはいかなかった。」といい、長い間イギリスからの招待も断っていました。

また、ハイドンは次のようにも述べています。

「侯爵は私の全ての作品に満足していた。私は承認を得て、オーケストラの楽長として、実験を行うことができた。つまり、何が効果を高め、何がそれを弱めるかを観察し、それによって改良し、付け加え、削除し、冒険することができたのだ。私は世間から隔絶されていて、私の周りには行く手を惑わせたり邪魔したりする者は誰もいなかった。だから、私は独創的にならざるをえなかった。」

1790年、エステルハージ家のニコラウス侯爵


が死去。
その後継者アントン・エステルハージ (1738–1794))侯爵

は音楽に全くと言っていいほど関心を示さず、音楽家をほとんど解雇し、ハイドンに年間1400グルデンの年金を与えて年金暮らしにさせてしまいました。 

ただしハイドンにしてみれば、自由に曲を書く機会が与えられながら、同時に安定した収入も得られるという事で、必ずしも悪い話ではありませんでした。

ウィーンに出てきていたハイドンは、ロンドンのハノーヴァー・スクエア・ルームズで演奏会を開催していた興行主ヨハン・ペーター・ザーロモン(1745−1815年)

の招きにより、イギリスに渡って新しい交響曲とオペラを上演することになりました(オペラ『哲学者の魂』は完成したものの上演されませんでした)。

ハイドンはエステルハージ家を離れて一時期、自由に作曲活動が行えた時期の作品の1つです。

ピアノ三重奏曲Hob. XY15




初演200周年ベートーヴェン

2024-09-09 21:03:00 | 古典
日曜日はフェニーチェ堺で、プロージット室内管弦楽団の練習です。
「それどこにあるの?」から始まって、うーん駅から歩いて900メートル。
午後3:00集合。
暑そう。
夫と次男が空いています。
頼みました。

半分は私のためではありません。
止めっぱなしのスカイラインを動かすため。と言っても助かります。
牧野から1時間足らずで着きました。

オールベートーヴェンプログラム。
第九初演プログラム再現特別演奏会

10月20日(日)14:15開場15:00開演14:40より指揮者木許裕介氏によるプレトーク

ソプラノ杉浦希未 メゾソプラノ谷田奈央 テノール清原邦仁 バリトン池田昌巳
コンサートマスター友永健二

献堂式は、ベートーヴェンにしてはあまり上演されない曲ですが、1824年5月7日 今からちょうど二百年前に第九初演時にミサ・ソレムニスと共に演奏されました。

この時の演奏会はどんな様子だったのでしょう。

『献堂式』序曲(けんどうしきじょきょく、Ouvertüre „Die Weihe des Hauses“) 作品124は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが作曲した序曲です。ベートーヴェンが純粋管弦楽のために作曲した最後の作品にあたり、1820年代に書かれた唯一の序曲でもあります。

出版:1825年にマインツのショット社より出版。
献呈:ニコラウス・ガリツィン侯爵。

1822年に、ウィーンに新築されたヨーゼフシュタット劇場


ヨーゼフシュタットの kk 特権劇場、1844 年
のこけら落としのために作曲された祝典劇の序曲です。

劇場の支配人カール・フリードリヒ・ヘンスラーは作家のカール・マイスル(Karl Meisl, 1761年 - 1825年)

に劇の制作を依頼し、マイスルが制作した作品は『侯爵の肖像』と『献堂式』の2作品でした。

祝典劇の『献堂式』はかつてブダペストで上演された付随音楽『アテネの廃墟』(コツェブー原作)を翻案することが決まったため、マイスルは内容を一部変更し、同時にベートーヴェンも劇の音楽を改作することになりました(ただし大半は『アテネの廃墟』からの転用でした。)。この改作で生み出された作品が合唱曲(WoO.98)と『献堂式序曲』です。

祝典劇の初演は1822年10月3日に、ウィーンのヨーゼフシュタット劇場でフランツ・グレーザーの指揮で行われた。

また、1824年5月7日に交響曲第9番が初演された際に、ミサ・ソレムニスからの3曲(プログラムには「三つの大賛歌」として記載)とともにこの曲も演奏されています。

ミサ・ソレムニスは 
1824年4月7日にサンクトペテルブルクでの「音楽家未亡人のための慈善演奏会」で初演されています。

ウィーン初演は1ヵ月後の5月7日で交響曲第9番とともに演奏されましたが、全曲ではなく、『キリエ』、『クレド』、『アニュス・デイ』しか演奏されませんでした。楽譜の初出版は1827年。

『キリエ』冒頭には「心より出で-願わくば再び-心に向かうよう」にと記され、

自筆、キリエの冒頭、有名な献辞「Von Herzen...」と演奏アドバイス「Mit Andacht」(「献身的に」)付き
『アニュス・デイ』では戦争を暗示する軍楽調の部分や「内と外の平和を願って」
とのベートーヴェン自身による指示が書き込まれています。これらは、ベートーヴェンが心の平安と外的な平和を統一して希求する音楽として作曲していたことを示しています。

『アニュス・デイ』においては、ヘンデルの影響も古くから指摘されています。

ベートーヴェンは交響曲をアレクサンドル1世に、『ミサ・ソレムニス』を皇后エリザヴェータ・アレクセーエヴナにそれぞれ献呈し、その見返りとしてロシア帝室からの年金の下賜を期待していた節があります。

その後の推移ははっきりしていませんが、1825年11月25日付のショット社宛の書簡では「献呈はまだ決めていない」と記していて、それから間もない12月1日にアレクサンドル1世は崩御。

年明けた1826年1月28日付ショット社宛の書簡では「皇帝アレクサンドルに捧げられることが決まっていましたが」と記しており、同時に新しい献呈先を近いうちに知らせると記しています。

当時のウィーンではロッシーニのオペラが流行していたため、ベートーヴェンは当初、ウィーンの聴衆には自分の音楽がそぐわないと判断し、ベルリンでの初演を希望していました。
しかし、ベートーヴェンを支援していたリヒノフスキー伯爵らの計らいでウィーンでの初演を求める嘆願書が作られ、ベートーヴェンはベルリン初演を思い止まります。

初演は1824年5月7日、ウィーンのケルントナートーア劇場

においてミサ・ソレムニスの「キリエ」「クレド」「アニュス・ディ」や「献堂式」序曲とともに初演されました。

ベートーヴェンは「総指揮者」として作品に立ち会いましたが、指揮者としてのブランクや、聴力の衰えもあったことから、実際の指揮はミヒャエル・ウムラウフが行いました。

初演に携わった管弦楽・合唱のメンバーはいずれもアマチュア混成で、管楽器は倍の編成(木管のみか金管を含むか諸説あります)、弦楽器奏者も50人ほどで、管弦楽だけで80 - 90名の大編成でした。

合唱はパート譜が40部作成されたことが判っており、原典版を編集したジョナサン・デル・マーは「合唱団は40人」としていますが、劇場付きの合唱団が少年・男声合唱団総勢66名という記述が会話帳にあり、楽譜1冊を2人で見たとすれば「80人」になります。

参加者の証言によると、第九の初演はリハーサル不足(2回の完全なリハーサルしかなかった)で、かなり不完全だったといわれています。

ソプラノソロのヘンリエッテ ゾンターク
 
ゾンターク1825年
は18歳、
アルトソロのカロリーネ ウンガー

は21歳という若さに加え、男声ソロ2名は初演直前に変更になってしまい(バリトンソロのザイペルトが譜面を受け取ったのは、初演3日前とされる)、ソロパートはかなりの不安を抱えたまま、初演を迎えています。

さらに、総練習の回数が2回と少なく、管楽器のエキストラまで揃ったのが初演前日とスケジュール上ギリギリであったこと、演奏者にはアマチュアが多く加わっていたこと(長年の戦争でプロの演奏家は人手不足でした。例えば初演の企画段階でも「ウィーンにはコンサート・ピアニストが居ない」と語られています)、加えて合奏の脱落や崩壊を防ぐためピアノが参加して合奏をリードしていました。
 
一方で、初演は大成功を収めました。

『テアター・ツァイトゥング』紙に「大衆は音楽の英雄を最高の敬意と同情をもって受け取り、彼の素晴らしく巨大な作品に最も熱心に耳を傾け、歓喜に満ちた拍手を送り、しばしばセクションの間、そしてセクションの最後には何度も繰り返した」という評論家の記載があります。

ベートーヴェンは当時既に聴力を失っていたため、ウムラウフが正指揮者として、ベートーヴェンは各楽章のテンポを指示する役目で指揮台に上がりました。

1815年ベートーヴェン
ベートーヴェン自身は初演は失敗だったと思い、演奏後も聴衆の方を向くことができず、また拍手も聞こえなかったため、聴衆の喝采に気づきませんでした。

見かねたアルト歌手のカロリーネ・ウンガーがベートーヴェンを聴衆の方に向かせ、初めて拍手を見ることができました。

観衆が熱狂し、アンコールでは2度も第2楽章が演奏され、3度目のアンコールを行おうとして兵に止められたという話が残っています。

このように「好評」の逸話が残る初演ですが、その根拠は繰り返された喝采やアンコール、会話帳に残るベートーヴェン周辺の対話で、「ベートーヴェンの愛好家ばかりが騒いでいた」という否定的な証言もあります。 

なお初演の収入は会場使用料や写譜代金などを差し引いて420グルデンという数字が伝えられています。

シンドラーの「2000グルデンは儲かる」という話をはじめとして「成功間違い無し」と周囲に吹き込まれて開いた演奏会でもあり、この金額はベートーヴェンには明らかに少なかったと思われます。

次の再演では予め1200グルデンがベートーヴェンに支払われています。



男?あるいは女?

2024-08-29 21:01:00 | 古典
旧宅のガレージ…夫が育てている植物やクワガタ、メダカで占拠されています。

水草採集も
何かいる?
蛙が勝手に住みついたみたい。
カエルと言えば、先月預かったクロムウェルツノガエルの小雪姫。
久しぶりに飼い主さんに出会ったら、鳴き出したそうです。

人が見ている時はあまり鳴かないで夜中一匹になった時に鳴いているそうです。

動画送ってくれました。見たい人だけ見てくださいね。
ゲロゲロって、泣くのかと思ったら「わん。」「わん。」
子犬のような鳴き声でした。

そして…

鳴いたと言うことは、

そう男の子でした~🤣💦
小雪王子👑

チャンチャン🎶

ルートヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1770- 1827年)神聖ローマ帝国ケルン選定公領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

が完成した唯一のオペラ「フィデリオ」op72


「フィデリオ」構想期
『レオノーレ』第1稿

ブイイの原作は.トゥーレーヌで起こった事件を元に書かれました。

これを基に
1798年にピエール・ガヴォーによる『レオノール』、1804年にドレスデンで初演されたフェルディナンド・パエールによる『レオノーラ』が作曲されました。

その頃、ウィーンの主要歌劇場を手中に収めたブラウン男爵が腹心のゾンライトナーに原作をドイツ語に翻訳させ、ゾンライトナーを通じてベートーヴェンに作曲を依頼しました。

何度も書き直すなどの苦労もありましたが、だいたい1年ぐらいで完成され、初演は1805年10月15日に内定しました。

ところが、ナポレオン軍がウィーンに迫った(11月13日に占領)影響で、初演日は11月20日に繰り下げられました。

皇帝時代のナポレオン。近衛連隊長の制服を着用している(画:ダヴィッド

ベートーヴェンは『レオノーレ』というタイトルでの上演を主張しましたが、前2作との混同を避けるため、結局劇場側の推す『フィデリオ』のタイトルに決めました。

アン・デア・ウィーン劇場

でベートーヴェン自身の指揮により3日間上演されました。
しかし、何人かのベートーヴェンの友人と新聞記者を除けば、観客の大半がフランス軍兵士で、ドイツ語を理解できる兵士がいなかったこともあり大失敗に終わりました。

『レオノーレ』第2稿
この初演ののち、ベートーヴェンは友人の勧めに従ってこのオペラを改訂することに決めました。

シュテファン・フォン・ブロイニングの協力を得て、『レオノーレ』を2幕のオペラへと改作し、さらに序曲も新しいものへ差し替えました。

改訂は1805年暮れ頃から年明けにかけて行われ、1806年の3月29日にリッター・イグナーツ・ザイフリートの指揮により初演、4月10日に再演され、いずれも成功を収めました。

しかし、ベートーヴェンとブラウン男爵との間の金銭トラブルから、それ以上は公演されませんでした。このときの公演でも、ベートーヴェンのタイトル案『レオノーレ』は受け入れられなませんでした。

『フィデリオ』
第2稿による初演のあと、1810年に『フィデリオ』の楽譜が出版され、しばらく上演されることもありませんでした。
1810年頃からベートーヴェンの作品(例えば『ウェリントンの勝利』)が人気を博すようになり、ウィーンの劇場主や人気歌手がその人気に便乗しようと、ベートーヴェンに『フィデリオ』上演を盛んに打診するようになりました。

その中で、主要歌劇場ケルントナートーア劇場(ケルントネル門劇場)の運営を任されていたトライチュケの申し入れをベートーヴェンが台本の改訂を条件として受け入れ、同時に音楽の改訂も行われました。

改訂は1814年3月から5月の2か月間に行われ、その際、タイトルも『レオノーレ』に強くこだわることをやめて『フィデリオ』を受け入れることになりました。

初演は1814年5月23日に行われました。
当時ベートーヴェンは難聴が急速に進んでいました。
なのでミヒャエル・ウムラウフの手助けを借りながら自身で指揮をしました

序曲は、初演当時は作曲が間に合わず、『アテネの廃墟』序曲で代用されましたが、5月26日の上演から『フィデリオ』序曲を付して上演され、以後ウィーン会議のために来訪した諸侯のための上演を含め、1814年中に何度も上演されました。

オペラ「フィデリオ」op72
あらすじ
舞台は16世紀末、スペインのセビリャから数キロメートルほどのところの刑務所。

第1幕 
フィデリオはレオノーレの変装した姿で権力者ピツァロに抵抗して囚われた夫フロレスタンを救いに刑務所に潜入しています。

フィデリオ(レオノーレ)役のイーダ・ヒードラー

看守の娘マルツェリーネは「もし結婚してくれるなら」と頼むヤキーノに「絶対結婚しない、フィデリオ(レオノーレ)に夢中だから」と返事します。

フィデリオは、修理したばかりの鎖の重い荷物を運びながら入ってきます。看守のロッコはフィデリオの技術を褒めますが、彼の控えめな返答は、自分の娘の気を惹くためではないかと誤解します。

ロッコはフィデリオに、「知事がセビリャに出発したらすぐマルツェリーネと結婚して良い、」と言い、彼はさらに、「金が無ければ幸せになれない」とも言います。

フィデリオは金と同様に重要なものが欲しいとロッコに囚人の情報を聞き出します。

ピツァロが護衛と共に登場し、ロッコはピツァロにメッセージを渡します。
それには、「ピツァロが暴君であるという告発の調査のために、大臣が抜き打ちで明日来所する」と書かれていました。

ピツァロは、監禁されているドン・フロレスタンは死んだと思われているし、大臣が見つけられるはずはない。代わりに「すぐにもピツァロがフロレスタンを殺してやる」と言います。

彼はロッコに金を渡し、フロレスタンを殺すように言うが、ロッコは断ります。

かわりにピツァロは牢獄の中の古井戸の中に墓穴を掘るように命令します。墓穴ができたらロッコは音を出して知らせ、ピツァロは偶然を装って牢獄に入って自分でフロレスタンを殺す、と。

フィデリオはピツァロが筋書きを立てる様子は見ていましたが、声は聞こえず、彼女の心は波立ちますが、夫のことを考えて冷静さを取り戻します。

フィデリオは哀れな囚人たちが気持ちの良い天気を楽しめるよう、庭を散歩させてはどうか、とロッコに提案。

囚人たちはつかの間の自由を非常に喜び、嬉しそうに歌います。

ロッコが再び登場し、ピツァロが娘マルチェリーナとフィデリオの結婚を許し、ロッコの牢獄の巡視にレオノーレの同行も許されたと告げます。

そこへヤキーノとマルツェリーネが駆け込んできて、ロッコに、「ピツァロが、囚人たちの自由を見て怒り狂っている」と言います。

ロッコは、「王の命名日を祝っているのです。」と作り話をして、ピツァロに怒りを収めます。

ピツァロは「墓穴掘りを急ぐよう」に言い、囚人を再び牢屋に入れるように言います。

第2幕
フロレスタンは一人で、牢獄の奥深くの独房にいる。彼ははじめ、神への信頼を歌い、その次にフィデリオが自分を救いにやってくる幻想を見ます。
やがて彼は倒れて眠り込んでしまいます。
ロッコとフィデリオは彼の墓穴を掘りにやってきて、フロレスタンが眠っているのを見つけます。

フロレスタンが目覚め、フィデリオは彼に気づく。フロレスタンは、自分がピツァロに囚われていることを思い出し、自分の妻であるレオノーレ・フロレスタンにメッセージを送ってくれと頼みますが、ロッコはそれは不可能だと返事します。
フロレスタンはフィデリオ(レオノーレ)に気っきませんが、彼女は「天国で報われるだろう」と伝えます。

ピツァロは準備が整ったかを尋ねます。ロッコはそうだと言い、フィデリオに立ち去るように命じます。

ピツァロが短剣を振り回すと、フィデリオが物陰から飛び出してピツァロとフロレスタンの間に立ち、「フロレスタンを殺すならその前に、妻の自分を殺さなくてはならない」と言います。

ドン・ピツァロ(左)に立ち向かうレオノーレ(中央)、そしてフロレスタン。

ピツァロは「二人を一度に殺すチャンスだ」と喜びます。

ちょうどその時、大臣の来訪を知らせるトランペットが聞こえます。

大臣ドン・フェルナンドは暴政は終わったと宣言します。

ロッコが、フロレスタンとレオノーレ(フィデリオ)とともに登場し、彼らを助けて欲しいとドン・フェルナンドに頼みます。

ロッコは、レオノーレが自分の夫を助けるために、変装してフィデリオとして働いてきたことを説明します。
マルツェリーネはショックを受けます。
ロッコはピツァロの殺人計画を話し、ピツァロは牢獄へ入れられます。

レオノーレの手によってフロレスタンが鎖から解き放され、群衆はレオノーレの夫に対する忠節を讃えて歌います。

レオノーレ「神様!なんていう瞬間でしょう。」
民衆のコーラス「良い妻を娶った者は」




きらきら✨

2024-08-28 21:00:00 | 古典
火曜日は朝早く2時間ほど赤ちゃんの、サポート。

おむつを替えて、ミルクをあげて、抱っこして背中をトントン。ゲップ。
歌を歌ったり、お外を見せたり遊んでいるうちにお眠に…。
おしゃぶりをあげると指を捕まれました。しばらく掴んでいるとそのまま寝てしまいました。
至福〜!

家帰って練習。
ガンガンやっていると時間忘れます。

夕方2時間ほど5歳児のサポート。
幼稚園でキラキラのスノーボール(スノーボトル?)作って来ました。
「きれいね〜!」と言うと写真撮らせてくれました。

今日はすごろくを作りました。私もフルーツすごろくを作りました。
2人で夢中になっているうちに時間オーバーしそうになって慌ててお返ししました。5分オーバー。

明日も5歳児は預かります。
「続きは明日。」
「また明日!」

ウォルフガング アマデウス モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

のフランスの歌曲『ああ、お母さん、あなたに教えてあげましょう』による12の変奏曲は1781年から82年頃モーツァルト26歳の時にウィーンで作曲されたものと推測されています。

楽譜は1785年に出版され、弟子のヨーゼファ・バルバラ・アウエルンハンマー(1758-1820年)に献呈されています。

モーツァルトのピアノのための変奏曲は『デュポールのメヌエットによる9つの変奏曲 ニ長調』(K. 573)を除いて全て生前に出版されていて、変奏曲は非常に人気のあるジャンルでした。

主題に用いられた歌曲は後に童謡『きらきら星』として知られるようになったため、日本では『きらきら星変奏曲』の愛称で呼ばれるようになりました。

が、『きらきら星』の歌詞が書かれたのはモーツァルトの死後のことです。

このテーマの起源は1740年に書かれた無名の田園歌で、比較的最近になって子ども向けの歌詞が付け加えられたそうです。

このメロディーは1761年に初めて出版されました。

歌詞と音楽が印刷された最古の出版物は、1774年にブリュッセル(当時はオーストリア領ネーデルラント)で出版されたシャルル・ド・リュスの『 Recueil de Romances 』第2巻で、「 La Confidence naïve素朴な自信 」という題名でした。
以降いろいろな。歌詞が存在します。

一般的な歌詞
ああ!ママ、何が私を苦しめているのか教えてあげましょうか?

パパは私が 大人のように
理性的に考えることを望んでいます が、私はキャンディーの方が 理性よりも価値があると言います!


単弦マンドリンなるもの

2024-08-18 21:00:00 | 古典
土曜日は、今津公民館で西宮ギター練習会でした。


阪神電車で行ったら向かいのホームに、甲子園ラッピング電車。

ギター川原久美子さんとジョプリンのジ エンターティナー、サン=サーンスの見えない笛、ピアソラの「アヴェ マリア」を演奏しました。

今日は高井さん


と河塚さん

が19世紀ギターを弾いてくれました。
今のギターより小ぶりで、チューニングも439Hz。張りすぎると反るそうです。
大きな音は出ませんがとても優しいまろやかな音です。 

マンドリンの稲田さんも古楽器マンドリンを持ってきてくれました。

マンドリンと言えば復弦ですが、これは単弦をピックで弾きます。


リュートも使う弦なので、現代マンドリンよりもかなりまろやかな音です。

ブレーシャ/クレモナ型4単弦マンドリン

と言われるもので、ミラノのスフォルチェスコ城楽器博物館

に展示されている、フランシス·ルポー1760年の復刻楽器だそうです。

製作者はティツィアーノ.リッツィ、古楽器研究者で復元製作者です。2012年には京都に来られたこともあるそうです。

ホームページも教えてくれました。
https://tizianorizzi.wordpress.com/pubblicazioni/

「マンドリン」は、1600年代からあり、4弦、6副弦、5コース等等が地方などで呼び名が変わり、ずっと平行してあったそうです。

マンドリンの奏法としてトレモロというのは昔からありましたが、この頃の楽器は単弦であるため、トレモロをしようとすると「単音の連続」になってしまうので、現代のマンドリンのようなトレモロとは少し違っていました。

稲田さん、木そのものが歌っている様な音色は奏者の心をとらえ、演奏の際は右手も左手もノンストレスで、もうモダンマンドリンに戻れないかも…ですって!

ボルトラッティはこの楽器のために曲を書きました。
他にもモーツァルトやフンメルもこの楽器のために書いているそうです。

バルトロメオ ボルトラッティ(1772-1846年)北イタリアロンバルディア州プレシア県トスコラーノ=マデルノ生まれ、




マンドリンとギターの演奏家で作曲家。

マンドリンは、1730年代または1740年代に発明されて以来、人気が上がったり下がったりしてきました。

この楽器は19世紀初頭に衰退し、その衰退については、 1880年頃にマンドリンが再び人気を集め始めたときにこの楽器のために曲を書いていたサルバドール・レオナルディによって言及されています。

ボーンによると、ボルトラッツィの演奏は、人々がこの楽器を手に取り、この楽器のために曲を書くきっかけとなったそうです。

「この芸術家は、その並外れた才能によって、当時はこれほど小さな楽器ではほとんど不可能と思われていた、最も素晴らしく前代未聞の音色のニュアンスと表現の魅力を生み出した。 

それまでに生み出されていた単調で鼻にかかった音色の代わりに、彼は弦とピックを巧みに操り、楽器の可能性を広げた。 

マンドリンがポピュラーな楽器として復活したのは、ボルトラッツィのおかげである。その人気は約30年間続き、当時の偉大な音楽家のほとんどがマンドリンのために作曲した。」

マンドリンメソッドAnweisung de Mandoline by Bartholomeo Bortolazzi、1805 年頃にライプツィヒでブライトコプフ & へルテルから出版。

ピアノとマンドリンのためのソナタop .9アンダンテとロンド


朝から停電の余波

2024-08-16 21:00:00 | 古典
木曜日は京都の富久田晴彦先生のレッスンてした。
ところか
朝から「停電で京阪京橋から淀屋橋不通。」のニュース。
「京橋から向こうだから大丈夫。」
と、樟葉まで送ってもらってホームにのぼったら…。
「特急は運休、準急のみ運行します。」
「えっ!」
それもいつ来るかわかりません。
5分待ってこれはいけないと富久田先生に電話。
「電車がいつ来るかわからないので、先生この後、ご用事があったらキャンセルさせていただいたほうがいいかと思って、いかがでしょうか?」
すると「今日は何も無いから待っていますよ。」
「すみません〜!」というわけで、樟葉で電車が来るのを待っていると

大阪方面から樟葉止まりの電車が来てホームがいっぱいに…。


ようやく来た電車、名前は準急ですが樟葉からは各駅。人もいっぱい。
やっと京都市バスに乗り

出町柳大橋。

11:30 約束の時間より30分遅れで着きました。

京阪電車のせいではなく、関西電力の守口、大阪方面の停電のせいでした。24万戸が停電したとか…。

モーツァルトの頃は、電気と言えば雷位でした。電車もなく、停電もありません。

ウォルフガング アマデウス モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

は、1787年12月7日、念願の宮廷作曲家になることができました。

グルック(1714-87)の死で空席となった宮廷作曲家のポストが回ってきたのでした。  

宮廷内に反対する者たちの工作があった中でヨーゼフ2世


一人の推薦を受け、待望の職にありつけたのでした。が、前任者の給料は2,000フロリンだったのに対して、半分以下の800フロリンに過ぎませんでした。

さらに、後任者となるボヘミア生まれのコゼルフ(Leopold Anton Kozeluch 1752-1818)のときには、再び2,000フロリンとなりました。

モーツァルトの場合、宮廷作曲家とはいっても、その仕事は毎年冬期間の舞踏会でのダンス音楽を作ることでした。

「音楽の分野での稀なる天才が外国で勤め口や給料を求める必要が起らないような」称号に過ぎなかったのです。(ヴェンツェル)

ちょうどその頃、プラハからオペラ作曲の依頼を受けたハイドンがその申し出を断り、依頼すべき相手として

「ドン・ジョヴァンニ」を書き上げたモーツァルトこそがふさわしいと推薦しました。

「プラハはこの貴重な人物をしっかりつかまえておくべきです。 それだけの報酬を払うべきです。 それがないとこの偉大な天才の運命はあわれなものになります。 後世に対しても努力を奨励することになりません。 あのかけがえのないモーツァルトがまだどこの帝室、王室にも雇われずにいるとは私には腹立たしいことです。」
[ドイッチュ&アイブル] p.211

しかし、モーツァルトが手にいれた定職はこのようなものでした。

また、ウィーンの聴衆がモーツァルトから離れ、彼の個人演奏会は開かれなくなり、やがてモーツァルトはフリーメーソンの同志プフベルクに借金を重ねるようになっていきます。

モーツァルトはこのコントルダンス K.534 を一連の舞曲の第一作として、書きました。

その後、その職のために5つのメヌエット、10のコントルダンス、9つのドイツ舞曲を作ることになります。

自作目録に日付とともに標題「雷雨 Das Donnerwetter」と書かれました。
その自筆譜は行方不明となっています。 また、ピアノ編曲版も2種類残されていますが、その自筆譜もありませんでした。
が、近年総譜が発見されました。

この曲の初版はモーツァルトの死後1798年にアルタリアから出版されました。それはピアノ譜でした

コントルダンスKV.534 「雷雨 Das Donnerwetter」




11歳で作曲「聖墓の音楽」

2024-08-13 21:03:00 | 古典
12日は母と約束通りお墓参りに行きました。

父のお墓に行って

平和堂のフードコートでお昼食べて

犬のメイちゃんのお墓
それから

祖母のお墓
お墓を洗って手を合わせるとすっきりしました。

今年も無事お参りできました。
ありがとうございます。

ウォルフガング アマデウス モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、オーストリア大公国ウィーン没

モーツァルト11歳石版画

「聖墓の音楽 K.42 (35a)」は
ザルツブルク大司教の依頼により、1767年4月17日の聖金曜日に上演する目的で作曲された受難カンタータ(パッション・カンタータ)です。 すべての曲にレチタティーヴォが付いています。

当時、ザルツブルクで復活祭に、教会の礼拝堂などにキリストの埋葬を型どった「聖墓」が作られ、そこで聖金曜日にキリストの受難と復活の宗教劇が演じられていました。
この曲はそのために作られました。

1772年頃再演する機会があり、モーツァルトは新たに終りの4部合唱を追加して改訂しました。

この曲には次の有名な逸話があります。

ザルツブルク大司教ジギスムント(1747 - 1823年)
ジギスムント・クリストフ・フォン・シュラッテンバッハ伯爵(大司教在位1753年 - 1771年)
の依頼によりモーツァルトはオラトリオ「第一戒律の責務 K.35」(第1部)を作曲していました。

が、大司教は11歳の子供がこのような作品を本当に独力で作曲できるものか怪しく思い、僧院の一室に閉じこめました。

ザルツブルク大聖堂

ロンドンの法律家兼自然科学者だったバリントン卿(Daines Barrington, 1727-1800)は

「大司教はこれほど見事な曲がほんとうに幼児のものだとは信用せず、彼を一週間のあいだ閉じ込め、この間だれにも会わせずに、五線紙とオラトリオの歌詞だけ与えてひとりにしておいた。

するとこの短い期間に、彼は非常にすばらしいオラトリオを作曲し、これは上演されてまことに烈しい拍手喝采を得たものだった。」[全作品事典] と報告しています。

「聖墓の音楽 K.42 (35a)」
天使と霊魂の対話になっています。

Ⅰ.アリア「岩よ、お前たちの口を開けよ」 Felsen, spaltet euren Rachen Allegro ニ長調

Ⅱ.アリア「この胸を眺めて、私に問いかけて」 Betracht dies Herz  
Andante ト短調

Ⅲ.二重唱「イエスよ、私は何をしたのでしょうか」 Jesu, was hab'ich getan? 
Andante 変ホ長調

Ⅳ.合唱「イエスよ、真の神の子よ」 Jesu, wahrer Gottessoh  ハ長調 

「聖墓の音楽 K.42 (35a)」より
Ⅱ.アリア「この胸を眺めて、私に問いかけて」ソプラノ 天使の応答です。




ピッコロとバスとバス

2024-08-06 20:57:00 | 古典
月曜日、約束のピッコロ頭部管の摺合せできてきました。
ドルチェ楽器で試し吹き
やっぱり格段に鳴らしやすい。
コルクが太って少し不格好、それにキャップが入らなくなりました。

摺合せとピッコロケースの改造に、6600円と言っていましたが、サービスしてくれました。
助かります。
その後、渡邉橋サロン ド プリンシパルでフルートアンサンブルエスカルの練習。

JR大阪駅から初めてバスに乗りました。

土佐堀1丁目で降りたらプリンシパルはすぐでした。

御堂筋で淀屋橋にでたら京阪中之島線に乗り換えて3駅。
圧倒的楽で安いです。
外国の人が多かったです。
小さな座席に身を小さくして乗っておられて可愛そうでした。
私もバスフルートとコンサートフルートとピッコロフルートの3本持ちでコロコロ付きスーツケースと背中にバスフルートをおんぶ。
バスの中ではかさばって肩身が狭かったです。
でも、土佐堀1丁目で降りたらすぐプリンシパルなので楽でした。

着いたらピッコロ担当Mさんに、楽器を見せて吹いてもらいました。
「あ!いいですね。」
「でしょう?!」
「上まで楽に出る。」
Mさんのピッコロはフィリップハンミッヒの上位機種。ハカランダ(ブラジリアンローズウッド)で作られていてワシントン条約で保護されたので同じものは新品では二度と手に入りません。
5ミリ短いけれど
これがやっぱりいい音色です。

ですが、パウエルの頭部管つけて吹いてもらいました。
やっぱり会わずブカブカ。
「え〜?大丈夫かな?」Mさん、半信半疑。
だけど吹いてみたら
「いいですね。上まで簡単に音が出ますね。」
してやったり!と私。
本当にいい買い物しました。

エスカルの練習はくるみ割り人形の組曲。
難しくて終始こればかりだったので
今日は私はこの曲はバスフルート。序曲だけバス使わないのでコンサートフルートで吹きました。

コントラスバスと言う楽器は伴奏楽器と考えられていました。

ウォルフガング アマデウス モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

アリア「このうるわしき御手と瞳のために」 KV 612
自作目録には、シカネーダー(当時40歳)の一座のバス歌手ゲルル(当時27歳)とコントラバス奏者のピシュルベルガー(Friedrich Pischlberger)のために作曲したことが書かれています。

シカネーダー

劇場支配人シカネーダー(モーツァルトの「魔笛」のパパゲーノ役)
は1789年からヴィーデン郊外のフライハウス劇場(アウフ・デア・ヴィーデン劇場 Freihaustheater auf der Wieden ともいう)

の興行主となり、新しい時代のさきがけとして、ドイツ語による台本をもとに大衆的な音楽劇を盛んに上演していました。

当時、トルコ帝国との戦いはオーストリアを苦しめていました。 多くの貴族はウィーンの館を後にして田舎の領地に移りました。
お金は不足していたし、モーツァルトの予約演奏会は、貴族と上流市民階級の資金不足で不調に陥っていました。

上流市民階級とシカネーダーの劇場が、宮廷オペラと貴族のサロンに取って代わろうとしていました。

モーツァルトもそこに目をつけました。
シカネーダーのフライハウスは、規模も水準も観客も、モーツァルトが満足できるもので、彼は足繁くそこに通いました
フライハウス劇場そのものは1787年から1801年(最後の公演は6月12日)までのわずか14年間しか存在しませんでした。

モーツァルトとシカネーダーとの共同作業は 1789年6月にレーゲンスブルクからウィーンに乗り込んできたシカネーダーは類まれな興行師魂を最大限に発揮し、輝かしいひと時代を築くことになります。
「次第に体の衰弱していくモーツァルトとはもう2年しか共に舞台をつくる時間は残っていなかった」のです。

魔笛を創作する直前に作られた「女ほど素晴らしいものはない」を主題にした「8つのピアノ変奏曲」(K.613)はその一つであり、バス歌手ゲルルのための

アリア「このうるわしき御手と瞳のために」 KV 612

もその時期に作られました。

歌詞
この美しい手によって、
この曖昧な光線によって、
私は誓います、最愛の人、私は
あなた以外の誰も愛さないと誓います。
空気、植物、石
は、私のため息がよく知っており、私の変わらぬ信念が
何であるかを教えてくれるでしょう。 幸せそうな視線を向けたり、
誇らしげな視線を向けたり、
あなたが私を憎んでいる、
または私を愛していると教えてください、

いつも甘い光に照らされています、
あなたが私を呼ぶなら、いつもあなたのものです、
地も空も私の中に住んでいるその欲望を変えることはできません。



毒がいっぱい。

2024-07-18 21:00:00 | 古典
先週行った里山にドクセリ毒芹。 


セリ科ドクゼリ属の多年草。有毒植物。別名、オオゼリ(大芹)。ドクウツギ、トリカブトと並んで日本三大有毒植物の一つとされているそうです。

Franz Eugen Köhler, Köhler's Medizinal-Pflanzen •1897年
全草有毒で、誤食すると嘔吐、精神錯乱、呼吸困難となって死に至る場合もあるそうです。

春先の若葉の形状が食用のセリとよく似ている上に、同じようなところに生えるので、若葉をセリと間違って摘み、中毒者が後を絶たないそうです。

ただし、葉や茎にセリ特有の香りがない点や、セリと違って地下茎が存在する点に注意すれば区別は比較的容易です。

オペラでは、よく毒が使われています。
有名なところでは、
シャルル グノー(1818-1893年)


「ロメオとジュリエット」(1867) や、
セルゲイ プロコフィエフ(1891-1953年)

の「ロミオとジュリエット」
ロメオとジュリエットのバルコニーの場面フランク ディクシー1884年

ジュリエットは両親が勧める結婚をしたくなく、「仮死状態になる薬」を飲みます。
死体安置所で行違いで彼女が仮死状態とは知らないロメオがやってきて、彼女か死んだと思って毒薬を飲んで死んでしまいます。
入れ違いで目覚めたジュリエットは残った毒を飲んで死のうとしますが、毒は飲み干されていて、ロメオの短剣を 自らの胸に刺し、息絶えます。

アミルカレ・ポンキエッリ(1884-1836年)

の「ジョコンダ」(1876)  

ジョコンダの盲目の母を助けたラウラ(裁判官長官の妻)に、エンツォとの不貞疑惑が持ち上がります。
嫉妬に狂った長官が妻 ラウラを毒殺しようとします。

その時にジョコンダが「仮死状態になる薬」にすり替え、ジョコンダは、 愛するエンツォとラウラを小舟に乗せて、長官から逃がします。

ガエターノ・ドニゼッティ(1797-1847年)


のオペラ「ルクレツィア・ボルジア」(1833)  

バルトロメオ・ヴェネトが1510年ごろに描いたルクレツィアの肖像画。

ルネサンス期に実在した恋多き悪女。ルクレツィアは、現夫大公から毒を飲ませられた自分の息子(母とは知らない)に「解毒剤」を与えて救います。

後日、再度大公は 敵対する6人に復讐のため毒ワインを飲ませます。しかも息子もまた毒を飲んでしまいます。
ルクレツィアは再度「解毒剤」で救おうとするも、 息子は「仲間と一緒に死ぬ」と拒否して死んでいきます。

もうお腹いっぱい!
しかし、まだまだ毒を使ったオペラは多数。

ルイジ ケルビーニ(1760-1742年)トスカーナ大公国フィレンツェ生まれ、フランス王国パリ没


作曲オペラ「メデア」(1797年初演)

初演時のポスター

アルゴー号の冒険の主人公ジャゾーニ


はコルキスの王女メデア


と結婚し二人の子どももいます。

ヴォーカルスコア表紙

ところが帰国するや、子どもを取り上げ、コリントの王女グラウチェ


と結婚式をあげます。 

哀願するメデアに「魔女!」と罵り追い払います。

メデアはなだめても怒ってもジャゾーニの気持ちが変わらないと知ると、王冠と打掛けを子どもに持たせてグラウチェに贈ります。

しばらくすると王冠と打掛けを着たグラウチエが死んだと叫び声が上がります。
王冠と打掛けには毒がしこまれていたのです。


1909年アルフォンス ミュシャ
「メデアに死を!」と叫ぶ大衆を逃れ宮殿に入ったメデアは二人の子どもを刺殺し、呆然とするジャゾーニに 「復習は終わった。」と告げ、宮殿に火を放ち、自ら炎に包まれます。