音楽の喜び フルートとともに

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ネーデルランド黄金期の音楽

2024-06-08 21:00:00 | ルネッサンス
金曜日の午後は長居駅近くのヴァイオリン木村直子先生、チェロ木村政雄先生、ヴィオラ金重美代さん、フルート久米のカルテットレッスンでした。

モーツァルトのフルートカルテットADur
8月の本番に向けてだいぶしまってきました。

今日はホフマイスターのフルートとヴィオラのための二重奏も見ていただきました。
6月9日里夢での「から騒ぎ」コンサートでやるので大変です。

直子先生の適確なご指導で曲が変わっていきます。私はアウフタクトで迷っているのを見抜かれました。
意思を持ってフレーズを作っていかなくては!

練習後のケーキ調達先パティスリーボンが閉店。
ショックです。いつものケーキが買えません…貯めたポイントも無駄になるか?
政雄先生が調べてくださったら長居公園の近くにもう一軒あってそこに統合されたそうです。
しかし、駅の反対側で遠くなります。

今回は仕方ないのでバスクチーズで作った濃厚アイスケーキを買っていきました。

これはこれで美味しかったけれど、直子先生の大好きないちごショートケーキは無く、残念。
次はどうしよう?何か考えなくては!

この日は夜はフルートアンサンブル「エスカル」の大阪チームの「宝島」特別練習が本町スマイルズミュージックセンターでありました。
ああ、大変。でも、嬉しい。音楽で生活を満たしたい!

ヤン ミエンス モレナー
Jan Miense Molenaer
(1610-1668)ネーデルランド共和国ハールレムで生没。

オランダ黄金時代の 風俗画家で、その作風はオランダ黄金時代の絵画におけるヤン・ステーンの作品の先駆けとなりました。

彼は妻のユディト・レイスター


とスタジオを共有していました。
ユディトも風俗画家で、肖像画家、静物画家でした。

彼の風俗画には、メリーカンパニー(個人コレクション)

や二重唱(シアトル美術館)

や音楽を奏でる家族(フランス・ハルス美術館)
二重奏(個人蔵)

1635年頃(1630-1640年)芸術家とその家族の自画像
Family Making Music
など演奏者を描いたものが多いです。
ネーデルランドは、この頃スペインから独立、西インド会社を設立し、世界の海へ進出しています。

ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンク(Jan Pieterszoon Sweelinck,1562年4月 - 1621年10月16日 アムステルダム)デーフェンテル出身。

は、オランダの作曲家・オルガニスト。ルネサンス音楽の末期からバロック音楽の最初期において、北ドイツ・オルガン楽派の育成に寄与しました。

音楽家としても教育者としても、イタリアのフレスコバルディに匹敵する存在です。

一族の多くは音楽家で、父・息子(ディルク・ヤンスゾーン・スウェーリンク)ともにオルガニストでした。

オランダでヤン・ヴィレムスゾーン・ロシーに学んだといわれています。

ヴェネツィアの有名な音楽理論家ツァルリーノの「和声教程」に精通していたことから、ツァルリーノにも師事したとされたことがありましたが、実際には祖国を離れたことはほとんどなかったと思われます。

スウェーリンクは、ネーデルラント鍵盤楽派の発展の頂点を占めていて、実際に対位法の複雑さや洗練においてバッハ以前の鍵盤音楽を代表するひとりです。

またフランドル楽派の末裔とも見なされ、声楽曲にも熟練した作曲家であり、250曲以上の声楽曲(シャンソン、マドリガーレ、モテット、詩篇唱)を残しました。

様式的にスウェーリンクの音楽は、ヴェネツィア時代に親しんだガブリエーリ一族の作品と同じような豊かさや複雑さ、そして空間的感覚と、イングランド鍵盤楽派の作曲家と同じような装飾や堅苦しくない形式とをまとめ上げたものとなっています。

形式上の展開において、スウェーリンクの作品は、フレスコバルディをはるかに凌いで、バッハを予期しています。

スウェーリンクは即興演奏の大家で、「アムステルダムのオルフェウス」とあだ名されたほどでした。 

鍵盤楽曲は70点以上が残っています。鍵盤楽曲に比べればより保守的な書法であるにせよ、声楽曲でさえ、リズムの著しい複雑さや、対位法の技巧の比類ない豊かさが明らかです。

教師としての影響力もありました。

門人に北ドイツ・オルガン楽派の作曲家、ヤーコプ・プレトリウスやハインリヒ・シャイデマン、パウル・ジーフェルト、ザムエル・シャイトやゴットフリート・シャイトを輩出しています。

ハンブルクの主要な4つのオルガニストのポストをスウェーリンクの弟子が占めたため、ヨハン・マッテゾンはスウェーリンクを「ハンブルクのオルガニスト製造家」と称しています。

スウェーリンクの影響は国際的であった。スウェーリンクは、ジョン・ダウランドの世界的に有名な《涙のパヴァーヌ》に基づく変奏曲を作曲し、イギリスの鍵盤楽器の作曲家ジョン・ブルは、スウェーリンクの主題による変奏曲を作曲しました。

ここから、ドーヴァー海峡をまたがって、異なる楽派どうしに密接なつながりのあったことがかいま見えてきます。

スウェーリンクは、プロテスタントが主流派となったオランダにおける数少ないカトリック教徒だったと見られていますが、門下を通じてドイツのプロテスタント音楽の隆盛に基礎を与えました。 

《「わが青春は過ぎにけり」による変奏曲》は当時のドイツ民謡を主題としています。スウェーリンクがドイツを訪ねたことがないことから、その旋律はドイツ人の弟子から教わったと言われています。

「わが青春は過ぎにけり」