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音楽の喜び フルートとともに

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音楽大全

2022-06-22 20:55:36 | ルネッサンス
先日行ったいずみホールの前の道。

寝屋川を渡ると、かつては大阪城の敷地の中でした。
いずみホールの向い側は、お城です。
ツインタワーから見た大阪城。お堀は大きいけれど、お城は小さくなりました。
淀君と秀頼が亡くなった時に、焼け落ちました。
今の天守閣の4.5倍はあったそうです。
家康は徹底的に破壊したその上に新しい天守閣を建てました。それは15mほど秀吉のものより大きかったとか。
それも1665年落雷で焼け、明治の動乱で消失。
1935年当時の市長が募金活動を行い、再建されました。
第二次大戦でそれもいくつか焼失破損。
平成9年になって大改修が行われたのが現在の大阪城てす。

ミヒャエル プレトリウス(1571-1621年)神聖ローマ帝国クロイツブルク生まれ、神聖ローマ帝国ヴォルフェンビュッテル没
フランクフルトのマリア教会を務めた後、1604年からヴェルフェンビュッテル宮廷でオルガニスト兼宮廷楽長に就任。
1613-1616年にドレスデンのザクセン宮廷に仕えます。
そこでヴェネツィア楽派の複合唱様式による最新のイタリア音楽を披露しました。

その後、教会コンチェルト様式を発展させました。

イタリア音楽に影響を受け、コラール、賛美歌の編曲、「シオンの音楽」曲集を9巻、ルター派教会のための作品など1000曲以上の作品を残しています。

世俗音楽集舞曲集「テレプシコーレ」 

3巻の論文集「音楽大全」(1614-20年)

は、同時代の演奏習慣や楽器について詳細な説明と図解されていて研究の分野で重要な文献になっています。










おお春よ!

2022-05-07 21:28:55 | ルネッサンス
栗東の息子の所に、自転車を持って行きお昼に野菜を食べさせた後、野洲川の上流で、フィールドワーク。
小麦が収穫終わると

水田にして稲を植えます。
川や水路の水を引き込んで
これから田植えです。
近江米、美味しいです。

ハハコグサ、
庭石菖ニワゼキショウ



松葉雲欄マツバウンランもたくさん咲いていました。

クラウディオ モンテヴェルディ(1567-1643年)イタリア クレモナ生まれ、ヴェネツィア共和国ヴェネツィア没

ヴィオラ ダ ガンバ奏者

で歌手としてマントヴァ公国


ヴェンチェンチィオ1世ゴンザーガ(1562-1612年)
の宮廷楽長として40歳まで務めました。
マドリガーレ集を5巻出します。

ゴンザーガが死去すると財政難で宮廷楽団は解体。モンテヴェルディも解雇されます。

1613年ヴェネツィアのサン・マルコ寺院


の楽長になり、マドリガーレ集6.7.8巻を出版します。

対位法の可能性を広げ、オペラを製作するなど現在にも繋がる音楽の基礎を発展させます。

「おお春よ!」は、マドリガーレ集3巻マントヴァ時代の作曲です。



O primavera,gioventù de l'anno,
bella madre de' fiori,
d'erbe novelle e di novelli amori,
tu ben,lasso,ritorni,
ma senza i cari giorni
de le speranze mie.
Tu ben sei quella
ch'eri pur dianzi,sì vezzosa e bella;
ma non son io quel che già un tempo fui,
sì caro a gli occhi altrui.

おお春よ 一年の若者
花たちの美しい母
新しい草や 新しい愛の母よ
お前は ああ またやって来る
けれど あの大切な日々は持たずに
私の希望で満ち溢れていた日々は
お前はまるで変わることなく
かつてのように愛らしく美しい
けれど私は かつての私ではないのだ
他人の目にもとても愛らしかった私では





報復殺人ジェズアルド

2022-04-17 20:57:15 | ルネッサンス
お久しぶりの酒屋神社裏の池。
暖かい日和でした。

新緑が美しい! 

タンポポがいっぱい。



ここのはニホンタンポポです。

足を踏み入れるとぽちゃんぽちゃんと湖音がして

亀さんが…。

イタドリを取ってきました。


カルロ ジェズアルド(1566-1613年)

ヴエノーザ?生まれ、ジェズアルド没
イタリア貴族で、聖職者の家系に生まれます。
ミラノ大司教で聖人のカルロ ポッロメーオは叔父、母はローマ教皇ピウス4世の姪です。


1586年いとこで侯爵令嬢のマリア ダヴァロスと結婚。
2年後にアンドリア公ファブリツィオ カラーファと情事を重ねます。

1590年、ジェズアルドは狩りに行くと嘘をつき、ナポリの宮殿に手下を連れて乗り込みます。

妻と愛人の情事を見つけ、寝台の上で二人を惨殺します。

そして報復を恐れジェズアルド城に逃げ帰ります。

この殺人事件は広く宣伝され、トルクァート・タッソーなどミラノ中の詩人により取り上げられました。
貴族による不貞の妻に対する報復殺人は当時珍しくはなかったそうで、ジェズアルドはつかまることはありませんでした。
手下を連れて行ったこと、一騎打ちでなかったことで評判は落ちましたが。

妻殺しのあと、赤ん坊の息子を殺したとか、復讐に現れた義父も殺したという史料も。
武装した兵士に自分を守らせていたそうです。

1594年フェラーラに赴き、大公アルフォンソ2世デステの姪レオノーラと再婚します。
エステ家の宮廷には文化人が集まっていて、仕事がすすみ、初めのマドリガーレ集を出版します。

1595年ジェズアルドに戻り、フェラーラ時代のような文化拠点を作ろうとしますが、豊富な財源で雇い入れることでしか人を集めることができませんでした。

レオノーレは、しばしば実家のエステ家に虐待を訴え、エステ家は別れさせようとしています。

1600年再婚後もうけた息子が早世します。
カプチン会教会にレオノーレと息子と自分を描いた絵画を委嘱しています。

1613年マリアとの長男エマヌエレが亡くなった3週間後に亡くなっています。

後半生はうつ病だったとも言われています。
毎日専用の使用人を雇い、自分を鞭打たせていたそうです。
曲は「苦痛」「死」「恍惚、喜悦」「苦悶」などと言う名前をつけています。

また、半音階を利用する作風は19世紀ロマン派を待つまで現れず、まさに孤独の作曲家といえるでしょう。

「幸せな春よ」はマドリガーレ集1に収録されていて!まだ調性音楽にとどまっていますが、後半に行くほど半音階が使われるようになります。










アグリコーラ フランドル楽派

2022-04-09 16:41:47 | ルネッサンス
母の家が花盛り。
桃が満開。

ラナンキュラスも

きれいです。

オレンジラナンキュラス。

シクラメンも。


私は昨日古民家訪問の後、近所の小児科でワクチン3回目。
前回に腕にしこりができて半年痛かったので、何もない週末前にしました。
先生に心配と言ったら
「それは辛かったね〜。半年も痛いと心配やね〜。でも、やっばりね。明日はごめんね〜。腕痛いと思うよ。」

思い出しました。子どもたちが幼い頃
、心配を受け止めてから本当のことを言ってくれるので、病いのみならず、心も少し軽くなって帰ったのでした。

これからファミリー診療場を開かれるとのこと。
また、相談できるようになってうれしいです。

で、やっぱり痛いし、熱も出てきました。

今日は家で、お休み。
練習したいけど、ちょっとお預け。
昨日帰った時は、大丈夫だったので練習したのですが。

今日は38度。
お昼ごはんに夫が自分で出張で買ってきた仙台麩でどんぶりを作ってくれました。消化もよく食べてしまいました。

アレクサンダー アグリコーラ(1445or46-1508年)
中期ルネッサンス(1470-1520年)を代表する作曲家です。

このオランダ地図の9番がフランドル地方と呼ばれ、ここを中心に中期ルネッサンスに活躍した作曲家がフランドル楽派と呼ばれています。

13世紀には

ハンザ同盟が結ばれ、豊かな海運をバックに商品取引所か開設されました。

シャルル突進公が1477年戦士し、彼の娘ブルゴーニュのマリー

が、神聖ローマ帝国マクシミリアン1世と

結婚。

音楽や文化が花開きました。

アグリコーラの前半生は知られておらず、
複数の文献にドイツの(d'Allemagnod'Allemagna)と記されていることからドイツと関係があったと言われています。

イタリア、フランス、ネーデルランドと職場を転々としていました。
1471-1474年にはミラノのスフォルツァ公

のもとで働いていました。
彼はメディチ家への紹介状を書いて送り出しますが、その後の動きはわかっていません。
1476年ネーデルランドにいましたが、1490年以降フランスとナポリで彼の取り合いが起こるほど人気がでました。
1500年ブルゴーニュのカスティーリャ王フィリップ美公に仕え、各地を王と巡り、1506年スペイン バリャドリッドでペストのために亡くなります。




ダンスタブル ルネッサンスの始まり

2021-11-02 22:25:29 | ルネッサンス
朝起きて、サンルームのドアを開けると黄蝶が入り込んでいました。

一昨日位から外に通じるドアを開けていないので、前から入っていたのか?
蛹が孵ったのか?
苺の蜜をすっていたので
ドアを開けて庭仕事をしているといつの間にか外へ出ていってしまいました。





今日の収穫。
オクラは相変わらず筋だらけですが、ピーマンはずっしり重くて身があつく、ミニトマトは甘かったです。

ジョン ダンスタブル(1390-1453年)

イングランド ベッドフォードシャー ダンスタブル生まれの作曲家です。
ノルマンディーのベッドフォード公爵ジョンに仕え、外交官、天文学者でもあったそうです。

百年戦争(1337-1453年)

ポワティエの戦い
の休戦時(1347-1355年)にフランスに滞在して和声に三度 六度下のパートをつけるフォーブルトンという方法を伝え、後にポリフォニー(複数の声部を重ねる)へと発展し、大陸のルネッサンス音楽の開始に貢献したと言われています。
と言われています。

ネウマ譜面

四角の音符。
グレゴリオ聖歌を歌う時に使われ、単旋律。

11世紀線がついて

1511年ブルゴーニュ
パート譜に別れています。
きれいですね。

装飾品のような感じ

14世紀これはパートに別れています。
この複数のパートに別れて一緒に歌うということに影響を与えたのがダンスタブルだと言われています。

ジョン ダンスタブルの
マニフィカト



流れよ我が涙ダウランド

2021-09-25 22:22:49 | ルネッサンス
今日はオンライン西宮ギター練習会。
ギター伴奏は諦めて、木管の頭部管でバッハの無伴奏フルートソナタの1楽章、2楽章を吹かせてもらいました。
ギター練習会なのにありがたいです。

バッハ、ピアソラ、ヴァイス、ダウランド、タンスマンバラエティー豊かな練習会になりました。

ジョン ダウランド(1563-1626年)
イギリスのリュート奏者です。
デンマーク王クリスチャン4世

やイングランド王ジェームズ王一世、

リチャード一世

の宮廷リュート奏者になりました。
「涙のジョン・ダウランド」(Jo: dolandi de Lachrimae)と自署し、イタリアでは「不幸なるイングランド人ジョヴァンニ・デュランデ」(イタリア語: Gio. Dulande infoelice Inglese)とも名乗りました

モットーは「人を救う技芸はその主を救うことあたわず」
「運命の女神の祝福を受けざりし者は、ただ憤るか泣きはらすのみ」

ヨーロッパ大陸で流行っていた神秘思想がイギリスに渡った時に憂鬱(メランコリー)闇夜崇拝になりましたが、流行を取り入れ「憂鬱なダウランド」を演出していたという説もあります。

リュート曲や歌との曲を多く書きました。

私はエマ カークビーの歌のCD持っていました。
その後、フィリップ K ディックのSF「流れよ我が涙と警官は言った」を読みました。
現代のダウランド流行の波でした。

流れよ我が涙

流れよ、わが涙、なんじの源から溢れ落ちよ。
とこしえの追放を受けたれば、せめて我に悲嘆を許し給え。
夜の黒き鳥が自らの哀れな汚名をさえずる地、
その地にて我を独り惨めに生きさせ給え。

消え失せよ、むなしき光、二度と輝くなかれ。
いかな夜とて闇の深さに足るものか、
望みを捨てて残りの人生を嘆きに生きる者には。
光が明らかにするのは、ただ恥辱のみ。

わが苦痛が癒えることは決してあるまい。
なぜなら主の慈悲はとうに逃げ去って、
涙と、ため息と、うめきの声が、わが煩わしき日々から、わが煩わしき日々から、
すべての喜びを奪い取ったのだから。

いとも高き幸福の頂きから
わが宿命は投げ捨てられた。
恐れと、哀しみと、苦しみこそが、この身にふさわしき報い、この身にふさわしき報い、
そして我自身が希望するもの。なぜなら「希望」はとうに去ってしまったのだから。

聴け! なんじら影、闇に住まう者どもよ、
今よりのち光を蔑め。
幸いなるかな、幸いなるかな、地獄にありて
このうつし世の悪意を知らぬ者たちは。

ゼフィルス西風の神

2021-09-10 23:06:28 | ルネッサンス
サフランモドキ ゼフィランサス Zephyranthesの語源はギリシャ神話の西風の神ゼフィルスZephyrosから来ています。

ゼフィルスというと「春」を連れて来る風、奥さんは花の女神フローラです。

ボッティチェリの春の中の向かって右端の口を膨らませているのがゼフィルスで口から花を出しているフローラを誘拐するところです。
右から3番目の人物は後悔したゼフィルスによって女神になったフローラ自身だそうです。



こちらはヴィーナスの誕生。
フローラと共に祝いに来ます。

西風はヨーロッパの人たちにとっては春を連れて来る風。

モンテベルディ(1567-1643年)のマドリガーレ集から、西風が戻り、そして晴れ間がやってくる…。



1400年代に起きたこと

2021-08-01 21:25:05 | ルネッサンス
京田辺市の観音寺は今は本堂が少し残っているだけです。

20ほどの建物があったそうですが、1438年、戦乱に巻き込まれ全焼したそうです。
観音さまが残っています。







鬼瓦。
ヨーロッパでは、ブルゴーニュ楽派デュファイ、フランドル楽派ジョスカン デ プレ
が出ています。

宗教のためのものだった音楽が、芸術性を持ち、人気の音楽家が出て来ました。

デュファイの傑作。
アヴェ レジーナ チェラーロム


ジョスカン デ プレのアヴェ マリア