
夫が仕事を忘れてきたと、職場まで母と次男と私でお付き合い。
お堀には屋形船。
大きいですが、これはレプリカ。本物はもっと大きかったそうです。
散歩するだけのはずが、「せっかく来たから」と母が言い出し。
昇ってしまいました。
大学生の時以来。
中には武具や屏風絵、黄金の茶室、映像展示がありましたが、撮影できるのはレプリカだけ。


伊藤マンショとローマ教皇グレゴリオ13世の謁見
1590年任務を果たして、日本に帰国します。

道具をまとめている間に、大阪城で散歩。

お堀には屋形船。

大きいですが、これはレプリカ。本物はもっと大きかったそうです。

散歩するだけのはずが、「せっかく来たから」と母が言い出し。

昇ってしまいました。

大学生の時以来。
早稲田マンドリンクラブの面々をご案内。
天守閣から生駒山を見て、「山が見える❗」と驚いていたのが最後の記憶です。

中には武具や屏風絵、黄金の茶室、映像展示がありましたが、撮影できるのはレプリカだけ。
縁起物の寅と天守の鯱。
キンキラキン!
秀吉らしい。

天正の少年使節とは

キリシタン大名の大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代としてローマに派遣された使節
です。
です。
この絵画はグーテンベルグの活版印刷で使節の日本からの来訪をドイツのアウグスブルクで報じられたものだそうです。
印刷機を日本に持ち帰り、日本語版で出版したのでキリシタン版とも言われていたそうです。
13歳から14歳の少年で、ローマ教皇、スペイン、ポルトガルの王に日本での布教の精神的支援を求めるものだったそうです。

伊藤マンショとローマ教皇グレゴリオ13世の謁見
1590年任務を果たして、日本に帰国します。
1591年1月8日
聚楽第で豊臣秀吉の前で少年使節は、ジョスカン デ プレ(1450-1521年)

の曲を演奏します。
マンショがヴィオラ ダ ガンバ、ミゲルがチェンバロ、マルティノがハープ、ジュリアンがリュートを演奏、秀吉は3回もアンコールをするほどでした。


聚楽第、8年で秀吉によって打ち壊された。金箔の瓦、白壁の壮大美麗な建物だったとされています。
以前にも書きましたが、行って来ただけで演奏できるものか?と疑問でした。
四人はセミナリヨという、日本各地に建てられたキリシタンの教育施設で育てられました。
そこではカトリック必要なラテン語、古典、日本の古典が教えられ、音楽と体育も必須科目でした。
フルートとクラヴォ(クラヴィコード?)、オルガンを学び、グレゴリオ聖歌、多声聖歌も学びました。
フルートとクラヴォ(クラヴィコード?)、オルガンを学び、グレゴリオ聖歌、多声聖歌も学びました。
ピクニックもあり、文化祭では劇や歌が披露されました。
九州のキリシタン大名の名代なので、おそらく九州南島原市のセミナリヨで教育を受けていたのではないかと思われます。
1587年バテレン追放令が出て、帰国を赦されるも、
1614年徳川家康による禁教令が出て、
伊藤マンショは1612年病死。
千々石ミゲルは棄教。
中浦ジュリアンは1633年穴吊るしの刑で殉教。
原マルチノはマカオに追放されそこで亡くなりました。
ジョスカン デ プレ
うちのチット、「天正遣欧使節」が好きで、ヨーロッパ旅行のさいは彼らがおとずれた場所にかならず行っていました☆
秀吉は帰国後の4人をゆるさなかったのかな?なんて記おくちがいしていましたが、4人がたいへんな目にあったのは徳川の時代になってからだったのですね!かわいそう・・
いつも温かいリアクション
ありがとうございます😊
大阪城〜高校の時、修学旅行で。
初めてのお城見物に感激した事を
思い出して居ます。
1月5日にツルツル雪道でスッテーン(;_;)
腰椎の圧迫骨折〜痛み止めとコルセット装着。
元気で動ける事の幸せを感じます。
今日もどうぞお元気でご活躍を(^-^)
天正の少年使節の足跡を訪ねるなんて素敵ですね。
秀吉も布教強制の禁止などやっていたみたいですが、まだ限定的だったみたいです。
本格的な禁教令は1612年徳川家康になってからのようですね。
クリンさんの本や映画、お菓子の紹介楽しみにしています。
チットさんにもよろしくお伝えくださいませ😉👍
修学旅行で来られたのですね。
改装されてずいぶん変わっていましたよ。
コルセットで少しは楽になられたのですね。まだお大事になさってくださいね。
椅子にも絵手紙、驚きました。
素晴らしいですね。
天正遣欧使節の四人は同じような顔していますが、
日本人はそういうふうに見えたんでしょうかね。
千々石ミゲルはお隣の千々石町の出身と言われています。
今年もよろしくお願いします。
同じ顔…そうかも🤣
千々石町!そうなのですね。
厳しい時代でしたね。
消毒作業お疲れ様でした。
こういうご努力があって美味しい作物が頂けるのですね。