音楽の喜び フルートとともに

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ハーフレングスのマスター

2022-12-06 09:04:00 | ルネッサンス
女性の上半身を描く画家(Master of female harf length)は
1530-1540年頃107点の作者が特定できてない作品郡のことをさします。

これは、道化師と3人の若い女性
アントワープで見つかりました。個人蔵

この画家の作品には、定番の宗教画の他に多くの働く女性が含まれています。

1530-1550年のアントワープ(アントウェルペン)は、世界交易の中心地でした。
ヴェニスや、ポルトガル、スペインの商人が自ら船で出向いた繁栄のようではなく、開かれた港から初めは胡椒、次は銀で、多勢の世界中からやってくる商人たちがもたらした繁栄でした。

胡椒はローマ時代からヨーロッパでは栽培できないのでインドから輸入していました。東ローマ帝国がオスマン・トルコに支配され、ポルトガルが船を出して北回りでヨーロッパに入れるようになりました。

ここで脚光を浴びたのが、北の港アントワープです。
現地価格の40倍にもなった胡椒は貨幣の代替にも出来る貴重な商品でした。繁栄はイタリア争奪のイタリア戦争に踏み出すまで続きます。

ヴェネツィアのオッターヴィア ペトルッチ(1466-1539年)が初めの楽譜集を出版したのが多声歌曲集「オデトカン」で1501年。
アントワープでも1548年

クリストフ プランタンが活版印刷を建てますが、この女性たちが見ている楽譜は、ヴェネツィアで印刷されたものか、手書き譜面で当時、高価だったと思われます。

ルネッサンスフルートの女性が細かい楽譜を追い、リュートの女性は横から覗いています。真ん中の女性は歌っているのでしょう。
小さなメモのようなものは、簡単な写しかもしれません。

道化師はうっとり聞いています。
このあと、同じサロンでコラボするのでしょうか。

豊かな富が隅々まで届いていることを感じます。

この時代のルネッサンスフルートとリュート歌の合奏は見つけられませんでした。 
この時代の作曲家は多いのですが
オケゲム、デュファイ、オブレヒト、ジョスカン・デ・プレ、イザークなどなど、他の楽器のにしようかと思いましたが、絵の時代の雰囲気を伝えるにはぎりぎりかな?
という作曲家の演奏を掲載しました。曲はフランドル楽派ではないので気をつけて下さい。
チェーザレ ネグリ(1535-1604年)イタリアミラノ生まれ


オケゲム ルネッサンスの響き

2022-11-27 08:42:00 | ルネッサンス
今朝は梅田て伊藤公一先生のマスタークラスでした。楽器屋さんはクリスマスツリーを飾っていました。

スケールとアルペジオだけで1時間見てもらいました。まだまだ、深い。

午後からは自宅でレッスン。
発表会があるので、明日ピアノ合せなのでレッスンです。

グルックの精霊の踊りとケーラーの子守唄。
愛らしい曲はシンプルなだけにごまかしがききません。
二人ともよく練習されています。

久しぶりのホールでの発表会なので張り切っています。明日はピアノ合せ。

ヨハネス オケゲム(1410-1497年)
ベルギー エノー伯爵サン=ギラン生まれ、フランス王国トゥール没

詳細については謎ですが、始めの記載はベルギー アルトゥルペンのノートルダム寺院


の教会楽長としてあります。
1446-1448年はフランス ムーランでブルボン公シャルル1世

に仕えています。
1452年パリに移り、フランスの宮廷楽長、トゥールのサン・マルタン寺院の出納方に就任します。
シャルル7世


とルイ11世


に仕えノートルダム寺院


や聖ブノワ寺院にも務めました。
1470年にはスペインイザベラ女王

にギュイエンヌ公シャルル(ルイ11世の弟)の婚姻を託されイベリア半島を訪れています。
その後足取りはよくわかっていませんが、トゥールやブルッヘを訪ねており、亡くなった時にはたくさんの作曲家が哀悼曲を寄せています。

ブルゴーニュ楽派とネーデルランド楽派の橋渡し的な存在です。
ミサ曲数曲とモテットが残されています。

Missa l'homme arme Kriye
ミサ曲武装した男
L'homme, l'homme, l'homme armé,
L'homme armé
L'homme armé doibt on doubter, doibt on doubter.
On a fait partout crier,
Que chascun se viengne armer
D'un haubregon de fer.
男よ、男よ、武装した男よ、
武装した男よ。
武装した男に気をつけろ、気をつけろ。
みんなそこらじゅうで叫んでる、
みな武装せよと
鋼の鎧で。

キリエは主よ憐れみ給え

オルガネットorganetto
小さなふいごを左腕で動かしながら演奏する小さなオルガンで15世紀までよく使用されていました。
オルガネットを使ったアンサンブル見つけました。


カルドーソ震災で焼失した楽譜

2022-11-19 09:12:00 | ルネッサンス
先週お約束していた母と叔父さんをおばあちゃんのお墓に連れて行く話し。
実行しました。

朝から母から電話で「忍ヶ丘に11時違うの?」
「いつ連絡したの?」
「忍ヶ丘じゃなくて、河内磐船駅。」
「あんた忍ヶ丘って言ってた。」
「言ってたのはお母さん。河内磐船駅のほうが近いから、訂正して。」
ブツッって切れた…。

あちゃー。

まあ、無事に会えました。

お墓参りをして、
「千光寺に行きたい。日本最古のキリシタンのお墓が見つかった所や。」
これが、なかなか。
ぐるぐる周辺を廻って、道で地元の人の話を聞いたり…。

結局、千光寺はもう無く、跡地は私有地で入れなくなっていました。
遺構は移転されて跡地公園になっていました。



柱の跡や、城主の田原城主一族の墓の跡が展示してありました。

1581年(天正9年)田原レイマン(礼幡)城主のキリシタンの墓碑は

四條畷駅近くの歴史民俗資料館に展示してあり、叔父さんはそちらの方はもう見たそうです。

田原レイマンはルイス フロイスに洗礼を受けてキリシタンになったそうです。

ルイス フロイスはポルトガルからやってきた宣教師です。
ポルトガルの作曲家はあまり有名ではありませんが、この頃、カルドーソ、ローボ、ポルトガル国王ジョアン四世が曲を残しています。

マニュエル カルドーソ(1566-1650年)ポルトアレグレ近郊フロンテイラ生まれ、没不明。

エヴォラ大聖堂
1230-1340年に建てられた世界遺産エヴォラ大聖堂
の声楽伝道所で音楽を学びます。

1588年カルメル会修道院に入会。
1620年代ヴィラ ヴィソーサ大公家
に努めます。
そこでボルトガル国王ジョアン四世


と交友関係に入ります。
カルメル女子修道会の常勤作曲家兼オルガニストとして生涯の大半を過ごします。
カルドーソはパレストリーナのポリフォニー様式を模範にして、当時流行っていたバロックの音楽語法を全く無視していました。

精巧なポリフォニーの作品以外は1755年のリスボン大地震で

震災後、廃墟と化したリスボン市街と、郊外のテントで暮らす市民たち。中央には略奪者に対する見せしめとして立てられた絞首台が見える

大震災のため崩壊した建物

リスボン広場に集まる人々
大震災後のリスボン
焼失したと言われています。

3曲残ったミサ曲のうちの1つです。



宗教改革と音楽

2022-11-16 08:35:00 | ルネッサンス
昨夜は渡辺橋近くのサロンドプリンシパルで榎田先生のフルートアンサンブルレッスンでした。

トリオでカーペンターズの「トップ・オブ・ザ・ワールド」でスタート!

簡単かと思ったら…。ジャズアレンジで後打ち、シンコペーション、アクセント。
なかなかでした。

後半は「シング」同じ人のアレンジで、アドリブもあって、もっと大変でした。
クラッシック音楽ばっかりやってると、ポップスやジャズのリズムが読めない、乗れない…。
修業、修業!

筑前橋から渡辺橋を見たところ。

クリスマスのイルミネーションを初めて飾ったのはマルティン ルター(1483-1546年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領アイスレーベン生没

と言われています。
森の中で、子どもたちに神の恩寵を伝えるために木にろうそくをたくさん立てたとか。

ルターは宗教改革で歴史に名を刻まれていますが、ギターやオルガンを演奏し、アルトの美しい声で歌い、讃美歌を作曲して伝道に役立てたそうです。

ルター派プロテスタントの音楽を広めたドイツの初期バロック時代のハインリヒ・シュッツ(1585~1672)、ヨハン・シャイン(1586~1630)、ザムエル・シャイト(1587~1654)がいて、バッハはその後に続く作曲家です。 

ルターの影響は深いようです。
宗教のことを抜きには語れない…とはいってもちょっと覗いてみておそれを成して引き返してきました。またぼちぼち勉強したいです。

ルター作詞の讃美歌から



落葉

2022-11-13 09:06:00 | ルネッサンス
西宮ギター練習会、夙川公民館ホールでコンサートでした。
ギターの本庄定雄さんと久米フルートでソルのファンタジアop54と、ギターの岡山友樹とドボルザークのソナチネop100演奏してきました。

先週から少し進んで落葉が多くなってました。



みんなも熱演で楽しかった〜。

作曲者:マーティン・ピアソン(1571–1650)イングランド、ケンブリッジシャー生まれ、イングランドロンドン没
は、1571年マーガレットとトーマスの間に生まれました。

トーマスは数年後亡くなり、マーガレットは再婚しました。

1580年9歳でセントポール寺院

の聖歌隊に入りました。

1604年33歳の時にフレク グレヴィルの詩に曲をつけ、マドリガルを作っています。
ロンドン市内でレッスンを行っていた記録があります。
彼はヴァージナル

という楽器を使っていました。
彼はローマカトリック教会に近く、英国国教会のプロテスタントの教義を忌避して、国教忌避の有罪判決を受けています。
その後オックスフォード大学
で職を得ています。そうするためにはプロテスタントの教義を受け入れなくてはならなかったはずです。

1613年音楽学師を授与され、ウェストミンスター寺院

の聖具室係と合唱指導として1623-1630年務め、1624-1625年セントポール寺院に戻り合唱指導をしていた記録が残っています。

1642年イングランド内戦(清教徒革命)により全ての活動が停止し、1651年に亡くなり、聖ポール大聖堂の聖パウロ寺院
に埋葬されました。

落葉The fall of The leafは1899年、ロンドン ブライトコプフから出版されたヴァージナル全集に収録されています。

音楽大全

2022-06-22 20:55:36 | ルネッサンス
先日行ったいずみホールの前の道。

寝屋川を渡ると、かつては大阪城の敷地の中でした。
いずみホールの向い側は、お城です。
ツインタワーから見た大阪城。お堀は大きいけれど、お城は小さくなりました。
淀君と秀頼が亡くなった時に、焼け落ちました。
今の天守閣の4.5倍はあったそうです。
家康は徹底的に破壊したその上に新しい天守閣を建てました。それは15mほど秀吉のものより大きかったとか。
それも1665年落雷で焼け、明治の動乱で消失。
1935年当時の市長が募金活動を行い、再建されました。
第二次大戦でそれもいくつか焼失破損。
平成9年になって大改修が行われたのが現在の大阪城てす。

ミヒャエル プレトリウス(1571-1621年)神聖ローマ帝国クロイツブルク生まれ、神聖ローマ帝国ヴォルフェンビュッテル没
フランクフルトのマリア教会を務めた後、1604年からヴェルフェンビュッテル宮廷でオルガニスト兼宮廷楽長に就任。
1613-1616年にドレスデンのザクセン宮廷に仕えます。
そこでヴェネツィア楽派の複合唱様式による最新のイタリア音楽を披露しました。

その後、教会コンチェルト様式を発展させました。

イタリア音楽に影響を受け、コラール、賛美歌の編曲、「シオンの音楽」曲集を9巻、ルター派教会のための作品など1000曲以上の作品を残しています。

世俗音楽集舞曲集「テレプシコーレ」 

3巻の論文集「音楽大全」(1614-20年)

は、同時代の演奏習慣や楽器について詳細な説明と図解されていて研究の分野で重要な文献になっています。










おお春よ!

2022-05-07 21:28:55 | ルネッサンス
栗東の息子の所に、自転車を持って行きお昼に野菜を食べさせた後、野洲川の上流で、フィールドワーク。
小麦が収穫終わると

水田にして稲を植えます。
川や水路の水を引き込んで
これから田植えです。
近江米、美味しいです。

ハハコグサ、
庭石菖ニワゼキショウ



松葉雲欄マツバウンランもたくさん咲いていました。

クラウディオ モンテヴェルディ(1567-1643年)イタリア クレモナ生まれ、ヴェネツィア共和国ヴェネツィア没

ヴィオラ ダ ガンバ奏者

で歌手としてマントヴァ公国


ヴェンチェンチィオ1世ゴンザーガ(1562-1612年)
の宮廷楽長として40歳まで務めました。
マドリガーレ集を5巻出します。

ゴンザーガが死去すると財政難で宮廷楽団は解体。モンテヴェルディも解雇されます。

1613年ヴェネツィアのサン・マルコ寺院


の楽長になり、マドリガーレ集6.7.8巻を出版します。

対位法の可能性を広げ、オペラを製作するなど現在にも繋がる音楽の基礎を発展させます。

「おお春よ!」は、マドリガーレ集3巻マントヴァ時代の作曲です。



O primavera,gioventù de l'anno,
bella madre de' fiori,
d'erbe novelle e di novelli amori,
tu ben,lasso,ritorni,
ma senza i cari giorni
de le speranze mie.
Tu ben sei quella
ch'eri pur dianzi,sì vezzosa e bella;
ma non son io quel che già un tempo fui,
sì caro a gli occhi altrui.

おお春よ 一年の若者
花たちの美しい母
新しい草や 新しい愛の母よ
お前は ああ またやって来る
けれど あの大切な日々は持たずに
私の希望で満ち溢れていた日々は
お前はまるで変わることなく
かつてのように愛らしく美しい
けれど私は かつての私ではないのだ
他人の目にもとても愛らしかった私では





報復殺人ジェズアルド

2022-04-17 20:57:15 | ルネッサンス
お久しぶりの酒屋神社裏の池。
暖かい日和でした。

新緑が美しい! 

タンポポがいっぱい。



ここのはニホンタンポポです。

足を踏み入れるとぽちゃんぽちゃんと湖音がして

亀さんが…。

イタドリを取ってきました。


カルロ ジェズアルド(1566-1613年)

ヴエノーザ?生まれ、ジェズアルド没
イタリア貴族で、聖職者の家系に生まれます。
ミラノ大司教で聖人のカルロ ポッロメーオは叔父、母はローマ教皇ピウス4世の姪です。


1586年いとこで侯爵令嬢のマリア ダヴァロスと結婚。
2年後にアンドリア公ファブリツィオ カラーファと情事を重ねます。

1590年、ジェズアルドは狩りに行くと嘘をつき、ナポリの宮殿に手下を連れて乗り込みます。

妻と愛人の情事を見つけ、寝台の上で二人を惨殺します。

そして報復を恐れジェズアルド城に逃げ帰ります。

この殺人事件は広く宣伝され、トルクァート・タッソーなどミラノ中の詩人により取り上げられました。
貴族による不貞の妻に対する報復殺人は当時珍しくはなかったそうで、ジェズアルドはつかまることはありませんでした。
手下を連れて行ったこと、一騎打ちでなかったことで評判は落ちましたが。

妻殺しのあと、赤ん坊の息子を殺したとか、復讐に現れた義父も殺したという史料も。
武装した兵士に自分を守らせていたそうです。

1594年フェラーラに赴き、大公アルフォンソ2世デステの姪レオノーラと再婚します。
エステ家の宮廷には文化人が集まっていて、仕事がすすみ、初めのマドリガーレ集を出版します。

1595年ジェズアルドに戻り、フェラーラ時代のような文化拠点を作ろうとしますが、豊富な財源で雇い入れることでしか人を集めることができませんでした。

レオノーレは、しばしば実家のエステ家に虐待を訴え、エステ家は別れさせようとしています。

1600年再婚後もうけた息子が早世します。
カプチン会教会にレオノーレと息子と自分を描いた絵画を委嘱しています。

1613年マリアとの長男エマヌエレが亡くなった3週間後に亡くなっています。

後半生はうつ病だったとも言われています。
毎日専用の使用人を雇い、自分を鞭打たせていたそうです。
曲は「苦痛」「死」「恍惚、喜悦」「苦悶」などと言う名前をつけています。

また、半音階を利用する作風は19世紀ロマン派を待つまで現れず、まさに孤独の作曲家といえるでしょう。

「幸せな春よ」はマドリガーレ集1に収録されていて!まだ調性音楽にとどまっていますが、後半に行くほど半音階が使われるようになります。










アグリコーラ フランドル楽派

2022-04-09 16:41:47 | ルネッサンス
母の家が花盛り。
桃が満開。

ラナンキュラスも

きれいです。

オレンジラナンキュラス。

シクラメンも。


私は昨日古民家訪問の後、近所の小児科でワクチン3回目。
前回に腕にしこりができて半年痛かったので、何もない週末前にしました。
先生に心配と言ったら
「それは辛かったね〜。半年も痛いと心配やね〜。でも、やっばりね。明日はごめんね〜。腕痛いと思うよ。」

思い出しました。子どもたちが幼い頃
、心配を受け止めてから本当のことを言ってくれるので、病いのみならず、心も少し軽くなって帰ったのでした。

これからファミリー診療場を開かれるとのこと。
また、相談できるようになってうれしいです。

で、やっぱり痛いし、熱も出てきました。

今日は家で、お休み。
練習したいけど、ちょっとお預け。
昨日帰った時は、大丈夫だったので練習したのですが。

今日は38度。
お昼ごはんに夫が自分で出張で買ってきた仙台麩でどんぶりを作ってくれました。消化もよく食べてしまいました。

アレクサンダー アグリコーラ(1445or46-1508年)
中期ルネッサンス(1470-1520年)を代表する作曲家です。

このオランダ地図の9番がフランドル地方と呼ばれ、ここを中心に中期ルネッサンスに活躍した作曲家がフランドル楽派と呼ばれています。

13世紀には

ハンザ同盟が結ばれ、豊かな海運をバックに商品取引所か開設されました。

シャルル突進公が1477年戦士し、彼の娘ブルゴーニュのマリー

が、神聖ローマ帝国マクシミリアン1世と

結婚。

音楽や文化が花開きました。

アグリコーラの前半生は知られておらず、
複数の文献にドイツの(d'Allemagnod'Allemagna)と記されていることからドイツと関係があったと言われています。

イタリア、フランス、ネーデルランドと職場を転々としていました。
1471-1474年にはミラノのスフォルツァ公

のもとで働いていました。
彼はメディチ家への紹介状を書いて送り出しますが、その後の動きはわかっていません。
1476年ネーデルランドにいましたが、1490年以降フランスとナポリで彼の取り合いが起こるほど人気がでました。
1500年ブルゴーニュのカスティーリャ王フィリップ美公に仕え、各地を王と巡り、1506年スペイン バリャドリッドでペストのために亡くなります。




ダンスタブル ルネッサンスの始まり

2021-11-02 22:25:29 | ルネッサンス
朝起きて、サンルームのドアを開けると黄蝶が入り込んでいました。

一昨日位から外に通じるドアを開けていないので、前から入っていたのか?
蛹が孵ったのか?
苺の蜜をすっていたので
ドアを開けて庭仕事をしているといつの間にか外へ出ていってしまいました。





今日の収穫。
オクラは相変わらず筋だらけですが、ピーマンはずっしり重くて身があつく、ミニトマトは甘かったです。

ジョン ダンスタブル(1390-1453年)

イングランド ベッドフォードシャー ダンスタブル生まれの作曲家です。
ノルマンディーのベッドフォード公爵ジョンに仕え、外交官、天文学者でもあったそうです。

百年戦争(1337-1453年)

ポワティエの戦い
の休戦時(1347-1355年)にフランスに滞在して和声に三度 六度下のパートをつけるフォーブルトンという方法を伝え、後にポリフォニー(複数の声部を重ねる)へと発展し、大陸のルネッサンス音楽の開始に貢献したと言われています。
と言われています。

ネウマ譜面

四角の音符。
グレゴリオ聖歌を歌う時に使われ、単旋律。

11世紀線がついて

1511年ブルゴーニュ
パート譜に別れています。
きれいですね。

装飾品のような感じ

14世紀これはパートに別れています。
この複数のパートに別れて一緒に歌うということに影響を与えたのがダンスタブルだと言われています。

ジョン ダンスタブルの
マニフィカト