音楽の喜び フルートとともに

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楽園へ

2025-01-18 07:05:00 | ロマン派
阪神淡路大震災から30年。
5時46分。枚方市にいましたが、じとーっとした空気に目が覚め、「なぜ目が覚めたんだろう?変な空気。」と思っているとゴオッーとすごい音がして、ドーンと音がして地面が30センチ位吹っ飛んた気がしました。
思わず隣で寝ていたまだ赤ちゃんの次男の上にかぶさっって、夫の隣で寝ている長男を助けてもらおうと夫を起こしたら
「大丈夫。今のは震度5。」と言ってまた寝入ってしまいました。
それでもその後長い事揺れていたので、次男にかぶさったまま、恐怖に震えていました。
しかし、夫が、よく寝ているのでおさまったら寝てしまいました。
朝になってテレビを見ながら夫が「大変なことが起きたみたいだ。」
阪神高速が倒れた映像が映っていました。
それでも落ち着いて仕事に出かけてしまった夫を見て、私もパイアスが働いていたのか、いつものように子どもを連れて近くの公園に行きました。
さすがに誰もいず、…そうかぁ…。と思ってすぐに家に帰りました。

うちは食器棚の中のカップが1個割れただけでした。

でもご近所の幼稚園児3人の母は、長くDVを夫から受けていて、離婚して神戸の実家に帰ろうとしていた矢先の震災。
実家が全壊。
絶望して自ら死を選ばれました。

わたしとはあまり関わりがなかったのに、亡くなる2ヶ月ほど前に雪柳の花を手に抱えられないほどの大きな束にして玄関に立っておられました。

何を話したか覚えていない。お天気の話しとか、とりとめのない話しをして「あまりよく知らない方なのに、なぜ、こんなに親切にしてくれるんだろう?」と疑問を持ったまま雪柳を頂いて別れました。

まだ若かった私は人への理解が足りなくて何もしなかった。
もっとちゃんと向き合って入れば、震災がなかったら、彼女は今も生きていたかもしれない。

いや、そんなに私は万能では無い、救えたかもなんて考えるのは傲慢なこと。

それでも毎年この時期になると彼女のことを思い出さずにはいられないのです。

そして、私がそれから10年の間、

CAP子どもへの暴力防止プログラム
https://cap-j.net/program
に取り組んだのは彼女のような境遇の親や子どもをなんとかしたかったからだったんだ。と思い至りました。
やっぱり傲慢〜!

ガブリエル フォーレ(1845-1924年)フランス王国パミエ生まれ、フランス共和国パリ没

ジョン・シンガー・サージェントによるフォーレ、1889年
の「レクイエム」ニ短調op48
作曲の動機は、父親が1885年7月、母親が1887年12月にそれぞれ死去したことと言われていますが、フォーレが残しているスケッチによると、遅くとも1887年秋には作曲に着手していて、母親の死は直接関係していないと考えられます。

さらにフォーレは、
「私のレクイエムは、特定の人物や事柄を意識して書いたものではありません。……あえていえば、楽しみのためでしょうか」
と書き残しています。

また、マドレーヌ寺院での初演では、寺院の司祭から斬新過ぎると叱責されました。

初演マドレーヌ寺院の祭壇
このほか、当時から
「死の恐ろしさが表現されていない」「異教徒的」などとの批判が出されました。

フォーレのレクイエムは当時のカトリックの死者ミサでは必須であった「怒りの日」を欠き、そのままではミサに用いることの出来ない形式をとっています。

これに対してフォーレは1902年に次のような手紙を書いています。

「私のレクイエム……は、死に対する恐怖感を表現していないと言われており、なかにはこの曲を死の子守歌と呼んだ人もいます。しかし、私には、死はそのように感じられるのであり、それは苦しみというより、むしろ永遠の至福の喜びに満ちた開放感に他なりません」

また、晩年の1921年にルネ・フォーショワ(歌劇『ペネロペ』の脚本を手がけた脚本家)への手紙に次のように書いていまする。

「私が宗教的幻想として抱いたものは、すべてレクイエムの中に込めました。それに、このレクイエムですら、徹頭徹尾、人間的な感情によって支配されているのです。つまり、それは永遠的安らぎに対する信頼感です」

レクイエムの初稿

第1曲 イントロイトゥスとキリエ(Introitus et Kyrie)
前奏曲と神の憐れみ給え

第2曲 オッフェルトリウム(Offertorium)
パンと葡萄酒を聖壇に捧げる

第3曲 サンクトゥス(Sanctus)
聖なるかな

第4曲 ピエ・イェズ(Pie Jesu)
慈悲深いイエス

第5曲 アニュス・デイ(Agnus Dei)
神の子羊

第6曲 リベラ・メ(Libera me)
我を救い給え

第7曲 イン・パラディスム(In paradisum)楽園へ

イン・パラディウム
天使たちがあなたを楽園へと導きますように。

あなたの到着にあたって 殉教者たちがあなたを迎えますように。

そしてあなたを聖なる都エルサレムへと 導きますように。

天使たちの聖歌隊があなたを迎えますように。

かつて貧しかったラザロと共に あなたが永遠のやすらぎを得られますように。






とかげÖdlan

2025-01-16 20:57:00 | ロマン派
15日はGさん、Mさんと知恩寺手作り市に行く予定でした。
目はだいぶマシになってきましたが、16日に診察を受けるまでは安静を続けてください。と言われてしまったので今回は泣く泣く欠席。

家にこもって今日もハープを練習。
やっぱりうまくならない💦

するとお昼過ぎにMさんから電話が…。
二人でお土産を買ってきてくれたらしい。
しばらくするとMさんが、クリームパンとあみぐるみのお店で買ってきてくれたとかげさんのあみぐるみ。
「かわいい💖」
「今日は寒いのと、少し雨降ったでしょう。それとインフルのせいでお休みのお店が多かったわ。」
「いつもの3分1位。」
「何を買ったの?」
「昭和ガラスの小さな引き出し。」これがなかなかレトロでいい感じ、Mさん前回は小さな棚を買っていました。
これで揃える気みたいです。
LINEを見たらGさんは

ハシビロコウのフェルトバッチを買ったみたい。これもかわいいです💞

迷惑かけたのに気にかけてくれてうれしいです。
感謝💖

今回はお店が少なく早目に帰ったのでいつも行列のできているオムライスのお店に入れたらしい。
いいなぁ〜!
次は私も…。

『とかげ』(スウェーデン語: Ödlan) 作品8は、ジャン・シベリウス
(1865-1957年)フィンランド大公国ハメ州ハメーリンナ生まれ、フィンランドウーシマー州ヤルヴェンパー没

1913年シベリウス
が作曲した劇付随音楽です。

フィンランドの作家ミカエル リーベックMikael Lybeck(1864年-1925年) 

の象徴主義劇「とかげ」のために書かれています。

シベリウスは第2幕第1場と第2幕第3場の2つの場面に音楽を提供しました。

完成は1909年で初演は1910年4月6日にヘルシンキのスウェーデン劇場

で作曲者自身の指揮によって行われましたた。

演奏回数こそ少ないものの、シベリウス自身は本作について友人でありパトロンでもあったアクセル・カルペランに「私が書いた中でも指折りの精巧な作品です」と述べています。

この作品が書かれたのは1908年から1912年の「危機」(シベリウスが喉のがんにかかり手術をおこない療養し、寛解しました。)の時期でした。

編成は独奏ヴァイオリンと弦楽アンサンブル。

とかげ(オードラン)1909年戯曲の台本
「とかげ」

劇中、アイリンゲ家の紋章に描かれ、16個の白い星に囲まれた緑色のトカゲ。悪の象徴となっています。

劇中の主人公アルバン(Alban)伯爵は、全ての清いものを象徴する若い看護婦のエリシフ(Elisiv)と婚約します。

初演時エリシフを演じたカリン モランデル

しかし悪魔の化身であるアルバンの従妹アルダ(Alda)
初演時アルダを演じたヴァルボルグ・ハンソン
が、アルバンに恐れと情熱の両方を目覚めさせます。

エリシフとアルダが互いにアルバンの魂を自らの側へ留めようと争います。

エリシフは躓き、倒れ、戦いに命を落としますが、その仇としてアルバンは自身の中に住まう悪魔、アルダの息の根を止めます。






超有名な理髪師

2025-01-15 21:01:00 | ロマン派
自力洗髪洗顔禁止なので、介護用品のコーナーで買った洗顔ペーパータオルで顔を拭いて、ついでに髪のホコリを拭いてしのいでいましたが、7日目ともなるといよいよ気持ち悪くなってきました。

ご近所の美容院に行くと、干支飾りの巳年のパズルや
お花で大にぎわい。

「かわいいもの好きなスタッフがいるんです。」
きれいにシャンプーしてもらって、せっかくなのでカットもしてもらってすっきり。

「シャンプーだけでも来てくださいね。」
シャンプー上手かったです。
ほぼ自分でカット、毛染めも自分ですが、たまにはこういう時間もいいものですね。

理容は先史時代からあり、考古遺物としては青銅器時代にあたる紀元前3500年頃の剃刀が発見されているそうです。
また、『旧約聖書』「エゼキエル書」にも理容のことが書かれています。

エゼキエル書

釈迦十大弟子の一人であるウパーリは、出家前は釈迦族の理髪師であったことが知られています。

マケドニア人(アレクサンドロス3世(大王)時)に征服される前の古代ギリシアでは、主人の調髪や、頭髪、髭、指の爪などのスタイルを整えていました。

整髪は、古代ギリシアの植民地で当時の技術的最先端地域であったシチリア島から紀元前296年に共和政ローマに渡り、間もなく人気を博しました。

古代ギリシア
古代ローマの自由市民は髭を剃らなければいけませんでしたが、一方、男性奴隷は髭を伸ばすことと決められていました。

朝、公衆浴場と共に理髪師を訪れて身を正すことは習慣となり、また、青年が生まれて初めて髭を剃ること (tonsura) は青年と見なされるための通過儀礼の一部となっていました。

ローマ人理髪師の中には裕福になって栄えた者もいました。
彼らは店先の通りにスツール(椅子)を並べ、クォドランス(当時の硬貨、通貨単位でクォーター)の料金で髭を剃っていました。

鋳造硬貨。表はヘールクレースの頭部と3つのペレット、裏面はガレー船の船首と3つのペレットが描かれている。

剃刀による剃髪が嫌いな客には脱毛も行いました。

紀元前54年、共和政ローマのガイウス・ユリウス・カエサル(紀元前100-紀元前44年)

が軍を率いてグレートブリテン島に上陸したときには、先住民であるブリトン人は唇の上部以外の顔の髭を剃っていました。 

イングランドでは歴史的に、シェービング(剃髪、髭・髪に関わらず)は法律で義務づけられていました。

中世以降
イングランドにおいて、ノルマンディー公ギヨーム2世(イングランド王ウィリアム1世)によるノルマン・コンクエスト(ノルマン征服)1066-1071年
イングランド兵と戦うノルマン騎兵
の時代には、敵方であり最後のアングロ・サクソン系イングランド王となったハロルド2世(1022-1066年)

とその家来は顎髭(あごひげ)を剃っていました。

中世の欧米諸国では理容師は外科的処置を行う外科医、歯科医師でもありました。

その頃、医学は内科学主流とされていたため、怪我の処置や四肢の切断等に至るまで、理容師がこれを行っていました。

「瀉血(血抜き)」、吸角法、ヒル療法、浣腸、抜歯を行いました。

そのため、彼らは "barber surgeon(理髪外科医)" と呼ばれ、1094年に最初の組合を作りました。

イングランドにおける理容師は、イングランド王エドワード4世(1442-1483年)

によって1462年、ギルド(職業組合)として法定化され、外科医はその30年後にギルドができまし。

1540年にヘンリー8世(1491-1547年)

により、"The United Barber Surgeons Company"(理髪・外科医組合)とされました。

エリザベス1世(1533-1603年)

は「生活が活発でないことの証明だから」という理由によって2週間以上髭を伸ばした者に税金を課していました。

17 - 18世紀のロシア皇帝ピョートル1世(ピョートル大帝)(1672-1725年)

は、1699年、西洋化改革の始まりを示すべく、ロシア正教上の習慣に逆らって口髭・顎鬚を剃り落とすよう全国民に強要し、違反者には身分上の貴卑の別なく課税しました。
ロシアの民衆版画であるルボークにもこの様子は描かれています。

ルボーク民衆版画 『床屋の髭切り』
17世紀末のロシア帝国にて、勅令に従って“髭刈り”を執行する床屋(理容師。右)と、抵抗の意志を見せながらも応じざるを得ない古儀式派の大貴族(左)を描いた戯画。18世紀初頭の作

ジョージ1世時の1745年、外科医は理容と分けることが法定されました。

18世紀、オスマン帝国の理容師のエプロン

音楽史上最も有名な理髪師と言えばジョキアキーノ ロッシーニ(1792-1868年)教皇領ペーザロ生まれ、教皇領ボローニャ没
の歌劇「セビリアの理髪師」のフィガロ。

1816年、フランスの劇作家ボーマルシェ(1732-1799年)の戯曲(Le barbier de Séville ou la précaution inutile 「セビリアの理髪師あるいは無用の用心」)を題材に作曲した2幕のメロドランマ・ブッフォ(Almaviva o sia L'inutile precauzione、一般には Il Barbiere di Siviglia )の中の主人公フィガロです。


セヴィリャの理髪師
あらすじ
18世紀、スペインのセヴィリャ
【第1幕】
時は18世紀、舞台はセヴィリャの医師バルトロ邸。
若くして親から莫大な遺産を継いだロジーナ

ジュヌヴィエーヴ・マテュー・ルッツ(ロジーナ役)、1907 年
は、後見人である医師バルトロ

の家に身を寄せていましたが、一方のバルトロは、ロジーナと結婚できれば美女と財産を一気に手に入れることができると目論んで、他の男が言い寄らないように監視しています。

スペインの貴族アルマヴィーヴァ伯爵
はロジーナを見そめて、窓の下からセレナードを歌いますが、バルトロ邸の監視が厳しく二人は会うことができません。

そこに「セヴィリャの理髪師」のフィガロ

が通りかかったので、伯爵は、報酬をはずむから協力するよう依頼します。

そのとき、ロジーナは窓からこっそり「身分と名前を教えて」というメモを落としました。伯爵は彼女の誠実な気持ちを試すため、貧しい学生リンドーロと名乗ることにします。

理髪師としてバルトロ邸に入り込んだフィガロは、ロジーナにリンドーロ宛の手紙を書くように勧めます。
彼女はすでに書き終えていて、それをフィガロに託します。 

ロジーナはフィガロに手紙をアルマヴィーヴァ伯爵に渡す。ヴィルヘルム マーストラン
その後、伯爵が酔っぱらった兵士に変装してバルトロ邸にやって来てロジーナと話をしようとしますが、この作戦はバルトロに怪しまれて失敗します。
 
【第2幕】
伯爵は、今度はバルトロの腹心の音楽教師バジリオの「弟子」に変装しました。

しかし、それでもバルトロに怪しまれたので、仕方なくロジーナが書いたリンドーロ宛の手紙を、伯爵の手から盗んだと言って渡し、味方だと思い込ませます。

伯爵とロジーナは音楽のレッスンをしている間に、二人で今夜駆け落ちすることを約束します。
 
このときフィガロは、バルトロの髭を剃りながら、バルコニーの鍵を手に入れていました。

伯爵とフィガロが去ったあと、バルトロはロジーナに例の手紙を見せ、リンドーロはお前を伯爵に売ろうとしているのだと言います。

怒ったロジーナはバルトロとでも誰とでも結婚すると言い出します。喜んだバルトロは公証人を呼び寄せておきました。

その夜、伯爵とフィガロがバルコニーから忍び込むと、ロジーナは怒っています。伯爵が身分を明かして説明すると一件落着。
ちょうどそこへバルトロが呼んでおいた公証人がやって来たので、その場で二人は結婚してしまいました。
バルトロが現れたときはすでに時遅し。それでも伯爵がロジーナの財産はいらないと言ったので、バルトロはとりあえず満足できたのでした。

セビリアの理髪師 フィガロがやってきて「おれは街のなんでも屋」と歌います。
みんな俺を必要としている。人生は楽しい!




道を踏み外した女

2025-01-09 21:01:00 | ロマン派
今年の大河ドラマが始まりました。
「べらぼう」
蔦屋重三郎と言えば喜多川歌麿、葛飾北斎、東洲斎写楽、曲亭馬琴など江戸、化政文化を代表する賀川作家の作品を出版しました。

第一回は吉原でのお話しでした。

暮れに行った京阪橋本駅駅周辺は。東海道と淀川に面していて八幡吉原があったところです。

置屋の窓にステンドグラスがはまっています。

レトロな建物は吉原の名残りが詰まっています。











しかし、八幡市のホームページを見ても、どこにも吉原の記載はありません。
車を1日500円で駅前に停めてどこでも行けるということで、ここを経由して奈良に行きましたが、開いているお店も無く、特急や快速急行が何便も通過していきました、

夫がぽつんと
「見捨てられ感がすごいな。」とひとこと。

「べらぼう」の第一回も貧しい遊女の哀しい結末が描かれていました。
「きたくてくる女なんか1人もいない!」と嘆いた蔦重にグッと来ました。

明日は。右目の手術をします。
一泊2日なので大したことはないのでご心配無く。ですが、ブログはお休みします。ご訪問もできないと思います。ごめんなさい。

ジュゼッペ ヴェルディ(1813−1901年)フランス帝国レ・ロンコーレ村タロ地区生まれ、イタリア王国ミラノ没

が作曲したオペラ「椿姫」の原題はLa traviataラ・トラヴィアータ
堕落した女、道を踏み外した女という意味で、
主人公のヴィオレッタは高級娼婦をしています。

原作は、アレクサンドロ デュマ フィス(1824−1895年)

アレクサンドロ デュマと縫製工の母の間に生まれたデュマ フィスは父の金で最高の教育を受けて育ちます。
しかし、父への反感や周囲の偏見からか10代は遊び呆けます。
20歳の時に高級娼婦のマリー デュプレシと出会い、恋に落ちます。

しかし間もなくマリーは病死してしまいます。

24歳の時に彼女との思い出を書いたものが「椿姫」です。

1850年に戯曲化され人気を得ます。
52年にヴェルディがパリでこの戯曲を見て感動し、
1853年この戯曲をもとにフランチェスコ・マリア・ピアーヴェ(1810−1870年)

が台本を書き、オペラにしました。

ヴェルディは24歳の時に先妻マルゲリータを亡くしました。
41歳作曲当時で3児の母のジュゼッピーナ ストレッポーニ(1815−1897年)

と同棲していました。
田舎に暮らしていましたが、カトリックの信仰が強い地域での暮らしは2人の関係に寛容ではなく、つらいものでした。
そんな境遇から「椿姫」の物語に共感したと言われています。

初演当時は娼婦を主役にした作品ということで、イタリアの統治国側の検閲により道徳的な観点から問題視されました。
しかし、ヒロインが最後に死ぬということで上演がゆるされたと言われています。

多くのパトロンがいる高級娼婦ヴィオレッタが、


Fanny Salvini-Donatelli ヴィオレッタ・ヴァレリーを演じた最初の歌手
青年貴族アルフレートと出会い、パトロンと別れパリを離れて田舎暮らしをしますが、そこにアルフレートの父親が現れ、ヴィオレッタは身を引く決心をします。
そうとは知らないアルフレートは、捨てられたと思い、嫉妬から公衆の面前でヴィオレッタに暴言を吐き、彼女を傷つけます。

数カ月後、ヴィオレッタは結核で伏しています。
アルフレートの父親がやってきて見舞います。
すべてを知ったアルフレートがやってきて赦しを請いますが。ヴィオレッタは亡くなります。
その最後のシーン。



あけましておめでとうございます。

2025-01-01 21:00:00 | ロマン派
大晦日。
年末久米家恒例、絶賛!「近鉄に乗りに行こう!」キャンペーン。
夫の買っている近鉄株の優待券の期限が12/31まで、

夫、次男、私で家族会議。
「どこに行く?」
「鶴橋で焼肉食べる。」「近過ぎる。」

「橿原神宮お礼参り。」
「寒いし、お店が無い。食べるところも無い。」

「名古屋!」
「日帰りはしんどい。」

というわけで奈良に決まりました。
京阪橋本駅前に車を止めて、

丹波橋。
近鉄に乗り換え、西大寺で奈良線に

お昼は奈良で中華料理。

油で揚げているのに、薄味なのでさっぱり食べられる中華でした。

それから興福寺にお参り。
今年1年お世話になりました。
鹿さんと戯れ、







春日大社にもお参り。

昨年は骨折にコロナ2回、息子まで骨折する始末。
大変でしたが、オーケストラ2つに参加。本番もいくつか。
いろいろ無事に任務を果たすことができ、ありがとうございました。

そしてこれを投稿する頃には新年です。
昨年中は、ブログを読んでいただいて、ありがとうございました。

みなさんのおかげで勇気を得て、ブログを続けることがてきています。

あけまして、おめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

今年のニューイヤーコンサートではヨハン・シュトラウス二世(1825-1899年)オーストリア帝国ウィーン生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没


のオペレッタ「ジプシー男爵」の序曲が演奏される予定です。

1885年10月24日、シュトラウスの60歳の誕生日の前日にウィーンのアン・デア・ウィーン劇場

で初演されました。

ハンガリー人の作家ヨーカイ・モール(1825-1904年)


の短編小説『シャーッフィ』(Sáffi)を基に、ハンガリー人ジャーナリストのイグナーツ・シュニッツァーが書き上げた台本には、ハンガリー情緒がふんだんに盛り込まれています。

わずか6週間で書き上げたといわれる『こうもり』とは異なり、シュトラウスはこの作品を2年の歳月をかけて作曲しました。

初演は大成功を収め、以後ハンガリーを題材にしたオペレッタが数多く作曲され、人気を博していくことになります。
序曲や第3幕で演奏される凱旋の入場行進曲、そして劇中で使われるワルツを用いて作曲された『宝のワルツ』などは、演奏会で単独でも演奏されています。

ジプシー男爵フランス語版のポスター

雑誌「Bombe」に掲載中された説明図ラスロー・フォン・フレツカイ (1844-1916)

第一幕
ハンガリーの寒村、テメーゼ・バナード。

ハンガリーを統治していたトルコの最後の総督は、1717年のベオグラードの戦いでオーストリア軍に追われ逃亡します。

莫大な軍用金をこの地方に埋め、生まれたばかりの娘をジプシーの女占い師ツィプラに託しました。

この女の子はザッフィと名付けられ、ツィプラによって育てられます。

一方、大地主バリンカイは、トルコ人と気脈を通じていたという嫌疑をうけて亡命しました。

その後この土地に勢力をふるうようになった豚使いジュパンは、亡命中に死んだバリンカイには嗣子がないと言いふらして、遺産や土地を自分のものにしようと企んでいます。

ところがバリンカイの遺児シャンドール・バリンカイは今は成人となって、皇帝の特赦により父の遺産を正式に相続することとなり、ハンガリーにやってきました。

一緒に来た皇帝特使カルネロは父親の遺産を正式に彼に譲渡する役です。

ジュパンは娘アルゼナとバリンカイを結婚させようとしますが、アルゼナはそれを避けるため、「男爵の位を持っている人とでなければ結婚しない」と公言します。

人々が引き上げた後に残されたバリンカイに、ザッフィの歌声が聞こえてきます。
ツィプラはジプシーたちに、新しく地主となったバリンカイを自分たちの領主だといって紹介し、バリンカイは自分を「ジプシーの男爵」だと名乗ります。そして、ザッフイはバリンカイ家の花嫁だといいます。


第二幕
舞台はバリンカイの屋敷近くのジプシー部落。

ツィプラは「私は昼も夜もご主人様の財宝を見張っていた」と静かに語ります。バリンカイが「君こそ私の愛する妻」と喜びを歌うと、ザッフィも「なんという幸せ」と応えます。


ツィプラは、夢の中でバリンカイの父親が宝の隠し場所を教えてくれたという。半信半疑のバリンカイが、ためしにその場所の石を叩くと、うつろな音がするところがあり、そこから貨幣や宝石が出て来ます。。

すると、ドラの音とともに朝が来て、パリ(呼び男)の呼び声につられてジプシーたちが仕事を始めます。

「誰が保証人になって結婚したか」と詰問されたザッフィは「うそ鳥が牧師の代りをつとめ、頭上を飛ぶ2羽のこうのとりが証人である」と答えて、人々を呆れさせます。

そこへ1隊の軽騎兵を率いてホモナイ伯爵が登場します。
この司令官はバリンカイの旧友で、スペインの戦争に従軍する兵士を募集するために来ました。
徴兵の酒を飲んだ者は募兵に応募したと認められますが、酒好きのジュパン
とオットカールはうっかりそれを飲み干してしまい、たちまち軍帽をかぶせられてしまいます。

ジュパン家の人々がザッフィを侮辱するので、ツィプラは、ザッフィの出自を明かし、しかもオーストリア皇帝の血統を受けていることを説明します。

バリンカイは、身分の違いから、彼女を妻にすることができなくなったと感じ、父の遺産全てを国家に奉納して従軍してしまいます。

第三幕
舞台はウィーンのケルントナートール劇場前の広場。
スペインに遠征したオーストリアの軍隊が続々と凱旋してきます。
ジュパンは、意気揚々として先頭に立ち、戦利品を携えて自分の見当違いな勇敢な戦い振りを述べ立てます。

軍隊の主戦部隊が到着。 
ホモナイ伯爵、バリンカイを先頭に威風堂々の行進が繰り広げられます。
ホモナイ伯爵はバリンカイの功績をたたえ、彼が国家に寄付した財産を改めて返却し、彼を貴族に列して、ザッフィとの結婚を許します。
ザッフィと、バリンカイは抱き合い、めでたく結ばれます。

バリンカイが「男が一度決意したら、不可能なことはない」と歌うと、群衆の歓喜の大合唱がそれに続きます。


田舎の騎士道

2024-12-26 21:06:00 | ロマン派
火曜日は塚口t-raumでハープのレッスンでした。
少し早くつきすぎて、門の前で待っていたら

にゃ〜!

と足元に絡みついてくるフレンドリーな猫さんが…。

野田先生がやがて着かれて「えりちゃん、フレンドリーでしょう?」
昔飼っていた黒猫のクロベにそっくり。
連れて帰りたい✨

レッスンは基礎練とオールドチューンズの最後の曲「
なんとか終えて、オールドチューンズ卒業しました。
まだまだよちよちですが…。

後は来年1月19日の発表会で演奏する「カヴァレリアルスティカーナ」の間奏曲。
こちらはまだまだ…。
楽な指使いを教えてもらって目からウロコでした。
フルートだと替え指の他は指使いのことは考えなくても良いので、思いもしませんでした。
指使いのこと、もっと研究しようっと!

ピエトロ マスカーニ(1863-1945年)イタリア王国リヴォルノ生まれ、イタリア王国ローマ没

パン屋の両親の元に生まれます。
父はピエトロに法律を学ばせますが、彼は音楽に強い関心を持ち、伯父を味方につけて故郷の音楽院で本格的に音楽を学びます。

20歳で交響曲、オペラ、カンタータなどを作曲し、その才能を認められます。
後援者の後押しでミラノ音楽院
ミラノ音楽院
に入り、アミルカレ・ポンキエッリ(1834-1886歌劇「ラ・ジョコンダ」時の踊りで有名)

に師事しましたが、途中で学校を飛び出し、指揮者として活動を始めます。

その後、チェリニョーラの音楽学校の教師となります。 

1890年に、ローマの楽譜出版社ソンゾーニョの一幕歌劇コンクールに『カヴァレリア・ルスティカーナ』で応募します。
この歌劇は驚異的な成功を収めます。

しかし、これがその後の多くの作品を作ることを霞めてしまいました。
それでも15曲のオペラと1曲のオペレッタ、いくつかの美しい管弦楽曲や声楽曲、歌曲、ピアノ曲を残しました。

1895年にはペーザロのロッシーニ音楽院院長に就任。

ファシスト党政権が誕生すると、スカラ座監督の座を狙ってムッソリーニに接近。
このため、第二次世界大戦でイタリアが降伏した後、全財産を没収され、ローマのホテルで寂しく生涯を閉じました。
遺体はローマに葬られたが、1951年に故郷のリヴォルノ再埋葬され、それと共に名誉回復されました。

歌劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』( Cavalleria Rusticana)


は、イタリアの小説家、ジョヴァンニ・ヴェルガ(1840-1922年)

による小説(1880年出版)戯曲(1884年初演)、にピエトロ・マスカーニが作曲した1幕物のオペラ(1890年初演)です。
題名は「田舎の騎士道」という意味です。

台本

ヴェルガの出身地シチリアの山間部を舞台として、貧しい人々の暮らし、三角関係のもつれから起きる決闘と殺人を描いたこの小説は、イタリアにおけるヴェリズモ(リアリズム文芸運動)の典型的作品とされています。

一方、マスカーニのオペラは1890年に完成し、楽譜出版社ソンゾーニョ社主催の1幕物オペラ・コンクールで圧倒的な支持を受けて優勝。

マスカーニはたちまちオペラ界の寵児となりました。

初版版
歌劇「カヴァレリア ルスティカーナ」

シチリア島のある村。
復活祭の朝。
トゥリッドゥはかつて美しい女ローラの恋人でした。
しかし、ローラは彼の兵役中に馬車屋のアルフィオと結婚してしまいました。

除隊後帰郷したトゥリッドゥは、いったんはローラを忘れるべく、村娘サントゥッツァ(サンタ)と婚約します。

が、結局は留守がちなアルフィオの目を盗んでローラと逢引を重ねる仲に戻ってしまいました。

このことを知ったサンタは怒りのあまり、そのことをアルフィオに告げてしまいます。
アルフィオは激怒し復讐を誓い、サンタは事の重大な展開に後悔します。

ここで間奏曲が演奏されます。

教会のミサが終わり、男たちはトゥリッドゥの母ルチアの酒場で乾杯します。
アルフィオはトゥリッドゥの勧めた杯を断ります。
緊張した空気の中、二人は決闘を申し合わせます。
アルフィオとトゥリッドゥが決闘前の儀式として抱擁する場面
トゥリッドゥは酒に酔ったふりをしながら母に「もし自分が死んだらサンタを頼む」と歌います。

トゥリッドゥが酒場を出て行きしばらくすると「トゥリッドゥが殺された!」

という女の悲鳴が2度響き、村人の驚きの声と共に、幕となります。





チャイコフスキーの「運命」

2024-12-25 21:03:00 | ロマン派
月曜の夜は6:30〜渡辺橋近くのサロン ド プリンシパルでフルートアンサンブル「エスカル」の練習でした。

階段を昇って、ドアを開けると
「あれっ?!なんでいるの?」と思わず声が出てしまいました。

ドルチェ楽器の安川さん。
どうも樹脂のバスフルートを榎田先生に言われて売りに来たらしいです。

しかも、エスカルメンバーがバスフルート在庫最後の2本をお買い上げ。
びっくりしました。

おかげでバスフルートを吹くメンバーがいっぱい。
というわけでバスフルートを私がエスカルメンバーとして吹くという需要がなくなってしまいました。

でも…でもSANKYOのバスフルート欲しいなぁ…。
どうしようかなぁ。
いずれにしても受注生産なので、あれが回ってくれば買っちゃうかもしれないけれど…。

もし来たら運命だな。これは。
来ない確率高そうだけど…。

年内最後の練習なので、忘年会でした。
1年間お世話になりました。良いお年をとご挨拶。
今年もフルートアンサンブル楽しかった!呑み会も!!
写真撮るの忘れました。

『運命』と言えば、ベートーヴェンの交響曲5番ですが、「運命」 作品77は、ピョートル・チャイコフスキー(1840-1893年)ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没

が作曲した管弦楽のための交響詩、または幻想曲です。

1868年28歳の時に作曲されて1869年に初演が行われました。

ところが、後年チャイコフスキーが総譜を破棄してしまい、作曲者の死後3年経ってから遺作の作品番号を付されて出版されました。

チャイコフスキーが作曲に着手したのは1868年の9月末から10月初めにかけてでした。

いったん作曲を中断した彼は演奏旅行中のベルギーのソプラノ、デジレ・アルトーへと意識を集中させました。

デジレ・アルトー(1835-1907年)
彼はアルトーに恋愛感情を抱いていました。2人は結婚について話し合い、計画を先へ進めるべく1869年の夏にパリで再会することにします。

アルトーはオペラ会社との演奏旅行を続けるために彼と別れてワルシャワへと旅立っていきました。

チャイコフスキーは1868年11月2日までに曲の骨組みを固め、同年12月には記譜を終えました。

初演が行われたのは1869年2月27日にモスクワで開催されたロシア音楽協会の第8回演奏会で、指揮はニコライ・ルビンシテイン。

作曲時には既存の筋書きが基になったわけではありませんでしたが、初演に際してコンスタンティン・バチュシコフによる人間の生命の無常さを綴った韻文の言葉が総譜の標語として追加されました。

しかし、これがチャイコフスキー自身の発案であったのか、そもそも彼がこの韻文に精通していたのかどうかも定かではありません。
バチュシコフの韻文が陰鬱な主題である一方、音楽は壮大な、抒情的で、喜ばしいフィナーレと明るめの全体像の音楽となっていて、聴衆は両者の不一致に困惑しつつも音楽には温かい称賛を贈りました。

初日の夜、チャイコフスキーは弟のアナトーリに手紙をしたためています。

「あれは私がこれまでに書いた中でも最高のもののようです。少なくとも、人々はそう言っています(かなりの成功でした)」

続いてチャイコフスキーはミリイ・バラキレフの元へ総譜を届け、作品の献呈を受諾してくれるように頼みました。バラキレフはこれを受け入れ、自身がこの音楽をどう思うかに関わらず別途演奏の機会を設けると伝えました。

こうして本作は3月29日にサンクトペテルブルクにて行われたロシア音楽協会の第9回演奏会でバラキレフの指揮により再演さる運びとなりました。

しかし、再演での聴衆の反応は初演の時のように芳しくはありませんでした。

バラキレフがチャイコフスキーに宛てた手紙に

ミリー バラキレフ(1837-1910年)作曲家ロシア五人組のまとめ役

「貴方の『運命』はサンクトペテルブルクで]ほどよく上手い具合に演奏されました。(中略)拍手はあまり大きくありませんでしたが、これはおそらく曲の最後に置かれた訴えかけるような不協和音のためでしょう。

私も全く好まない部分です。
適切に練られておらず、非常にぞんざいにあつらえられたかのようです。
継ぎ目が顕わになっていますが、貴方の不器用な継ぎはぎは全てそうです。 

なにより、形式自体がさっぱり機能していません。全体が全く以て統一されていないのです。(中略)私はすっかり正直な気持ちで貴方へ書き送っています。貴方が私へ『運命』を献呈する意志を取り下げたりしないであろうと確信してのことです。貴方の献呈は私に対する思いやりのしるしとして私にとってはかけがえのないものです - そして私は貴方に深く心酔しているのです

M.バラキレフ - 心からの愛をこめて」

この頃、チャイコフスキーとデジレ・アルトーの両者の心中では共に結婚の意思に変化が生じていました。

双方ともそのことを相手に伝えたわけでありませんでしたが、それでもチャイコフスキーはニコライ・ルビンシテインを通じて彼女が別の男性と結婚したことを知らされてショックを受けました。

相手はスペインのバリトン、マリアーノ・パディーヤ・イ・ラモスで、1869年9月のことでした。

チャイコフスキーがこの曲に向けていた好ましい見方も変化していきました - 彼はこれを失敗作とみなすようになりました。

1870年代に原稿を破棄してしまい、作曲者の生前には2度と演奏されることも出版されることもありませんでした。

しかし、彼はこの曲の抒情的主題をオペラ『オプリーチニク』
『オプリーチニク』の舞台美術となった町の通りの風景。アポリナリー・ヴァスネツォフ画、1911年。
の第4幕、ナターリャとアンドレイの二重唱へと転用しています。

チャイコフスキー没後の1896年、オリジナルの管弦楽パート譜を元に総譜が再構成され、作品番号77として出版されました。



アラゴネーズ

2024-12-24 21:33:00 | ロマン派
月曜朝は、自宅でチェロの斉藤千秋さんとピアノの坂田恭子さんとビゼー「カルメン」編曲版の合わせをしました。

早目に来た坂田さんとドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」を練習していると斉藤さんも早目に出たようで、早目に着きました。
お茶を入れようとすると「お茶はいいから、先に早く合わせましょう。」と斉藤さん。

まじめな方です。

カルメンの「アラゴネーズ」「アルカラの竜騎兵」「間奏曲」「ジプシーの踊り」をフルート、バスーン、ピアノのために編曲したものをフルート、チェロ、ピアノで演奏しようと言うのです。ビゼー

バスーンをチェロで。というと全く違うように思いましたが、音域が、同じという事もあってあまり違和感が無いです。

アルカラの竜騎兵などは、ピチカートを使うのがなかなかいいです。

一通り演奏したら落ち着いたのか「お茶を飲んでからやってもいいですか?」と聞くと「はい。」ということでようやくティータイムになりました。

お茶の後は「こんな楽譜を持ってきたけれど…。」と斉藤さんご持参のヴァイオリン、チェロ、ピアノのための小曲集を出されて、シューマン「トロイメライ」シューベルトの「子守唄」、マスカーニの「カヴァレリア ルスティカーナの間奏曲」などを初見で合わせました。



楽しかった!

ジョルジュ ビゼー(1838-1875年)フランス王国パリ生まれ、フランス共和国プージヴァル没

作曲のオペラ『カルメン』は、プロスペル・メリメの小説『カルメン』を元に、アンリ・メイヤックとリュドヴィク・アレヴィがリブレット(台本)を作り、ビゼーが作曲した4幕もののオペラです。
音楽(歌)の間をレチタティーヴォではなくメロディのない台詞でつないでいくオペラ・コミック様式で書かれていました。

1875年3月3日、パリのオペラ=コミック座で初演されました。

「アラゴネーズ」は第4幕への間奏曲の後に演奏される曲で、
スペインの地方である「アラゴンのダンス」です。

アラゴン王国
アラゴンとは1035年に起源を持つアラゴン王国から始まる地域でイスラム教の影響が残る地域です。

オペラ「カルメン」ではこのあと第4幕の幕が上がり、お祭りが始まり物売りの声が響き、観客たちが待ち受ける中、闘牛士たちが入場してきます。
祭りの喧騒や闘牛士エスカミーリョに惹きつけられるカルメンに、捨てられたホセが悲劇を起こします。



クリスマス・ツリー

2024-12-23 21:03:00 | ロマン派
土曜日に行った梅田エスト1とナビオの間の道は小さなお店のショーウィンドウが並んでいます。
今の時期はクリスマスツリーの饗宴。
楽しくて、写真撮りまくってしまいました。

ピンクと白は、かわいい婦人服のお店。
こちらはモード系の婦人服。

カジュアルな洋服屋さん。

こっちはバッグの専門店

これは何だったのかな?わからなくなってしまいました。

フリフリレースのかわいい服のお店。
ナビオの入口はハローキティのクリスマスヴァージョン。

ナビオの入口前のクリスマスツリー

これは三階建ての建物くらいの高さがありましたが、こうやって撮ってみると周りの建物が大きくてさほど大きく見えませんね。

北ヨーロッパに住んでいたゲルマン民族の冬至のお祭り「ユール」から系譜を継ぐものではないかと言われています。

ゲルマン民族は「ユール」の際、樫の木を「永遠の象徴」として祭祀に用い、崇める対象としていました。

ユールログ1832年
クリスマス前夜に炉で焚く大きな薪のことで、発祥は中世ドイツといわれ。森で巨木を伐採して、多くの場合リボンで飾られ、家へと運ばれるます。
家に運ぶ際、同行しているうちで最年少の者は、薪の上に乗り、ブルターニュでは、家族の最年長者と最年少者がこの薪に乗って、祈りをささげました。
樫の木に代表される常緑樹を信仰する風習は、ゲルマン民族だけでなく、古代エジプト、中国、中近東など世界各地で確認されています。
 
古代ヨーロッパでは、強大なローマ帝国が徐々にその版図を広げていきます。キリスト教を国教とするローマ帝国は、キリスト教以外の宗教を認めなかったため、異なる宗教を持つ他民族としばしばぶつかることとなりました。

そんな中、8世紀のドイツ(当時のフランク王国)において、キリスト教布教活動のためにゲルマニアの地に踏み入れた宣教師が、ゲルマン民族のお祭り「ユール」に遭遇します。 

そんな異教の信仰を止め、正しいキリスト教の道へと導かなければと考えた宣教師は、樫の木を切り倒します。 

するとそのすぐそばからモミの木が生え、それを見た宣教師は「奇跡の木だ」と感動します。

と言うのは、モミは横から見ると三角錐型をしており、頂点に神、両端に神の子イエスと精霊が繋がっている「三位一体」を体現していると捉えられたためです。
これが、のちのクリスマスツリーとなりました。

ただ、これは「オーディンの樫の木」として伝わっている神話です。実際には、他民族を懐柔・征服する過程で、土着信仰の行事とキリスト教が融合していったのではないかと言われています。

常緑樹が使われるツリーは、古代から続く「永遠の象徴」を表現した存在です。
キリスト教では、これに加えて「神の永遠の愛や神が与える生命を象徴する」といった意味が込められています。
ツリーの頂上部に飾る星はイエス・キリストの降誕を知らせたベツレヘムの星を表しています。

また、クリスマスツリーは旧約聖書の『創世記』に登場する「知恵の樹」の象徴であるという説もあります。
蛇にそそのかされたアダムとイブが「禁断の果実」を口にし、その結果神によって楽園を追放されてしまうという話が有名ですが、その「禁断の果実」がなっていた木が「知恵の樹」です。
ツリーによく飾られる球形のオーナメントは、アダムとイブの食べた「禁断の果実」を象徴しているといわれています。

フランツ・リスト(1811-1886年)オーストリア帝国ハンガリー王国ドボルヤーン生まれ、ドイツ帝国バイエルン王国バイロイト没

晩年のフランツ・リスト(おそらく1870年代以降)

「クリスマス・ツリー」Weihnachtsbaum S186は1874-1876年にかけて作曲された曲集です。
この曲はリスト晩年のローマで、孫娘ダニエラのために作曲したものです。


後列左から 
ダニエル、コジマ・ワーグナー
前列左から
アンナ・ラガー(リストの母親)
ブランディーヌ
ガバネス(家庭教師)

左からコジマ、ブランディーヌ、ダニエル
リストには3人の子供と6人の孫がいました。6人の孫の1人はブランディーヌの子ども、5人はコジマの子どもです。
ダニエラ・センタ・フォン・ビュローは1860年10月12日、ベルリンで生まれました。コジマとハンス・フォン・ビュローの娘、リストの最初の孫です。

1980年に、12曲にまとめた版がベーレンライター出版社から出版されました。


「クリスマスツリー」は古い民謡や教会の聖歌などを原型としたものです。

第1曲 古いクリスマスの歌 Psallite ; この楽曲は詩篇歌の歌詞がついていますが、ピアノのみでも弾くことが可能な曲です。

第2曲 おお、聖なる夜! O heilige Night! ; この楽曲も第1曲と同様に、クリスマスの歌詞が付いています。

第3曲 かいば桶をかこむ羊飼いたち Die Hirten an der Krippe  ;  この楽曲はハルモニウムで弾くことも可能です。6/8拍子の曲。この楽曲の動機は、アッシジの聖フランチェスコ
現存最古のフランチェスコ像(スビアーコの聖窟のインフェリオーレ教会蔵、1223年作)
の太陽賛歌と共通しています。

第4曲 信者たちよ、キリストへ Adeste fideles ; この楽曲は東方三博士
イタリア・ラヴェンナのサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂にある、三博士のモザイク画(526年)。上にBALTHASSAR、MELCHIOR、GASPARと書かれている
の行進になっていて、今日でも教会で賛美歌として歌われています。
「誠実な人々よきたれ」という邦題がつけられています。

第5曲 スケルツォーソ Scherzoso ; 人々がクリスマス・ツリーのろうそくに火をともしますす。

ニューヨーク・ロックフェラー・センターのクリスマスツリー
第6曲 鐘 Carillon ; 教会の鐘が静かに鳴る情景を現しています。

第7曲 仮眠のうた Schlummerlied  
第8曲 古い田舎のクリスマスの歌 Altes provencalisches Weihnachtslied  

第9曲 晩鐘 Abendglocken ; リストは青年期から晩年まで鐘をピアノで表現しています。

第10曲 むかし Ehemals  

第11曲 ハンガリー Ungarisch-Natale Ungherese

第12曲 ポーランド Polnisch-Natale Polacco

第11曲と第12曲は技巧的で、それぞれリストとカロリーヌ

カロリーヌ・フォン・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人。ポーランド系貴族で、祖国の膨大な領地を治める大地主。キエフでリストと知り合い、作曲家としての創作活動に専念すべきとリストを説得して、ピアニストから引退させた立役者であり、リストの後半生に最も大きな影響を持ったパートナーでもありました。読書とタバコを愛する知的教養の塊のような女性でした。
の故郷を現しています。

クリスマスツリー
り第4曲「信者たちよ、キリストへ 」Adeste fideles
「誠実な人々よきたれ」


ウェーバーのフルートトリオ

2024-12-17 21:06:00 | ロマン派
コンサートが一つ終わって、ずっと練習していたドップラーをとりあえず棚上げに。
次は。26日にやるフォーレのドリーから3曲、

クーラウのフルート二重奏op85第1楽章、ドップラーのアンダンテとロンド、またまたクーラウのトリオop119
、「カルメン」トリオ編曲、ウェーバーのトリオに未定の曲。

それから1月にはハープの発表会でフルートでビゼーのアルルの女のメヌエットとベルガマスク組曲、ハープとヴァイオリンで「カヴァレリアルスティカーナ」…遊んでは居られません。
とは言え基礎練。
頑張りま〜す。

カール・マリア・フォン・ウェーバー(1786-1826年)神聖ローマ帝国リューベック司教領オイティーン生まれ、イギリス ロンドン没 

フランツ・アントン・フォン・ウェーバーとウィーン出身の歌手であった2度目の妻ジェノヴェーファ・ウェーバーの3人の子どもの長男として生まれます。
ウェーバーは先天性の股関節障害を持って生まれ、4歳になるまで歩き始めませんでした。しかし、その頃にはすでに、彼は有能な歌手でありピアニストでした。

ウェーバーが生まれた次の年、父フランツは劇団を結成します。
そのため、幼いころからドイツ、オーストリア全土を回ることとなりました。

幼少の際、彼はこれといって特別な才能は見せませんでした。
しかし、9歳のときヒルトブルクハウゼンでヨハン・ホイシュケルから本格的な音楽教育を受け、才能を見せます。

その後も旅先で音楽教育を受け、ザルツブルクではミヒャエル・ハイドン(1737-1806年)

(フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの弟)、ウィーンでは、ウィーン音楽院の前身校でゲオルク・ヨーゼフ・フォーグラー(1749-1814年]

にも師事しています。

ザルツブルクでのカールの日々は、1798年3月13日に結核で亡くなった母ジェノヴェーファと、1798年12月29日にミュンヘンで1歳になる妹アントネッタの死によって暗い影を落としました。母の死後、父方の叔母アデライデがカールの世話を引き継ぎました。

1798年から99年にかけて初のオペラ『愛と酒の力』("Die Macht der Liebe und des Weins", J. Anh. 6)を作曲します。楽譜は、翌1800年に火事で消失しています。

1803年半ば、ウェーバーはウィーンで、マンハイム、ストックホルム、ダルムシュタットの重要な音楽学校の創設者であるアベ・フォーグラーのもとで勉強を続けました。
そこでジャコモ・マイアベーアとして知られるヤコブ・マイヤー・ベーアで、ウェーバーの親友となった。手紙の中で彼らはお互いを「兄弟」と呼んでいました。

1804年、ブレスラウ(現ヴロツワフ)のカペルマイスターに就任。しかし自身の理想主義的傾向や、父の投機的な性格が災いし、会計操作の問題に巻き込まれ、裁判では認められたものの、
民事法では借金を背負うことになり、2年後には楽長を退きます。

冷静になる副作用として、ウェーバーは日記をつけ始め、支出や通信をリストアップし、特別な出来事について時折コメントするようになりまし。

この年にエッチング用の硝酸をワインと間違え飲んでしまい、声が出せなくなりました(声を失うまではかなりの美声だったと言われています)。
その後カールスルーエ、ミュンヘンなどドイツ各地を転々とします。

1813年にプラハ歌劇場の芸術監督に就任し、オペラの改革に尽力します。モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』上演以後、低落していた歌劇場を見事に再興させました。

1817年、ザクセンの宮廷楽長に任命され、ドレスデン歌劇場(現在のゼンパー・オーパーの前身)

に移ります。
1817年11月4日シルヴァーナのタイトルロールを創作した歌手カロリーネ・ブラント

と結婚しました。

当時宮廷ではイタリア・オペラが主流でしたが、ウェーバーは自身のドイツ・オペラをもって彼らに戦いを挑みます。

結果は成功し、ドイツ・オペラを根付かせることに成功します。
また、当時最高のピアニストとしてヨーロッパ各地で演奏を行いました。

1821年、ベルリンで『魔弾の射手』


が初演されると大反響を呼び、ドイツ国民オペラの金字塔を打ち立てました。

この『魔弾の射手』を観て、ワーグナーやベルリオーズなど、後に大作曲家となる多くの人物が作曲家を志したとも言われています。

この頃からウェーバーの作風に暗い影が漂い始め、ピアノソナタ第4番の極度に厭世的な冒頭を持つ第1楽章などにその兆候が現れ始める。

1826年、ロンドンのコヴェント・ガーデン歌劇場

の依頼により、英語によるオペラ『オベロン』
を作曲します。

そのとき彼は結核を患っていましたが、家族を養うため病苦を押して渡英し(家族には病状を隠していました)、自ら指揮棒を振り大成功を収めた。しかしその後病状が悪化し、同年6月5日、ロンドンで客死。39歳でした。

コヴェントガーデンに面するセント・ポール教会に埋葬されましたが、
18年後の1844年12月、彼の音楽的な遺志をつぐこととなったワーグナーの力添えにより、息子マックスに見守られながらロンドンからドレスデンに帰還しました。

フルート三重奏曲 ト短調 作品63 J.259は1818-1819年に作曲されました。

1817年34歳のウェーバーは、ザクセンの宮廷楽長に任命され、ドレスデン歌劇場(現在のゼンパー・オーパーの前身)に移り、放浪生活から脱出、ここからウェーバーの快進撃が、はじまります。その頃の作品です。