音楽の喜び フルートとともに

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クラリネット祭り

2025-03-17 08:55:00 | 近代
土曜日に行ったドルチェ楽器さんの3階に行ったらクラリネットフェアーでした。

アウェー感満載でしたが、「古い木管とかありますか?円錐管があればうれしいですが」
と聞いたら

ハンミッヒの木管出してくれました。
円錐管では無く円筒管。
そう古くはなく1980年頃。

木管のまろやかな音。
レスポンスも悪くありません。
E♭とEあたりを鳴らすのは少し工夫が要ります。
うっかり買いそうになりました。
予算不足で買えませんが…。
この管体はグラナディラ(アフリカン・ブラックウッド)で大体のクラリネットと同じ素材です。

クラリネットは、ドイツ・ニュルンベルクのヨハン・クリストフ・デンナー(1655ライプツィヒ - 1707年ニュルンベルク)

が、1700年頃にシャリュモー(仏: chalumeau)を改造して製作したのが始まりです。

シャリュモーはフランスの古楽器で、シングルリードの円筒形木管楽器で、18世紀の後半頃までオーケストラに使用されていたといわれています。

Klenig製作のシャリュモー(ストックホルム、1700年代初め) ※リードが付いていない状態
管体の太さはほぼ一定(円筒形)で、閉管なので、同じ長さの開管楽器よりも最低音が1オクターヴ低い。偶数倍音がほとんど発生しないので、音波の波形は矩形に近く、独特の音色をもっています。

本体は大きく4つに分割することができ、吹口の側からマウスピース、バレル(俵管)、管体、ベルと呼びます。


マウスピースには、リードがリガチャーによって固定されています。

単にクラリネットと言った場合はソプラノ・クラリネットを指し、変ロ調(B♭)管とイ調管(A)

向かって左がA管、右がB♭管です。
が一般的です。
両者は吹口の部分が共通なので、この部分だけを差し替えることもできるそうです。

ソプラノ・クラリネット以上の大きさのものでは、管体をさらに上部管(上管)と下部管(下管)に分割できるものが多いです。



クラリネットには同属楽器が多く、クラリネット属と総称する。音域を変えるために管の長さを変えたものであり、運指などはほとんど同じです。

1. Ab ソプラニーノ・クラリネット
2. Eb ソプラニーノ・クラリネット
3. D ソプラニーノ・クラリネット
4. C ソプラノ・クラリネット
5. Bb ソプラノ・クラリネット
6. A ソプラノ・クラリネット

7. Eb アルト・クラリネット
8. F バセット・ホルン
9. Bb バス・クラリネット
10. Eb コントラルト・クラリネット
11. Bb コントラバス・クラリネット

ハ調のソプラノ・クラリネット
以外は、移調楽器として扱われます。

同属の中のバセット・ホルン

は1770年頃にバイエルンのマイヤーホーファー (Mayerhofer) によって作られ、

バス・クラリネット

などの低い音域のクラリネットの原型は1838年頃にベルギーのアドルフ・サックス(Antoine Joseph Adolphe Sax, 1814- 1894年)

によって作られました。

ウージェニー ボザ(Eugène Joseph Bozza, 1905- 1991年)フランス ニース生まれ、フランス ヴァランシエンヌ没


ボザはニースにイタリア人とフランス人の両親の間に生まれ、幼少期からヴァイオリンを学んだ後、パリ音楽院でアンリ・ビュッセル、ジャック・イベールらに師事、作曲・指揮およびヴァイオリンを学びました。

彼の作品には5つの交響曲、オペラ「レオニーダス Leonidas」(1947年)、バレエ「海原の戯れ Jeux de plage」(1950年)、および多数の管楽アンサンブル曲があります。

1934年には、カンタータ「ルクマニの伝説 La légende de Roukmāni」でローマ大賞を受賞しました。

1939年にはパリ・オペラ=コミック座の指揮者をつとめ、1951年から引退する1975年までヴァランシエンヌにある国立音楽学校で校長を務めました。

1956年レジオン・ドヌール勲章受章。1991年にヴァランシエンヌで逝去。

楽譜出版社はほとんどがAlphonse Leduc社。一部Max Eschig社、Peters社などから出版されています。

ボザ作曲 クラリネット四重奏「ソナチネ」


工藤重典マスタークラス

2025-03-16 20:56:00 | レクチャー、マスタークラス
数日前、ドルチェ楽器さんからメッセンジャーで工藤重典先生のマスタークラス受けませんか?
と連絡いただき、土曜日午後から行ってきました。
ウォーミングアップの部屋が無く、仕方なく
14:00からなので部屋の前に待機して前の方が出てくるのを待っていたら、なかなかででこられません。
あれ?
14:00過ぎた。
と思って恐る恐るノックしてみたら、工藤先生先生お一人でニコニコ迎えて下さいました。
「どの曲をされますか?」
「タファネルのフランツェスカ ダ リミニを」
とスコアをお渡ししました。
花粉症で絶不調。
いきなり全曲通しました。
吹いた後にこやかに
「なかなかいいですよ!何か困っていること吹いてて辛くなるところとかありますか?」
と言われるので
「音量が出ないので…。」
「曲を聞いた感じではそんなことありませんよ。」
「オーケストラで」
「何を吹かれたの?」
「第九を」
「第九を全部の楽章?!すごいですね。」
「1stにしては音が小さいと言われました。」
「音は充分出ています。それより惹きつける音、大きく吹こうとすると音を潰してしまうので、吹きすぎないで、もっと強弱をつけるといいかもしれませんね。時に低音のビブラート。」
ということで見て頂きました。

初めの歌の部分はPから初めて息を吹きすぎないで、低音にもビブラートをかけてゆっくりクレッシェンドしてディミュニエンド。
だいだいの場合、クレッシェンドの場合Pで始めましょう。ディミュニエンドの場合はFで始めましょう。

速いパッセージはゆっくりテンポをとりながら練習しましょう。そうすると細かい違いがわかって自分で訂正できるので

付点の後の16分音符と8分音符はtu duと速く取りましょう。
tuでは遅くなります。
はっきりさせようとすると余計に遅くなるので、そんなに吹き込まない方がはまりやすくなります。
とにかくにこやかで穏やかな話し方をされる先生で、すっかりファンになってしまいました。

工藤重典先生
北海道札幌市西区生まれ。10歳のとき札幌交響楽団首席フルート奏者佐々木伸浩に出会い、レッスンを受ける。

北海道札幌月寒高等学校卒業後、桐朋学園大学ディプロマコースに進み、峰岸壮一に師事。

1975年、卒業を待たずにフランスへ留学(桐朋は中退)しパリ音楽院のランパルのクラスで学んだ。

1979年1月、フランスのリール国立管弦楽団(フランス語版)に入団し、首席フルート奏者となる。
1979年パリ音楽院修了。
1987年にリール国立管弦楽団を退団し、活動の比重をソロへ移すと共に、パリのエコール・ノルマル音楽院教授となる。

2004年までに、リサイタルを中心に40カ国180以上の都市で演奏した。オーケストラとの共演もNHK交響楽団をはじめ国内ほとんどの団体、および海外の30を越える主要な団体と行っている。CDの録音はソニー・クラシカル、ビクターエンタテインメントなどのレーベルで60種類以上があり、「ランパル&工藤重典/夢の共演」は1988年度文化庁芸術作品賞を受賞した。1997年、NHK教育テレビフルート講座「趣味悠々」の講師を務めた。

1983年からジャン=ピエール・ランパル国際フルートコンクール審査員。1987年から2009年までサイトウ・キネン・オーケストラ首席フルート奏者、1990年から水戸室内管弦楽団首席フルート奏者を務めている。

2013年3月、オーケストラ・アンサンブル金沢の特任首席奏者に就任。 KAJIMOTOより

エドアルド グリーグ
(1843- 1907年)スウェーデン ノルウェー ベルゲン生まれ、スウェーデン ベルゲン没

「朝」(Morgenstemning i ørkenen、直訳すると 「砂漠の朝の気分」)は、『ペール・ギュント』作品23の一部で、ヘンリック・イプセン(1828−1906年)

の戯曲「ペール・ギュント」
イプセンがペール・ギュントの原作とした民話の主人公、ペル・ギュント
の付随音楽として1875年に書かれました。

また『ペール・ギュント』組曲第1番作品46の4楽章のうちの第1楽章としても作曲されました。

この作品はイプセンの戯曲第4幕第4場における日の出を描いています。

この場面では、ペール・ギュントが仲間にヨットを奪われ、眠っている間にモロッコの砂漠に置き去りにされます。

この場面は次のような描写で始まっています。

「夜明け。アカシアとヤシの木。ペール(ギュント)は木の上で座り、もぎ取った枝を使って猿の群れから身を守っている。」

工藤重典先生の演奏で「朝」楽劇「ペール・ギュント」より



マトリョーシカ実は日本と関係あり

2025-03-15 21:00:00 | 国民楽派
何年か前に作ったマトリューシカ雛。
フェルトでチクチク刺しました。
今日も家にいます。

裏庭のパンジーも

暖かくなって伸び〜っとしています。
この前中国出張の時のお土産

なぜかロシアのお菓子。
長い国境を接しているからかなあ。

1800年代末期、E.G.サポジニコワ=マモントワ

が日本から「七福神」を 描いた入れ子人形

どれのことかわかりませんでしたがこんな感じ?
を持ち帰り、それがロシアの職人 にインスピレーションを与え、マトリョーシカ人形が発明されたました。

最初の人形は、1890年にV. P. ズヴェズドチキンとS. V. マリューチンによって作られ、「マトリョーナ」と呼ばれ、刺繍のシャツ、サラファン、エプロンを着て、色とりどりのスカーフを巻き、手に黒い雄鶏を持っている丸い顔の農民の少女で8人の入れ子でした。

黒い雄鶏を連れた少女の後に少年が続き、その後に再び少女が続きました。
人形はすべてそれぞれ異なっており、最後の8番目の人形には布で包まれた赤ちゃんが描かれていました。

1890年に玩具や土産物として大量生産が始まりました。

1900年、マトリョーシカはパリの国際手工芸品博覧会で初めて発表され、メダルを受賞しました。

が、同年始まった経済危機(1900−1903年)の状況下で、「児童教育」ワークショップは閉鎖され、その全品揃えはセルギエフ・ポサード市のゼムストヴォ教育・実演ワークショップに移されました。

その結果、木彫りが発達し、玩具職人の家族が住んでいたセルギエフ・ポサードがマトリョーシカ生産の中心地となりました。

1904年にパリからマトリョーシカ人形の大量注文があり、後に他国への輸出も始まりました。

1916年にロシアを訪れた日本の芸術家で教師の山本鼎
は、レフ・トルストイ


が設立した村の子供たちのための学校を訪問しました。
彼はロシアからロシアの玩具を持ち出し、長野県北部に産業を組織し、そこで「純日本製」の玩具を生産し販売し始めました。

1909年、N.V.ゴーゴリ

生誕100周年を記念して、『監察官』と『タラス・ブーリバ』の登場人物を描いたマトリョーシカ人形が制作されました。

1917年の革命以前、マトリョーシカ人形は「マトリョーナ」または「マトリョーシカ」と呼ばれていました。

この名前は最も一般的な女性の名前の 1 つであり、健康でふくよかな体型をした大家族の母親に関連付けられていました。

レオシュ・ヤナーチェク( Leoš Janáček 1854 - 1928年)オーストリア帝国モラヴィア生まれ、チェコスロバキア キアオストロヴァ没

1914年
は歌劇「タラス・ブーリバ」を書いていますが、1910年チェロとピアノのための「おとぎ話」を書いています。
1912年、1923年に改訂され1924年にフデブニー・マティス・ウメレツケー・ベセディ社から出版されました。

1924年版チェロ譜
ヴァシーリー・ジュコーフスキー(1783年 - 1852年)
1820年
の詩『皇帝ベレンデイの物語』
に基づいて作曲され、皇太子イワン(ロシア民話に登場する英雄)

が、許嫁である冥府の王女マリヤのもとに行って、結ばれるまでを題材としています。

明確なストーリーの筋には基づかなく、愛の雰囲気に満ちています。






みんな大好きキャベツとカブ

2025-03-14 21:00:00 | バロック
裏庭に植えた葉牡丹。
アブラナ科アブラナ属
ケール、キャベツの結球しない品種だそうです。

ケールの鎌倉時代中期または江戸時代前期に渡来しました。

現在見られるハボタンは、園芸ブームに沸いた、草本植物の斑入りなど葉変わりが珍重された江戸中期以降と見られています。

縁起のよい紅白二色が好まれたそうです。

当時、博物学者の山岡恭安による『本草正正譌』(1778年)

で牡丹菜、葉牡丹と記載されているのが文献上の初見とみられ、古典園芸植物(日本で育種、改良され、独自の発展を遂げた園芸植物)とも言われています。

明治以降は冬の園芸植物として広まる一方で海外に紹介され、戦後はさらに品種も増え、現在では世界各地で栽培されています。

食べられるそうですが、キャベツに比べて味が落ちるのと、園芸品種にするために農薬を使っている場合があるのでお勧めはしないそう。

菜の花のような花は咲きますが、観賞する人は少ないそうです。

クオドリベット(Quod libet)
ラテン語でQuod何でも libet喜ばせるという意味で
「好きなものをなんでも繋ぎ合わせた」
ヴォルフガング・シュメルツル(1505年頃 - 1564年)が1544年当時よく知られた曲、民謡を繋ぎ合わせた曲にこの名を使いました。
1618年には、クォドリベットの厳密な定義が発表されました。

ミカエル・プレトリウスは、クォドリベットを「宗教曲と世俗曲から引用した多様な要素の混合」と表現しました。

その頃流行っていたドイツ民謡「キャベツとカブ」という歌があります。

「お母さんが苦手なキャベツとかぶを使って料理したから今日は家に居場所がない」とか言う歌詞で地域によっていろいろあったそうです。

これを使った有名な曲にはJSバッハのゴールドベルク変奏曲最後の(30番目の)変奏曲はクォドリベットです。
そのことは以前書いたので、今回は別の人。

ジローラモ フレスコバルディ(1583-1643年)
フェラーラ公国フェラーラ生まれ、教皇領ローマ没

フェラーラで、有名な作曲家でオルガニストのルッツァスコ・ルッツァスキに学びます。

庇護者エンツォ・ベンティヴォーリョの援助で、1607年春に、ローマのサンタ・マリア・イン・トラステヴェーレ教会のオルガニストの座を射止めます。

同年、フランドルのローマ教皇庁大使に任命されたベンティヴォーリョに同伴してブリュッセルに旅行します。

1608年にローマに戻ってサン・ピエトロ大聖堂

サン・ピエトロ大聖堂を描いたヴィヴィアーノ・コダッツィによる1630年の絵画。《フィオーリ・ムジカーリ》を出版した時期のフレスコバルディが奉職していた

のオルガニストに就任しました。

1628年から1634年までフィレンツェのメディチ家宮廷オルガニストも務めます。

1685年出版されたオルガン曲集「音楽の花束」Fiori musicali

初版表紙
3曲のオルガン・ミサ曲と2曲の世俗的な奇想曲が収録されています。

フレスコバルディの最も偉大な作品と認められています。
少なくとも後代2世紀にわたって影響を及ぼしました。
中でもヨハン・ゼバスティアン・バッハは崇拝者の一人であり、ヨハン・ヨーゼフ・フックスは、影響力のきわめて高い理論書である名著『グラドゥス・アド・パルナッスム』(1725年)の中で取り上げ、これは19世紀になっても教材として活用されていました。

「音楽の花束」を作曲した頃ははローマ教皇ウルバヌス8世(1568 - 1644年)

とその甥フランチェスコ・バルベリーニ枢機卿の庇護の下、ローマのサン・ピエトロ大聖堂のオルガニストとして活動中でした。

そのためサン・マルコ寺院

のためか、または単に重要な教会のための音楽として構想されたのではないかと言われています。

この曲集の最後の曲が「キャベツとカブ」をテーマに変奏されています。

まずバロックから続くドイツ民謡「キャベツとカブ」
フレスコバルディ「音楽の花束」ベルガマスカ





49年の封印

2025-03-13 21:00:00 | ロマン派
月曜日に行った京都出町柳商店街の映画館「出町座」
並びには
昔の映画のパンフレットや、LP版レコードを売っているお店があり、
懐かしい絵本を売っている古本屋さんがありました。

もはや何を売っているのか、よくわからないお店も…。
ここはゆっくり時が過ぎているような気がします。

ジュゼッペ ヴェルディ(1813 - 1901年)フランス第一帝政ブッセート レ・ロンコレ生まれ、
イタリア ミラノ没

ヴェルディの肖像、モレンティーニ作、1839 ~ 1840 年

初めて書いた歌劇「オベルト伯爵」が成功し、ミラノ スカラ座の興行主メレッリの依頼され、27歳1840年に、喜歌劇「1日だけの王様」または偽のスタニスラオ
を書きました。

しかし、この興行は大失敗。
批評家からも散々な酷評でした。
ヴェルディは以来喜歌劇を封印。

次作1889年喜歌劇「ファルスタッフ」を書くまで49年かかりました。

こちらの方は、チケットは通常の30倍の価格にも関わらずヨーロッパ中から王侯貴族たち、芸術界の重鎮が集まり大盛況。
カーテンコールは1時間続いたそうです。

「1日だけの王様」のために集められたオペラ歌手に喜歌劇の経験がなかったことが失敗の原因にあげられています。

また、イタリアはオーストリアに支配され、人々の不満が渦巻き、リソルジメント(イタリア独立運動)の気運が高まっていた時代の空気に合わなかったこともあるかと思われます。

個人的な理由として、ヴェルディの2人の子供と妻マルゲリータ・バレッツィ

が、それぞれ1838年、1839年、1840年と、この作品の作曲前と作曲中に亡くなったことが大きいでしょう。

この後シリアスな悲劇の歌劇の傑作の数々を生み出しますが、この失敗が無ければ、成功も無かったかもしれません。

喜歌劇「1日だけの王様」

オペラの台本作家、フェリーチェ・ロマーニ

ポーランド王スタニスワフ・レシュチンスキ王

は継承戦争の歴史上の人物で、 1709年のポルタヴァの戦いでザクセン人の侵攻を受け、王位を失います。
1733年に王位を回復しましたが、1736年に再び廃位され、フランスに亡命しました。

このオペラは、スタニスワフがフランスから王位回復のために帰国する時にベルフィオーレ騎士をフランスで自分の身代わりに立て、ポーランドに戻るまでの1733年が舞台です。
ちなみにスタニスワフ王は登場しません。

2組の結婚パーティがあげられる予定。
1組は男爵の娘ジュリエッタと、町の財務官のラ・ロッカ氏。

もう1組の結婚は、男爵の姪であるポッジョ侯爵夫人とよそから来る伯爵です。

しかし、実はジュリエッタは財務官の甥エドアルドとポッジョ夫人はベルフィオーレと愛し合っています。

男爵と、婿になる財務官は喜び合っています。

「やあ、婿どの、よろしくね!」

そこへ、ポーランド国王が到着したと告げられます。

ポーランド王(ベルフィオーレ)は、今日の結婚パーティーにお客様として呼ばれています。

やってきたベルフィオーレは、男爵に

「今日は誰と誰が結婚するのかな?」

と尋ねたところ、私の娘とこの財務官、ポッジョ夫人と…、とこの名を聞いて驚くベルフィオーレ。

ベルフィオーレは1人になり、ポーランドにそろそろ着くであろうという本物の国王・スタニスラオに急いで手紙を書きます。

「親愛なる王よ、私の役目を解いてください、でないと私は恋人を失ってしまいます!」

そこへ、エドアルドが登場します。
彼は彼で財務官の甥なんですけれども、ジュリエッタと相思相愛なのに、伯父にそのジュリエッタを取られてしまうので、
エドアルド、絶望して、

ニセ王に
「僕をポーランドに連れて行ってください」
と願います。

彼らが去ったところへ、ポッジョ夫人が入ってきます。

彼女はにせの国王を見て、あれはどうやら、ベルフィオーレじゃないかと見破ったようです。ところが以前ベルフィオーレは王から密命を受けたので、突然彼女の前から姿を消しました。

「裏切られた」と思い、伯爵との結婚を進めてベルフィオーレがどう出るか、試すことにします。

第1幕 屋敷の庭。
ジュリエッタが悲しそうにしています。

そこへ男爵と財務官が来て、沈んでいるジュリエッタに声をかけます。ほどなくそこに、にせ王ベルフィオーレがエドアルドを連れて登場します。にせ王は、男爵と財務官に

「君たち、こっちでちょっと、政治的軍事的な話をしよう、その間エドアルド、お前はこちらのお嬢さんのお相手をしていなさい」

若い二人を二人きりにしてやろうという配慮です。

仲が良さそうな二人を見て、財務官は気が気でありません。かといって、国王の話をさえぎるわけにはいかない。

「あいつら近すぎる!離れろ!」

「おやおや財務官、君、話に集中していないね」

「いえいえ、そのようなことは」

こうやって話しているところへポッジョ夫人がやってきます。

焦るベルフィオーレ。男爵たちはベルフィオーレを、こちらポーランド王です、と紹介します。

ポッジョ夫人は、その正体に気づきつつも、空気を読んでその場では型どおり挨拶します。   

にせ王と男爵、財務官は別の場所へ。若いカップル2人が侯爵夫人に助けを求めます。
ポッジョ夫人は若い二人に協力することを約束します。

にせ王ベルフィオーレは、財務官に、

「君はやっぱりとても優秀だから、ジュリエッタとの結婚をやめてくれれば、ポーランド王女と結婚させて、君を大臣にしてあげよう」

財務官はまんまと喜び、承諾します。

にせ王がいったんその場を去ったところへ、男爵が登場します。

財務官は、
「ポーランド王から大臣の位と王女とのご縁談をいただいたので、この婚約は破棄します」
と言うので当然男爵は激怒。

「ふざけるな!貴様!決闘だ!」

暴れる男爵、うろたえる財務官。みんなが駆けよってきます。

ジュリエッタは喜びます。ポッジョ夫人も、

「それだったら、この若い男エドアルドと結婚させちゃえば?」
と言いますが、男爵は
「いや、だめだ!」とまた暴れています。

そこへにせ王が現れて、その場をとりなします。みんながにせ王に何とかしてください、と口々に願うフィナーレとなって、第1幕終了です。

第2幕。
屋敷では、召使いたちが、どうやら今夜の結婚式はなくなるんじゃないかと噂しています。
そこへエドアルドが現れ、
一筋の希望が見えている、と歌います。

一方、にせ王ベルフィオーレはジュリエッタに、「父親である男爵がなぜエドアルドとの結婚に反対するのか、」と聞くと、彼女は「男爵が貧しいのでエドアルドは金が無いから」と言います。

そこで偽王、財務官に
「君の財産とお城の、たくさんあるうちの一つを、君の甥であるエドアルドに譲りなさい」
と命令します。

財務官1人になったところへ、また男爵がやって来ます。
まだ怒っているようです。いろいろ言い争った挙句、決闘になりかけて、逃げる財務官、追う男爵。

さてポッジョ夫人、偽王に

「私を捨てて去っていった、とある騎士を私は許しません」

「(彼女、俺がベルフィオーレだって、気づいてるよな)いやいや、その騎士を許してやったらどうかね」

お互い、相手がどうやらとぼけているようだと悟りながらも、腹を探り合っています。

そこへ男爵が、「ポッジョ夫のお相手の伯爵が間もなく到着する。」と告げます。

夫人はベルフィオーレへの当てつけに、予定通り結婚する素振りを見せます。

にせ王ベルフィオーレは、
「あの、例の騎士のことは、どうするんだね?」

「私をその騎士が愛しているなら、ここに現れて止めるでしょうけどね」

困ったベルフィオーレ。

「(どうすりゃいいんだ!任務は破れない!)」

一方、エドアルドとの結婚が上手くいきそうで嬉しそうなジュリエッタ。そこへエドアルドが駆け込んできて、「そろそろ出発するポーランド王に、ついていかなくてはならない。」と告げます。

驚くジュリエッタ。

「私も一緒に行くわ、王にお願いする!」と宣言して、にせ王のもとに2人で向かいます。

一方ポッジョ夫人は
「1時間以内にベルフィオーレがここに現れなければ、この伯爵と結婚します」と宣言します

ベルフィオーレは、いよいよ焦ります。が、そこへ、本物のポーランド王から手紙が届き、

「自分は無事にポーランドのワルシャワに到着した、ベルフィオーレ、お前の役目を解いてあげよう」

との知らせが来ました。

ようやくにせ王は、自分を騎士ベルフィオーレだと名乗り、喜ぶポッジョ夫人。

それを聞いて、男爵や財務官はだまされた!とようやく騙されたと気づきますが時すでに遅し。

ポッジョ夫人とベルフィオーレ、エドアルドとジュリエッタの2組の結婚が成立し、みんなに祝福されたのでした。

長く忘れられていましたが、最近は何度か再演されています。
序曲「1日だけの王様」



暁の星

2025-03-12 21:00:00 | バロック
第2火曜日午前中は子育てサロン「ぽっぼくらぶ」当日でした。
申込不要、無料

インスタグラムでお知らせしているせいか、最近内容を知って来てくれている人が多いような気がします。
前日と違って冷たい雨模様で「一生懸命、準備した時に限って、こうなんだよね。」と言っていたら、雨にも関わらず、たくさんの親子連れが来てくれました。
お名前を呼んだり、ぽっぼくらぶの歌を振り付きで踊って、触れ合い遊び。
これが大事です。 
しっかりお母さんと遊んだという意識があれば、割と母子分離うまくいきます。
今回も少し泣いた子もいますが、しっかりお母さんから離れて遊んでくれました。

さて、お母さんたちは、両面テープを剥がして、枠と、洗濯バサミ、画鋲の他はおまかせ。
好きなところに貼ってもらいます。





素敵にできたでしょう?
この洗濯バサミに朝一番に撮った親子写真を挟んで持ち帰ってもらいます。
子どもたちはスタッフが見ています。
子どもたちはおもちゃとお母さんの間を行ったり来たり、滑り台に群がったり、中には割れ関せずで自分の遊びに集中している子もいます。
みんなが喜んでいる顔を見られてよかった!
今回は年度末なのでお弁当を食べながら会議をしました。

竹皮弁当780円。
ごちそう様でした。
原材料費高騰のため、来年の3月手づくりは違う物を考えます。
暁の星はいと美しきかな

ヨハン セバスチャン バッハ(1685−1750年)神聖ローマ帝国ザクセン=アイゼナハ アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没


カンタータ「暁の星はいと美しきかな」は、BWV1。

第1番になっていますが、作曲されたのは1724年で、バッハが聖トーマス教会

の楽長に就任して2年後に当たり、この歳を前後して後期のカンタータが多数作曲しています。

最初の妻となる遠戚でひとつ歳上のマリア・バルバラが1720年7月に亡くなります。

彼女との間に7人の子どもがいたバッハは、
1721年、宮廷ソプラノ歌手16歳年下のアンナ・マクダレーナ・ヴィルケ(1701−1760年)

と再婚しました。
アンナ・マクダレーナとの間に生まれた13人の子どものうち、多くは幼いうちに世を去っていますが、彼女はバッハとマリア バルバラの子を含め10人の子どもを育てています。

1722年6月5日に、トマス・カントル、ヨハン・クーナウ(1660-1722年)

が死去し、後任の募集が行われました。

まず、候補として挙がった人物が、市民の人気を博し知名度も高かったゲオルグ フィリップ テレマン(1681-1767年)


1745年テレマン
でしたが、彼はラテン語を教えることを拒み、かつハンブルクでの昇給が約束されたため、辞退しました。

バッハの名は同年12月21日に市参事会の議事録に登場しますが、この時点で既に8人の名が挙げられていました。

トーマス教会のロマン派オルガン

その次に、候補として挙がった人物が、ダルムシュタットの宮廷学長クリストフ・グラウプナー(1683-1760年)で、1723年1月17日に2曲のカンタータを上演し大成功を収めましたが、その時の主君ヘッセン公が解雇を拒否し昇給をして彼を引き留めたため、同年3月23日に彼も辞退しました。

その次に、バッハとその他に、メンゼブルクの宮廷オルガニスト、ゲオルク・フリードリヒ・カウフマンと、ライプツィヒの新教会オルガニスト、ゲオルク・バルタザル・ショットの3人の候補が挙がるが、3人とも学科の授業に難色を示し、4月9日の議事録には「最良の人が得られなければ、中くらいのものでも採用しなければならない」という意見も上がっています。

市長ランゲは4月22日の正式な選抜会議にて、2月7日に行われたバッハのクラヴィーア演奏を称賛していますが、バッハが採用された最大の理由は教理問答とラテン文法の授業を担当することに同意した点でした。


「暁の星はいと美しきかな」はこのタイトルからも分かるように、聖母マリアの受胎告知の祭日に演奏されたカンタータです。

フランシスコ・ゴヤ Francisco José de Goya y Lucientes『受胎告知』個人蔵 1785年
実はルター派は偶像崇拝を嫌うため絵画あまり残されていません。
バッハのカンタータはルター派の教会の行事のため作られた実用的な音楽です。

ドイツ・プロテスタント音楽に受け継がれた伝統に忠実に従っていて、素朴な音楽です。

オペラでは最も華やかなアリアは、バッハのカンタータでは、切々と歌う敬虔そのものの音楽に変身しています。

オーケストラも合唱も、当時のバロックスタイルから見ると地味です。
その地味さの中に宗教性が秘められています。

バッハのカンタータは約200曲ありますが、そのどれもが個性をもち渋い輝きをもっています。


シューベルト失恋の悼み

2025-03-11 21:00:00 | ロマン派
月曜日午後は京都今出川大宮の富久田治彦先生のレッスン。

いいお天気で鴨川も遊んでいる人がちらほら。

ライヒャルトのエデュードの3番を先生と吹きました。
「指はまわるけど、ゆっくり息を吹き込んで次の音を作る。
声楽家が歌うのにそう簡単に音は取れないでしょう。歌を歌うつもりでしっかり音を吹き込んで!」

後は。タファネルの「フランチェスカ ダ リミニ幻想曲」を見て頂きました。

姿勢、音程が特に低音で低くなりすぎ無いように、フレージングを考えてブレスをとるように。

帰りに出町柳商店街

でランチ食べて帰りました。

久しぶりの銀鮭定食。
煮卵が絶品。
銀鮭も上手く焼いています。
お味噌汁は野菜たっぷりで美味しかった。

おっきなかぶら!
近江かぶら159円、キャベツ299円よりコスパいい?
楽器があるので重くて買えなかったけど…。欲しかった.
食い意地はり過ぎ😅💦

フランツ ペーター シューベルト Franz Peter Schubert (1797-1828)
神聖ローマ帝国オーストリア大公国リヒテンタール生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

1814-1815年のシューベルト
レオポルト・クーペルヴィーザー(1796 - 1862)による16歳のフランツ・シューベルトの肖像画
1820年作曲されたのが「春への信仰」D.686です。

シューベルト23歳の9月。
その2ヵ月後の11月に、初恋の人、テレーゼ・グロープ

がいよいよ結婚することになりました。
とても結婚できるような経済状態になかったシューベルトは、彼女との結婚を諦めています。

詩はヨハン ルートヴィヒ ウーラントJohann Ludwig Uhland (1787-1862)
ドイツの中世の文学や民謡を研究する文献学者で詩人です。
後に自由主義的ドイツの実現を掲げ代議員にもなっていますが、その夢は挫折しています。

Frühlingsglaube, D686
春への信仰
穏やかな風が目を覚まし、
昼夜を問わず、そよぎ、息づいている。

それはいたるところで活動している。
おお新鮮な香り、おお新しい響き!
さあ、あわれな心よ、心配するな!
今やすべてのことが変わるにちがいない。

世の中は日ごとに美しくなっていく。
さらにどうなりたがっているのか誰も知らない。
花は咲くことをやめようとしない。
最も遠く深い谷まで花が咲いている。
さあ、あわれな心よ、苦しみを忘れるのだ!
今やすべてのことが変わるにちがいない。


バロック大研究組曲「鳥」

2025-03-10 21:00:00 | 近代
土曜日に行った山田池公園の梅林は野鳥がいろいろいました。

日本にいるキツツキ属の内で1番小さなコゲラ。
小啄木鳥 “Japanese Pygmy Woodpecker”
見えるかな?
香里園にいるときは時々見ましたが、大きな木がない牧野では数年全く見ませんでした。
ここで会えてうれしかったです。

それから四十雀(シジュウカラ)は、集団でちょこちょこ移動していました。

ジョウビタキのメス。地味😅

この集団は?

川鵜でした。

これは見にくい!
土管の上に枚方市の鳥。
カワセミさんでした。

おっと!増殖中のヌートリアさんもいました。

オットリーノ・レスピーギ(Ottorino Respighi, 1879 – 1936年)イタリア王国ボローニャ生まれ、イタリア王国ローマ没

1927年に組曲「鳥」を作曲しました。
初演は1927年6月、サンパウロの市立劇場で、作曲者指揮シカゴ交響楽団により行われました。
翌1928年にフリッツ・ライナー指揮、シンシナティ交響楽団により2度目の演奏が行われました。
作曲と言っても、バロック時代の曲の編曲で、レスピーギの古典音楽に対する尊敬と理解が伝わってきます。

組曲「鳥」
1.前奏曲
アレグロ・モデラート、イ長調、4/4拍子。
ベルナルド・パスクィーニ(パスキーニ)(1637-1710年)が原曲と言われていますが見つけられませんでした。情報求めます。

2.鳩
アンダンテ・エスプレッシーヴォ、嬰ヘ短調、3/4拍子。
ジャック・ガロ(1625-1695年)
のクラブサン曲

によります。

3.牝鶏
アレグロ・ヴィヴァーチェ、イ短調、3/4拍子。
ジャン=フィリップ・ラモー(1683-1764年)

の新クラヴサン組曲集 第2番(第5組曲)『めんどり』によります。原曲はこれ。


4.夜鶯
アンダンテ・モッソ、ハ長調、3/4拍子。
原曲の作曲者不詳。17世紀のヴァージナル(チェンバロの一種)
フランドルのヨハネス・クーシェのミュゼラー型ヴァージナル(1650年)
のための楽曲によります。

5.郭公
アレグロ、イ長調、4/4拍子。
ベルナルド・パスクィーニ(パスキーニ)(1637-1710年)

のピアノ曲『かっこうの鳴き声をもつトッカータ』(Toccata collo schertzo cuccu )によります。

レスピーギ組曲「鳥」


ここに春が来た!

2025-03-09 21:00:00 | ルネッサンス
土曜日の午後、近所の山田池公園に行ってきました。
ここは1500年前に作られた山田池を中心に1979年に整備された300本の梅林があります。
「そろそろ、見頃じゃない?」
小雨混じりですが…。

咲いてる!!

かわいい! 
梅一輪 一輪ほどのあたたかさ
        服部嵐雪

いろいろな種類の梅が。

咲いてて

素敵でした。

フランチェスコ・ランディーニ(Francesco Landini)1322-1397年イタリア フィレンツェ生没

ミニチュアのオルガンを演奏する
フランチェスコ・ランディーニ
(15世紀のスクアルチャルーピ写本より)

ランディーニの生涯の詳しいことは判明していません

父親はジョット派の著名な画家ヤコポ・デル・カセンティーノ(1297-1358年)


でした。

子どもの頃、天然痘にかかって失明したことで、ランディーニは早くから音楽に打ち込むようになり、リュートなど多数の楽器演奏、歌、詩作、作曲を習得しました。

ランディーニがリュートとプサルタリーPsaltery


を結合させた「syrena syrenarum」という楽器(バンドゥーラ (Bandura)


の先駆と考えられている)などを発明したという記述が残っています。

1360年代の数年間ヴェネツィアに滞在していたキプロス王から月桂冠を授けられたという記述があります。

ランディーニは1370年以前に何度か北イタリアで過ごしていたとされています。

音楽のいくつかがその証拠で、たとえば、モテットは1368年から1382年までヴェネツィアのドージェ(国家元首)を勤めたアンドレア・コンタリーニ(1300-1382年)


に献呈されています。

さらに、ランディーニの作品のことが北イタリアの文献によく出てきます。

1361年、ランディーニはフィレンツェのサンタ・トリニタ修道院のオルガニストに雇われました。

1365年以降はサン・ロレンツォ聖堂(Basilica of San Lorenzo)で働きました。

ランディーニは当時の政治的・宗教的論争に深く関わりましたが、フィレンツェ当局の恩恵は受け続けていたようです。

ランディーニはトレチェント音楽(1300年代のイタリア音楽)の作曲家の多くと面識があり、その中でもロレンツォ・ダ・フィレンツェ(?-一1373年)はサンタ・トリニタ修道院で一緒でした。

また、アンドレア・ダ・フィレンツェ(Andrea da Firenze)とは1370年代に知り合いました。

1375年頃かあるいはそのすぐ後、アンドレアはフィレンツェの僕会(下僕会。Servite Order)のオルガン製作の相談役にランディーニを雇いました。

楽器を調律する3日間に二人が飲んだワインの領収書が残っています。

ランディーニは1379年にサンティッシマ・アンヌンツィアータ聖堂(Santissima Annunziata, Florence)


で新しいオルガン製作を助け、1387年にはサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂

のオルガン建造計画に励みました。


当時の作家たちの多くが、作曲家のみならず歌手、詩人、オルガニスト、さらに情熱的に献身的なフィレンツェ市民としてのランディーニの名声を証言しています。

音楽で聴衆を感動させるというランディーニの評判はかなり高く、作家たちは「その旋律の甘美さはまるで胸から心臓を飛び出させるほど」と記しています。

ランディーニは死後、フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂に埋葬されました。
そこにはポルタティフ・オルガン(en:Portative organ)
セシリアがポルタティーヴォを演奏している様子を描いたもの(アルテ・ピナコテークのバルトロメウ祭壇の詳細)。パイプの右側にふいごが見えます。
らしきものを持ったランディーニの姿が描かれています。

ランディーニ作曲
Ecco la primavera
ここに春が来ました。

それは心を喜ばせます。

恋に落ちる時が来た

みんな幸せそうに見えます。

私たちは空気と時間を大切にしています 。

それは変わらない喜びを呼びます。

この曖昧な時の中で

すべてにはかなさがあります。

鮮度抜群のハーブたち

そして花が草原を覆う

そして飾られた木々

私も同じです。















旅好きサン・サーンスの芸術論

2025-03-08 21:00:00 | 近代
枚方市役所にバスボート申請に行ってきました。
昨年の8月で切れていました。
しばらく使わないから良いかと思っていましたが
榎田先生が4月21日に神戸市と大邱市の友好イベントで韓国大邱市のフルートオーケストラを指揮される。
と言うことで「エスカル」のメンバーからも助っ人を募られました。

私も手を上げた何人かと一緒に行くことになりました。

久しぶりのバスボートで戸籍謄本を取るところからでした。
近所のダイソーで証明写真を撮り、行ってみると、駅前の駐車場は満車。

周りに並んでいましたが、そこにも入れないので「帰ろうか?」と思いましたが、駅前周辺をぐるっとひと回りして、「やっぱりもうワンちゃんあるかも。」と行ってみると最後尾に並ぶことができました。
値上げしたので結構回転が速いです。
30分ほどで入ることができました。
戸籍謄本も並んでいましたが、またマシ。
「これからバスボートセンターに行きますが駐車料金は?」
みなまで言う前に「複数の課に行かれると言うことなので90分お付けしておきましたので、それ以上は割引きありませんのでお気をつけて下さい。」

枚方市岡東公園のカリヨンの向かい側の、

サンプラザ1号館2階にバスボートセンターがあります。
前回は駅ビルの中でしたが少し移動されました。
こちらは全く待ち無し。
マンツーマンで申請書を書くところから教えていただきました。
それでも出来てくるのは3/21以降だそうです。
そんなものかな?
とりあえず申請出来てほっとしました。
本当にこういうこと苦手…。
こんなことで航空券取ったりホテル取ったり大丈夫?

シャルル・カミーユ・サン=サーンス(Charles Camille Saint-Saëns,1835 - 1921年)
フランス王国パリ生まれ、フランス領アルジェリア アルジェ没

サン=サーンス。ピエール・プティ撮影。1900年。

彼は無類の旅行好きでした。
生涯で27か国に計179回の旅に出ています。

サン=サーンスがピアニストとして聴衆の前に初めて登場したのは11歳。

少年時代のサン=サーンス。
それから50年目にあたる1896年に、長い音楽活動を祝うための記念コンサートがパリのサル・プレイエルで開かれました。
この年の3月から4月にかけて作曲された第5番の協奏曲はその際に初演され、当時61歳だったサン=サーンスがピアノ独奏を受け持ちました。

楽譜は同年に出版されています。
2台ピアノ版は献呈先のルイ・ディエメによって編曲されました。

この曲は避寒先のカイロで書かれました。

第5番には、この国での見聞や、東方的でエキゾティックな雰囲気が反映されています。そのため、サン=サーンスとしては珍しく、表題的な雰囲気を持った「絵画的な」協奏曲が生まれました。

1891年サン・サーンスはエジプトに旅に出ます。
ムハンマド・アリー朝、サン=サーンスは第6代君主タウフィーク・パシャ(1852-1892)の次男で第7代の弟、ムハンマド・アリー(1875-1955)王子(皇太子)

と親しくなり、エジプト滞在する際、彼のためにカイロのローダ島に建てられたマニアル宮殿

に何度も立ち寄っています。
そして王子のために《物憂げなワルツ op.120》(1903)を作曲しています。

1月末にアレクサンドリアに到着し、2月にはルクソール、3月中旬から4月中旬までカイロと、長期滞在になりました。
テノールとバリトンのための二重唱曲《ヴィーナス(ウェヌス)》を作曲し、デュラン出版社に宛てています。

エジプト考古学者のジョルジュ・ルグラン(1865-1917)
ともあっていたようです。
カルナック神殿にある大スカラベ像を見学するサン=サーンスと像の発見者のジョルジュ・ルグラン(1908年以降)
ナイル川の上流、エジプト南部アスワンからスーダンにかけてのヌビア(元々はエジプトと同一の祖先をもっていたものの、その後ギリシャ・ローマ人との混血が進んだエジプトとは異なる文化圏を形成した地域。)を旅行し、ナイル川をダハビア(屋形船)に乗って移動しましたが、そこで船頭が歌うヌビアの恋唄を聴き取ります。

ナイル川のダハビア
この小旅行の後、ルクソールのホテルに缶詰めになって《ピアノ協奏曲 第5番》を作曲します。
後の手紙でルクソールの環境について「ここより仕事するのにふさわしい所はありません、私は水を得た魚のようです。」と述べています。

Camille SAINT-SAËNS, « Égypte », L'Écho de Paris, 29e année, N° 10046, 4 février 1912, p. 1.には、下記のような文章を寄稿しています。

「ところで、我々の近代西洋文明は反芸術の方向へ歩みを進めている。

その証拠が、「芸術」に専念しようとする意図そのものなのだ。

本当に芸術が浸透しているところでは、呼吸をするようにもはや芸術を意識しないものなのである。

ローマの都市であったポンペイにおける芸術を見るように、ギリシア文明においても芸術はそのように存在したし、ギリシアのその本質においては、単なる調理器具といった全くの日用品ですら、常にスタイルを備えていた。

ヨーロッパ文明に侵される前の日本においても、かの国伝来のちょっとしたものであっても、芸術家の称賛に値するものであったのに。

今でも日本人は驚嘆に値するものを作っているが、同時にヨーロッパの商人にそそのかされて、ぞっとするものも作っている。

我々西洋人と同じように、日本人も芸術品と並んで商業品を作っていて、その結果、芸術の感覚が失われてしまった。」

ピアノ協奏曲第5番
第1楽章 アレグロ・アニマート
ヘ長調、4分の3拍子、 

第2楽章 アンダンテ - アレグレット・トランクイッロ・クアジ・アンダンティーノ

4分の2拍子に転じ、サン=サーンスがナイル川で聴いたヌビアの愛の歌によるメロディが切々と歌われ、「コオロギやカエルの鳴き声」(サン=サーンスによる)が聞かれる。後半にはガムランを思わせる響きも現れます。

第3楽章 モルト・アレグロ
ヘ長調、4分の2拍子
サン=サーンスは「航海の楽しみ」と表現。船のプロペラの動きが模されているといいます。
後に、この楽章のみ『練習曲 ヘ長調 作品111-6』としてピアノ独奏のために編曲されました。