音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

慈悲巡礼

2025-01-04 21:00:00 | バロック
3日は南山城のお寺を回りました。
タイトル写真は浄瑠璃寺の三重塔
計画的に行ったわけではなく、2日に妹と姪、母、次男と京田辺市の観音寺に行ったら

国宝、十一面観音様(白鳳時代645-710年時代)にすぐ前まで入らせて下さって

鯉とたわむれて、こんなリーフレットいただいて、
地図を片手に

寿宝寺に

十一面千手千眼観音(平安時代794-1186年)さまがいらっしゃるはずなのですが、拝観には事前予約が必要だということでお顔を拝見することはできませんでした。
がっかりした顔の妹たちに
「蟹満寺だったらよく行くよ。」
というと妹が「行く!」というので蟹満寺へ、拝観終了3分前に到着したにも関わらず、
銅造釈迦如来坐像さま(685年?あるいは8世紀)に
会わせていただきました。
撮影禁止なのでパンフの写真です。
で、3日は続き。
海住山寺

国宝の鎌倉時代の五重の塔
重要文化財の十一面観音(平安時代)さま

は見られませんでしたが



木津川を見下ろす絶景を見て、
常念寺へ

平和観音さま、

巨大です。こちらも重要文化財の菩薩形立像 - 平安時代前期(9世紀は予約無しでは拝観できません。、

浄瑠璃寺はお庭が有名です。

吉祥天女像1212年や四天王像、阿弥陀さま、がいらっしゃるそうですが、


この奥にいらっしゃる木造薬師如来坐像

が、坐っていらっしゃるのを暗闇の中で見えたような見えなかったような…目が悪いから見えない。

美しいお庭でした。
九体阿弥陀仏と本堂(阿弥陀堂)(国宝)平安末期や四天王立像 四躯(国宝)は拝観できませんでした。
南山城のお寺はまだまだたくさんあるようです。

キリスト教ではピエタという像があります。
ピエタは慈悲という意味で、聖母子像の一種で、磔刑に処されたのちに十字架から降ろされたイエス・キリストと、その亡骸を腕に抱く聖母マリアをモチーフとする宗教画や彫刻などのことです。

ミケランジェロ プオナローティ(1475-1564年)フィレンツェ共和国カプレーゼ生まれ、教皇領ローマ没

の4体のピエタは特に有名です。

『サン・ピエトロのピエタ』(1498年 - 1500年、サン・ピエトロ大聖堂)


『フィレンツェのピエタ』(1547年? - 、フィレンツェ、ドゥオーモ博物館)未完成

『パレストリーナのピエタ』(1555年? - 、フィレンツェ、アカデミア美術館)未完成


『ロンダニーニのピエタ』(1559年 - 、ミラノ、スフォルツァ城博物館)未完成

腰が曲って頭を上げることすらままならず、さらには視力を失いながらも手探りで鑿を振るい、病に倒れる前日まで制作を続けたと伝えられています。

観音さまは慈悲を体験していますが、キリストを抱くマリアさまも慈悲に溢れています。

スターバト・マーテル ( Stabat Mater)は、13世紀のフランシスコ会で生まれました。

カトリック教会の聖歌の1つです。
詩の作者は明らかでなく、ヤコポーネ・ダ・トーディ、インノケンティウス3世、ボナヴェントゥラらが候補としてあげられています。

題名は最初の1行(Stabat mater dolorosa、悲しみの聖母は立ちぬ)からとられています。
日本語では「悲しみの聖母」「聖母哀傷」と訳されています。

わが子イエスが磔刑に処され、十字架の傍らに立っていた母マリアが受けた悲しみを思う内容となっています。

前半はマリアの嘆きを、後半は「どうかその悲しみを担わせて下さい。」という内容になっています、

この中でも古楽・バロックではペルゴレージ、パレストリーナ、ヴィヴァルディ、ハイドン。

近現代ではロッシーニ、ドヴォルザーク、プーランク、カロル・シマノフスキ、アルヴォ・ペルト、クシシュトフ・ペンデレツキなどの作品が著名です。

『聖歌四編』に含まれたスターバト・マーテルの旋律はジュゼッペ・ヴェルディの最晩年の作品です。

2025年は、世界中に慈悲の心が広がることを祈ります。

ジョバンニ バディスト ペルゴレージ(1710-1736年)教皇領イェージ生まれ。ナポリ王国ポッツウォーリー没

幼い頃から音楽の才能を現し、ナポリ音楽院

に入学します。
1731年卒業作品として音楽劇『グリエルモ・ダキタニアの改心』を作曲。同年、初のオペラ『サルスティア』を初演するも不評に終わりました。

1732年、オペラ・ブッファ『妹に恋した兄』を初演し最初の成功を収めました。
1733年8月28日、サン・バルトロメオ劇場でオペラ『誇り高き囚人』を初演。失敗に終わったにもかかわらず、この作品の幕間劇として作曲された

『奥様女中 La Serva Padrona』
『奥様女中』
が歴史的な大成功を収め、オペラの歴史に大きな変革をもたらしました。

1734年にはナポリ楽長に就任。

1735年、オペラ『オリンピアーデ』をローマで初演。
失敗しナポリへ戻ります。

この頃から結核のため体調が悪化し、宗教音楽の作曲に取り組むようになりまふ。
1736年にはナポリ近郊ポッツオーリの聖フランチェスコ修道院に療養に移ります。
ナポリ在住貴族の集まり「悲しみの聖母騎士団Cavalieri della Virgine dei Dolori」から委嘱された『スターバト・マーテル Stabat Mater』(悲しみの聖母)

を余力を振り絞って書き上げてまもなく、26歳で死去しました。



1月1日に初演(301年前)

2025-01-03 21:00:00 | バロック
システムエラーで昨日投稿予定だった記事です😭💦

なんと、元旦から出勤の次男。
昨年は骨折で。有休を使い果たしたから穴埋めに出勤したいらしいです。

ご苦労さまです。
私は元旦からライヒャルトのエチュード3番、4番、タファネルandゴーベールを
5時過ぎに帰ってきた次男と氏神様の片埜神社へ初詣。


小さなお社ですが、外まで人が並んでいます。

無事初詣を終えました。
垂仁天皇の頃にはもうあって927年延喜式にも載っています。
鎌倉、室町で戦火であれていたものを豊臣秀吉が再興。秀頼が寄進し、今ある本殿は桃山時代のものです。

ヨハン セバスチャン バッハ(1685-1750年)神聖ローマ帝国ザクセン アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没

の教会カンタータ BWV190
カンタータ第190番《主にむかいて新しき歌を歌え》
Singet dem Herrn ein neues Lied

は、新年のためにライプツィヒで書かれました。

バッハの最初のカンタータの一部として初演されました。

後にアウクスブルク信仰告白200周年の祝賀のために『主に新しい歌を歌え』BWV 190aに改作されました。

バッハは、ライプツィヒのトーマス教会



トーマス教会
のカントル(音楽監督)に就任した最初の年の1723年に、キリストの割礼の祝日の元旦のためにこのカンタータを書きました。

ガラテヤ人への手紙から

「私たちは信仰によって受け継ぐのです」(ガラテヤ3:23–29)と、

ルカによる福音書から 

「生誕8日後に行われたイエスの割礼と命名」(ルカ2:21 )。

第4楽章の最後「イエスの名」で触れており、それに続くアリアではすべての行を「イエス」で始めています。

それ以外のテキストは、過去の賜物に対する賛美と感謝、そしてさらなる祝福への祈りを強調しています。

詩人は冒頭の合唱のために詩編第149篇から1節、詩編第150篇から3節、

ルカ・デッラ・ロッビア:カントリア、詩篇 150
そしてマルティン・ルター(1483-1556年)


の『ドイツ・テデウム』( Te Deum )の最初の2行の間に

「主なる神よ、われらは讃えます」を編纂しています。

「テデウム」の歌詞は第2楽章にも再び現れ、レチタティーヴォが散りばめられています。

終結のコラールはヨハネス・ヘルマンの『主よ、われらは主を讃えます』(1591年)の第2節です。

バッハはこのカンタータを1724年1月1日に初めて演奏しました。

1730年代後半に再演しました。

おそらくバッハの改訂の過程で、原曲の一部が失われ、最初の2楽章では声楽部分とヴァイオリン部分のみが残りました。

失われた部分の復元は、ベルンハルト・トート(1904年)、ヴァルター・ラインハルト(1948年)、オリヴィエ・アラン(1971年)、ディートハルト・ヘルマン(1995年)、 トン・コープマンとレヴェンテ・ギョンジェシ、鈴木雅明と鈴木正人(2012年)によって試みられました。




あけましておめでとうございます。

2025-01-01 21:00:00 | ロマン派
大晦日。
年末久米家恒例、絶賛!「近鉄に乗りに行こう!」キャンペーン。
夫の買っている近鉄株の優待券の期限が12/31まで、

夫、次男、私で家族会議。
「どこに行く?」
「鶴橋で焼肉食べる。」「近過ぎる。」

「橿原神宮お礼参り。」
「寒いし、お店が無い。食べるところも無い。」

「名古屋!」
「日帰りはしんどい。」

というわけで奈良に決まりました。
京阪橋本駅前に車を止めて、

丹波橋。
近鉄に乗り換え、西大寺で奈良線に

お昼は奈良で中華料理。

油で揚げているのに、薄味なのでさっぱり食べられる中華でした。

それから興福寺にお参り。
今年1年お世話になりました。
鹿さんと戯れ、







春日大社にもお参り。

昨年は骨折にコロナ2回、息子まで骨折する始末。
大変でしたが、オーケストラ2つに参加。本番もいくつか。
いろいろ無事に任務を果たすことができ、ありがとうございました。

そしてこれを投稿する頃には新年です。
昨年中は、ブログを読んでいただいて、ありがとうございました。

みなさんのおかげで勇気を得て、ブログを続けることがてきています。

あけまして、おめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

今年のニューイヤーコンサートではヨハン・シュトラウス二世(1825-1899年)オーストリア帝国ウィーン生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没


のオペレッタ「ジプシー男爵」の序曲が演奏される予定です。

1885年10月24日、シュトラウスの60歳の誕生日の前日にウィーンのアン・デア・ウィーン劇場

で初演されました。

ハンガリー人の作家ヨーカイ・モール(1825-1904年)


の短編小説『シャーッフィ』(Sáffi)を基に、ハンガリー人ジャーナリストのイグナーツ・シュニッツァーが書き上げた台本には、ハンガリー情緒がふんだんに盛り込まれています。

わずか6週間で書き上げたといわれる『こうもり』とは異なり、シュトラウスはこの作品を2年の歳月をかけて作曲しました。

初演は大成功を収め、以後ハンガリーを題材にしたオペレッタが数多く作曲され、人気を博していくことになります。
序曲や第3幕で演奏される凱旋の入場行進曲、そして劇中で使われるワルツを用いて作曲された『宝のワルツ』などは、演奏会で単独でも演奏されています。

ジプシー男爵フランス語版のポスター

雑誌「Bombe」に掲載中された説明図ラスロー・フォン・フレツカイ (1844-1916)

第一幕
ハンガリーの寒村、テメーゼ・バナード。

ハンガリーを統治していたトルコの最後の総督は、1717年のベオグラードの戦いでオーストリア軍に追われ逃亡します。

莫大な軍用金をこの地方に埋め、生まれたばかりの娘をジプシーの女占い師ツィプラに託しました。

この女の子はザッフィと名付けられ、ツィプラによって育てられます。

一方、大地主バリンカイは、トルコ人と気脈を通じていたという嫌疑をうけて亡命しました。

その後この土地に勢力をふるうようになった豚使いジュパンは、亡命中に死んだバリンカイには嗣子がないと言いふらして、遺産や土地を自分のものにしようと企んでいます。

ところがバリンカイの遺児シャンドール・バリンカイは今は成人となって、皇帝の特赦により父の遺産を正式に相続することとなり、ハンガリーにやってきました。

一緒に来た皇帝特使カルネロは父親の遺産を正式に彼に譲渡する役です。

ジュパンは娘アルゼナとバリンカイを結婚させようとしますが、アルゼナはそれを避けるため、「男爵の位を持っている人とでなければ結婚しない」と公言します。

人々が引き上げた後に残されたバリンカイに、ザッフィの歌声が聞こえてきます。
ツィプラはジプシーたちに、新しく地主となったバリンカイを自分たちの領主だといって紹介し、バリンカイは自分を「ジプシーの男爵」だと名乗ります。そして、ザッフイはバリンカイ家の花嫁だといいます。


第二幕
舞台はバリンカイの屋敷近くのジプシー部落。

ツィプラは「私は昼も夜もご主人様の財宝を見張っていた」と静かに語ります。バリンカイが「君こそ私の愛する妻」と喜びを歌うと、ザッフィも「なんという幸せ」と応えます。


ツィプラは、夢の中でバリンカイの父親が宝の隠し場所を教えてくれたという。半信半疑のバリンカイが、ためしにその場所の石を叩くと、うつろな音がするところがあり、そこから貨幣や宝石が出て来ます。。

すると、ドラの音とともに朝が来て、パリ(呼び男)の呼び声につられてジプシーたちが仕事を始めます。

「誰が保証人になって結婚したか」と詰問されたザッフィは「うそ鳥が牧師の代りをつとめ、頭上を飛ぶ2羽のこうのとりが証人である」と答えて、人々を呆れさせます。

そこへ1隊の軽騎兵を率いてホモナイ伯爵が登場します。
この司令官はバリンカイの旧友で、スペインの戦争に従軍する兵士を募集するために来ました。
徴兵の酒を飲んだ者は募兵に応募したと認められますが、酒好きのジュパン
とオットカールはうっかりそれを飲み干してしまい、たちまち軍帽をかぶせられてしまいます。

ジュパン家の人々がザッフィを侮辱するので、ツィプラは、ザッフィの出自を明かし、しかもオーストリア皇帝の血統を受けていることを説明します。

バリンカイは、身分の違いから、彼女を妻にすることができなくなったと感じ、父の遺産全てを国家に奉納して従軍してしまいます。

第三幕
舞台はウィーンのケルントナートール劇場前の広場。
スペインに遠征したオーストリアの軍隊が続々と凱旋してきます。
ジュパンは、意気揚々として先頭に立ち、戦利品を携えて自分の見当違いな勇敢な戦い振りを述べ立てます。

軍隊の主戦部隊が到着。 
ホモナイ伯爵、バリンカイを先頭に威風堂々の行進が繰り広げられます。
ホモナイ伯爵はバリンカイの功績をたたえ、彼が国家に寄付した財産を改めて返却し、彼を貴族に列して、ザッフィとの結婚を許します。
ザッフィと、バリンカイは抱き合い、めでたく結ばれます。

バリンカイが「男が一度決意したら、不可能なことはない」と歌うと、群衆の歓喜の大合唱がそれに続きます。


うお座の男

2024-12-31 21:01:00 | バロック
30日午後3:30過ぎ京田辺市の母のところへ行くと
「掃除はもうしないからいい。」と元気がない様子。
聞いてみたら何日か前から、咳が出て、熱があるらしい。

「病院に連れて行って。」
あらら…。
「来る前に行ってほしかったな。」
3人で来てしまった。コロナとかインフルだったら全滅。

京田辺市休日応急診療所
年末年始9:00-5:00やっていますが、要予約。
予約は8:30-14:30受付

田辺中央病院
休日、年末年始やっているということでしたが電話すると「混み合っていますので待つか、おかけ直しください。」 何度かけてもだめです。

中村病院
年末年始休診

公済会病院
繋がりました。
84歳、大動脈弁の手術をして、37.2度でも咳が止まらず、しんどいと伝えると
2時間待ちでよければということで連れて行くことにしました。

電話をしている間に庭木の剪定をしてくれていた夫と次男が車を出してくれました。

私はのこって植木の後片付け。

実家で待っていると、40分ほどで次男から電話。
「終わった。風邪の治りかけで大丈夫。今から帰る。」ということですぐ帰ってきました。
「そんなに待ってなかった5組位。」
「薬飲んだら熱下がって楽になったわ。」と母もさっきより元気そうです。
今度は近所のスーパーへ、母の買出し。
帰ると妹と姪がきていました。

料理の用意も半ば母がしてくれていて
「フグがあるから。」というので次男が薄く切って、残りはフグ鍋。

咳も止まって、さっきとは別人の母。
久しぶりに妹と姪と会えたのも良かったのか。
私も、団らんが楽しかったです。

トマーゾ・アントニオ・ヴィターリ(1663年3月7日 - 1745年5月9日)
イタリア ボローニャ生まれ、イタリア モデナ没


は作曲家、ヴァイオリニストでした。
ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィターリの長男として生まれました、

ヴァイオリンと通奏低音のためのト短調のシャコンヌで主に知られ、伝統的にこの作品の作曲者とされています。

この作品は、ドレスデンのザクセン州立図書館の原稿から出版され、ドイツのヴァイオリニスト、フェルディナント・ダヴィドが編集した『ヴァイオリン演奏高等学校』(1867年)に掲載されました。

ドレスデン写本の最初のページ
この作品は遠音への幅広い転調があるため、純粋なバロック作品ではないという憶測が飛び交い、またヴィターリの他の作品との類似点がないため、現代の学者は作曲者認定に疑問を投げかけています。

シャコンヌ ト短調
ヴィターリのシャコンヌに関する最も古い文献は、ドレスデン国立図書館に所蔵され、Mus. 2037/R/1の棚番号が付けられた写本です。

ドレスデンのザクセン州立大学図書館

この写本は、ドレスデン宮廷楽長で働いていた写字生、ヨハン・ゴットフリート・グルンディッヒまたはヨハン・ヤコブ・リンドナーの手によるものと特定されており、1730年頃から1740年頃のものと推定されます。

シャコンヌは、転写時にドレスデン写本の最初のページの上部余白に「Parte del Tomaso Vitalino」(トマソ・ヴィタリーノのパート)と記されていました。
しかし、ヴィタリーノという作曲家は知られていません。

「ヴィタリーノ」のシャコンヌのスタイルの特徴の1つは、調性が激しく変化し、変ロ短調や 変ホ短調の広範囲に及ぶことです。
これはバロック時代には見られなかった転調で、調性の変化が一般的になったのはロマン主義になってからです。

しかし、17世紀のヴァイオリン作品には先例が存在します。

トマーゾ・ヴィターリのシャコンヌと特に関連があるのは、父ジョヴァンニ・バティスタの作品で、最も重要な作品の
Passagallo che principia per B. molle、e finisce per Diesis、およびBalletto à due ... che il Violino sona per B. molle、e il Violone sona per diesis です。

非調和変調の顕著な例は、1677 年のゲオルク・ムファットのヴァイオリン・ソナタにも存在しています。
なので、最終的な結論は出ていません。
そして、この曲は多くの疑問にもかかわらず現代でも人気の作品です。

なぜ?ヴィターリかって?
それはフグ鍋に因んでヴィターリがうお座の男性だからです。

魚座の男性は、芸術家タイプが多いく、独特の感性を持った不思議キャラ。競争社会を嫌い、自分の個性を生かせる場所を好みます。

また、人の心を落ち着かせるプロ。優しい言葉をかけてくれます。

ですって、シャコンヌで癒されたあなたうお座の男性と相性抜群なのかも…なんちゃって。





箒を持って踊るヒロイン

2024-12-30 20:49:00 | 近代
年賀状を出そうと近所の郵便局に行こうと、歩いていると椿の花が咲いていました。

季節を感じます。
うちでは小さな葉牡丹の寄せ植えを買ってきて植えました。

大きさ一つ3センチ位。
お正月飾りは以上。
とにかく貯めに貯めた机の上のあれやこれやを片付け、水回り、台所トイレ、洗面所、お風呂をせっせと洗い。
長男がなぜかくれたコーティング剤をぬりました。
これ、なかなかきれいです。
しかも汚れにくいらしいです。
塗って6時間待たないといけませんが…。

夫がコンクリートの駐車場を高圧洗浄機で掃除。一皮むけたみたいです。

しかし、1年まめた汚れはまだ落ちません。

明日は実家の掃除です。

セルゲイ プロコフィエフ(1891-1953年)ロシア帝国ソンツォフカ生まれ、ソビエト演奏モスクワ没
作曲のバレエ音楽「シンデレラ」は1840年「ロミオトジュリエット」の成功を経てキーロフ劇場から作曲依頼がありました。

しかしドイツのソ連侵攻やオペラ『戦争と平和』の作曲によって作業は中断され、完成は1944年、初演は1945年までずれ込みました。
台本はニコライ・ヴォルコフ、振付はロスチスラフ・ザハロフ、美術はピョートル・ウィリアムス、ガリーナ・ウラノワでした。

初演は成功し、プロコフィエフは1946年交響曲第5番ピアノソナタ第8番などと併せてスターリン賞受賞しました。

貴族の娘シンデレラは、母を亡くします。その後やってきた義母は連れ子の姉2人とシンデレラを召使いのようにこき使います。

その国の王子は、結婚相手を見つける舞踏会を開きます。姉たちは着飾って出かけますが、シンデレラは家を掃除するように言われ残ります。
そこに魔法使いが現れ、かぼちゃを馬車に、ネズミを騎手に変え、シンデレラにドレスを着た姿に変えお城に送り込みます。

シンデレラは舞踏会で注目の的になり、王子の心を捉えます。
しかし魔法は12:00の鐘が鳴ると解けてしまいます。
慌てて帰るシンデレラはガラスの靴を片方落として帰ります。
王子は「ガラスの靴を履けた人と結婚する。」とお触れを出し、シンデレラを探します。
城下の娘たちはみんなガラスの靴を試します。
シンデレラの姉たちも試しますが失敗。
最後にシンデレラが試すと靴はぴったり入ります。
王子と再会したシンデレラは彼と結婚し、末永く幸せになりました。

このバレエ音楽では、珍しく箒を持って踊るシーンがあります。






フランス王宮の絨毯と音楽

2024-12-29 21:02:00 | バロック
年末。やっと休みになった夫と次男が家にいる間に、ずっと変えたかったすり減ったマットの交換。
コーナンに行って切り売りのマットを敷くことにしました。
台所のカウンターやや食器棚の形にマットを切って

床下収納の形に切って
両面テープで貼って。



なんか良い感じじゃない?
だいぶ部屋が明るくなりました。
足元温かいし。
全体の掃除は明日かな。

うちのカーペットはシンプルな安いものですが、
フランスの絨毯は
1608年、アンリ4世(1553-1610年)


がピエール・デュポンの指示したㇳルコ式の絨毯の生産に始まりました。

この生産場所は、パリのすぐ西のシャイヨのサヴォナリーSavonnerie工場に移動しました。

SavonnerieとSimon Lourdetにより製作された絨毯がいわゆるルイ13世絨毯です。

それらは花瓶や籠の中に花とともに飾られます。
デザインはオランダ風、フランダース風の織物および絵に基づいています。

最も有名なSavonnerie絨毯はグラン ギャラリーGrande Galerie


とギャラリー  ダポロンGalerie d'Apollon






のために作られたものです。

ルイ14世(1638-1715年)

が1678年にヴェルサイユ宮殿に移ったとき、シャルル・ルブラン(1619-1690年)

の指示により作られた105の傑作は使用されることはありませんでした。

それらのデザインは、アカンサスの葉、建築様式の縁取り、および神話の場面(チェーザレ リパ1555-1622年
のイコノロギア
Cesare Ripa's Iconologie)という著作お手本にしたもので、ルイ14世の権力のシンボルを表現するものでした。

18世紀中ごろのデザイナーではピエール ジョズ ペロー(Pierre-Josse Perrot1678-1750年)が最もよく知られていす。

彼の作品と図面は、優雅なロココ様式の巻物、主要なバラ結び、シェル、アカンサス葉、および花の飾りで有名です。

サヴォナリー Savonnerie工場は、1826年にパリのゴブランに移動しました。
ボーヴェBeauvais工場は1780年から1792年までパイル絨毯を作りました。

オービュッソンAubussonの工場での生産は1743年に始まりましま。

フランスの絨毯が始まり、もっとも、栄えたルイ14世の時代、彼の宮殿で響いていた音楽は主にジャン パテイスト リュリ(1632-1687年)

そしてマラン マレー(1656-1728年)
 
ヴェルサイユの音楽でした。

ルイ14世の建築、敷物、音楽そのすべてが彼の力と繁栄を示すものでした。

1.壮大な戦争の空気(ジャン=バティスト・ド・リュリ、1707年)
2.組曲第1番ニ短調よりアレマンド(マリン・マレ、1686年)

3.ブーレ (J-B リュリー、1707)

4. クーラント第1組曲 ニ短調 (マレ、1686年)
5.バスルーム付きグランドエアー(J-B Lully、1707)

7.オーベルチュール〜シャコンヌ(J-BLully、1690年)

8.ロンドー (J-B Lully、1707)

9.愛の前奏曲 (J-B Lully、1681)

10. トルコ人の儀式のための行進(J-B Lully、1670年)



ビウエラと19世紀ギターとギター

2024-12-28 21:06:00 | 楽器
19世紀ギター。
聴き合い会で樋口さんが、弾いてくれました。

かわいい模様があります。

1820年頃のフランスの楽器だそうてす。


やはり聴き会い会で斎藤さんが弾いてくれたビウエラと似ています。

ビウエラは14世紀のイベリア半島(現在のスペイン周辺)で流行りました。
4コースの複、8本の弦が張られています。
19世紀ギターは、単弦
6本の弦が張られています。
もう少し経つとより大きな音を求めて現代のクラッシックギターが作られます。


ビウエラは一度忘れ去られ今世紀に入ってから書物の姿を見て復元されました。

聴き比べてみましょう。
19世紀ギターは復元ではなく、使われていたものが伝わっています。
「トリスタンの嘆き」14世紀イタリアの俗謡です。
ビウエラによる演奏です。

ソルのエテュードop31-8 19世紀ギターによる演奏です。
ソルの同じ曲で現代のクラッシックギターです。


トラヴェルソと通奏低音

2024-12-27 21:00:00 | バロック
木曜日は、今年最後の「聴き合い会」でした。
今回は古楽器のヴィオラ・ダ・ガンバの有馬さんとフルートトラヴェルソの今川さん、田中さんのハッセのソナタを演奏。

リュートの樋口真希さん

ビウエラの斉藤さん

1820年頃の6キーのフルート

でボワモルティエを吹いたのは角谷雅一さんとピアノ神澤さん。

もちろんモダンフルートやいつものギター。
クラリネットの小林さん

が来てくれてピアノの神澤さんと一緒に「ドリー組曲」を演奏しました。

ヨハン・アドルフ・ハッセ( 1699- 1783年)神聖ローマ帝国ベルケドルフ生まれ、ヴェネツィア共和国ヴェネツィア没。

1740年
ハンブルク近郊のベルゲドルフに生まれ、最初は父親に音楽教育を受けます。

素晴らしいテノールの声の持ち主だったため、彼は劇団員の道を選び、1718年にラインハルト・カイザーが指揮するオペラ劇団に参加しました。

ハッセは歌手として成功を収めたことで翌1719年にブラウンシュヴァイク=リューネブルクの宮廷劇場と契約し、その後作曲も担うようになり、この地で1721年に、オペラ『アンティゴノス』(Antigonus)をもって作曲家デビューを果たしました。

この最初の作品の成功によりブランシュヴァイク公は、ハッセを勉学の完成のためにイタリアへ遊学させました。 

ハッセはヴェネツィア、ボローニャ、ローマを訪問したのち1724年にナポリへ着きます。

ナポリでアレッサンドロ・スカルラッティ(1660-1725年)


と親しくなり、彼に師事し、その音楽を身に付けました。

彼の作曲した二声のセレナータはスカルラッティから学んだ音楽で作られ、成功を収めました。

この成功によってハッセの名声は高まり彼は単に有名なだけではない人気を得、ナポリ人から「親愛なるザクセン人(イル・サロ・サッソーネ)」と呼ばれるようになりました。

1726年にナポリの宮廷オペラのために作られた作品『セソストラート』(Sesostrato)は、彼の名をイタリア中に知れ渡りました。

1727年にヴェネツィアへ移ったハッセはそこで有名な歌手のヴェネツィア貴族の娘ファウスティーナ・ボルドーニ、人気台本作家の詩人ピエトロ・メタスタージオと出会います。
メタスタージオとハッセは意気投合して親友となり、以後2人は終生の友情を保った。

1730年にザクセン選帝侯兼ポーランド国王フリードリヒ・アウグスト1世の宮廷楽長に任命されたハッセは、直後にファウスティーナ(1697-1781年)
ファウスティーナの肖像(ロザルバ・カッリエーラ画、1730年代)
と結婚し、ボルドーニ家の養子となってヴェネツィアの市民権を得ました。

ザクセン公はすぐにドレスデンへ来ることを望みましたが、ハッセはおそらく妻の要望によってヴェネツィアに1年間留まり、ドレスデンへ移ったのは1732年の7月でした。

ハッセは9月にドレスデン初のオペラ『クレオフィーデ』の作曲をすると、後は再びイタリアへ行き、さらに1733年にはロンドンへ移りました。

ロンドンで彼は、ヘンデルと対立している排他的な派閥に、この大家の競争者になるように誘いをかけられています。
しかし彼は賢明にもそれを丁重に断って、ロンドンには貴族オペラ・カンパニー発足のこけら落としとして上演されるオペラ『アルタセルセ』(Artaserse)(初演は1730年、ヴェネツィア)のリハーサルを監督をするだけの期間のみ滞在し、1734年になるとドレスデンに戻りました。

ファウスティーナはドレスデンで歌手として活躍していましたが、1733年にフリードリッヒ・アウグスト1世が崩御し、フリードリッヒ・アウグスト2世(1794-1773年)
が即位した後、次第に彼女の宮廷での人気が衰え、ハッセにヴェネツィアへ帰るように促します。

ハッセは長期休暇を取る権利を与えられていた為、望まれる度に外国へ招かれ、特に妻ファウスティーナの実家のヴェネツィアには妻を伴って度々赴き、妻が望むままに長期滞在を重ねました。 

ハッセはイタリア人に、その官職と貴族の養子であることから、シニョーレ・サッソーネ(ザクセン卿)と呼ばれ、敬愛されました。

プロイセンには国王フリードリッヒ2世(1712-1786年)

の招きで1742年と1745年に赴いてオペラの公演を行いました。

フルート奏者でもある国王はハッセのフルート音楽も愛好していたと見られています。

1943年以降はウィーンにも度々訪問し、アントニオ・カルダーラ亡き後創作意欲を欠いていたメタスタージオを喚起させ、彼の台本によるオペラを初演しました、その間ドレスデンでも積極的に作曲し、その影響はドイツの他の都市にも広まりました。

1763年にフリードリヒ・アウグスト2世が崩御し、ハッセは高額の年金をもらい受けて宮廷楽長の職を引退しました。
しかしハッセの創作意欲はいまだ衰えず、彼は家族とともにウィーンへ移り、親友メタスタージオの台本で、更にいくつかのオペラ作品のウィーンでの初演を担いました。

1765年には神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世(1741|1790年)

の戴冠式では祝典の為の音楽劇《エジェリアEgeria》の作曲を努める栄誉を得ました。

彼の最後の劇場用作品は、ミラノでのオーストリア=エステ大公フェルディナンドの婚礼のために制作された
オペラ《ルッジェーロRuggiero》(1771年)です。

既に引退していたハッセでしたが、大公の母マリア=テレジアがこちらも引退を決めていたメタスタージオに、ハッセが音楽を作ることを条件に台本作製を引き受けさせていたので、ハッセも親友の最後の仕事に力を貸す決断をしました。

同時に15歳のウォルフガング・モーツァルトの作品、セレナータ「アルバのアスカーニオ」も上演されました、

この時ハッセが「このような才能が出てきては我々はすっかり影が薄くなってしまうだろう」と言ったとレオポルト・モーツァルトの手紙に記されています。以前モーツァルトに会った時のハッセは友人への手紙に「父親が息子を甘やかしてその才能を駄目にしないか心配だ」とモーツァルトの将来を慮っています。

1781年ファウスティーナが没し、翌年メタスタージオがこの世を去ると、翌1783年にハッセも、名誉と成功に彩られた84歳の生涯を終えました。

ハッセとファウスティーナは共に同地のサン・マルクオーラ教会(Chiesa di San Marcuola)に埋葬されています。

アリア「やさしい4月の緑に」トラヴェルソ、ヴィオラ・ダ・ガンバ、チェンバロ、ソプラノの演奏です。


田舎の騎士道

2024-12-26 21:06:00 | ロマン派
火曜日は塚口t-raumでハープのレッスンでした。
少し早くつきすぎて、門の前で待っていたら

にゃ〜!

と足元に絡みついてくるフレンドリーな猫さんが…。

野田先生がやがて着かれて「えりちゃん、フレンドリーでしょう?」
昔飼っていた黒猫のクロベにそっくり。
連れて帰りたい✨

レッスンは基礎練とオールドチューンズの最後の曲「
なんとか終えて、オールドチューンズ卒業しました。
まだまだよちよちですが…。

後は来年1月19日の発表会で演奏する「カヴァレリアルスティカーナ」の間奏曲。
こちらはまだまだ…。
楽な指使いを教えてもらって目からウロコでした。
フルートだと替え指の他は指使いのことは考えなくても良いので、思いもしませんでした。
指使いのこと、もっと研究しようっと!

ピエトロ マスカーニ(1863-1945年)イタリア王国リヴォルノ生まれ、イタリア王国ローマ没

パン屋の両親の元に生まれます。
父はピエトロに法律を学ばせますが、彼は音楽に強い関心を持ち、伯父を味方につけて故郷の音楽院で本格的に音楽を学びます。

20歳で交響曲、オペラ、カンタータなどを作曲し、その才能を認められます。
後援者の後押しでミラノ音楽院
ミラノ音楽院
に入り、アミルカレ・ポンキエッリ(1834-1886歌劇「ラ・ジョコンダ」時の踊りで有名)

に師事しましたが、途中で学校を飛び出し、指揮者として活動を始めます。

その後、チェリニョーラの音楽学校の教師となります。 

1890年に、ローマの楽譜出版社ソンゾーニョの一幕歌劇コンクールに『カヴァレリア・ルスティカーナ』で応募します。
この歌劇は驚異的な成功を収めます。

しかし、これがその後の多くの作品を作ることを霞めてしまいました。
それでも15曲のオペラと1曲のオペレッタ、いくつかの美しい管弦楽曲や声楽曲、歌曲、ピアノ曲を残しました。

1895年にはペーザロのロッシーニ音楽院院長に就任。

ファシスト党政権が誕生すると、スカラ座監督の座を狙ってムッソリーニに接近。
このため、第二次世界大戦でイタリアが降伏した後、全財産を没収され、ローマのホテルで寂しく生涯を閉じました。
遺体はローマに葬られたが、1951年に故郷のリヴォルノ再埋葬され、それと共に名誉回復されました。

歌劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』( Cavalleria Rusticana)


は、イタリアの小説家、ジョヴァンニ・ヴェルガ(1840-1922年)

による小説(1880年出版)戯曲(1884年初演)、にピエトロ・マスカーニが作曲した1幕物のオペラ(1890年初演)です。
題名は「田舎の騎士道」という意味です。

台本

ヴェルガの出身地シチリアの山間部を舞台として、貧しい人々の暮らし、三角関係のもつれから起きる決闘と殺人を描いたこの小説は、イタリアにおけるヴェリズモ(リアリズム文芸運動)の典型的作品とされています。

一方、マスカーニのオペラは1890年に完成し、楽譜出版社ソンゾーニョ社主催の1幕物オペラ・コンクールで圧倒的な支持を受けて優勝。

マスカーニはたちまちオペラ界の寵児となりました。

初版版
歌劇「カヴァレリア ルスティカーナ」

シチリア島のある村。
復活祭の朝。
トゥリッドゥはかつて美しい女ローラの恋人でした。
しかし、ローラは彼の兵役中に馬車屋のアルフィオと結婚してしまいました。

除隊後帰郷したトゥリッドゥは、いったんはローラを忘れるべく、村娘サントゥッツァ(サンタ)と婚約します。

が、結局は留守がちなアルフィオの目を盗んでローラと逢引を重ねる仲に戻ってしまいました。

このことを知ったサンタは怒りのあまり、そのことをアルフィオに告げてしまいます。
アルフィオは激怒し復讐を誓い、サンタは事の重大な展開に後悔します。

ここで間奏曲が演奏されます。

教会のミサが終わり、男たちはトゥリッドゥの母ルチアの酒場で乾杯します。
アルフィオはトゥリッドゥの勧めた杯を断ります。
緊張した空気の中、二人は決闘を申し合わせます。
アルフィオとトゥリッドゥが決闘前の儀式として抱擁する場面
トゥリッドゥは酒に酔ったふりをしながら母に「もし自分が死んだらサンタを頼む」と歌います。

トゥリッドゥが酒場を出て行きしばらくすると「トゥリッドゥが殺された!」

という女の悲鳴が2度響き、村人の驚きの声と共に、幕となります。





チャイコフスキーの「運命」

2024-12-25 21:03:00 | ロマン派
月曜の夜は6:30〜渡辺橋近くのサロン ド プリンシパルでフルートアンサンブル「エスカル」の練習でした。

階段を昇って、ドアを開けると
「あれっ?!なんでいるの?」と思わず声が出てしまいました。

ドルチェ楽器の安川さん。
どうも樹脂のバスフルートを榎田先生に言われて売りに来たらしいです。

しかも、エスカルメンバーがバスフルート在庫最後の2本をお買い上げ。
びっくりしました。

おかげでバスフルートを吹くメンバーがいっぱい。
というわけでバスフルートを私がエスカルメンバーとして吹くという需要がなくなってしまいました。

でも…でもSANKYOのバスフルート欲しいなぁ…。
どうしようかなぁ。
いずれにしても受注生産なので、あれが回ってくれば買っちゃうかもしれないけれど…。

もし来たら運命だな。これは。
来ない確率高そうだけど…。

年内最後の練習なので、忘年会でした。
1年間お世話になりました。良いお年をとご挨拶。
今年もフルートアンサンブル楽しかった!呑み会も!!
写真撮るの忘れました。

『運命』と言えば、ベートーヴェンの交響曲5番ですが、「運命」 作品77は、ピョートル・チャイコフスキー(1840-1893年)ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没

が作曲した管弦楽のための交響詩、または幻想曲です。

1868年28歳の時に作曲されて1869年に初演が行われました。

ところが、後年チャイコフスキーが総譜を破棄してしまい、作曲者の死後3年経ってから遺作の作品番号を付されて出版されました。

チャイコフスキーが作曲に着手したのは1868年の9月末から10月初めにかけてでした。

いったん作曲を中断した彼は演奏旅行中のベルギーのソプラノ、デジレ・アルトーへと意識を集中させました。

デジレ・アルトー(1835-1907年)
彼はアルトーに恋愛感情を抱いていました。2人は結婚について話し合い、計画を先へ進めるべく1869年の夏にパリで再会することにします。

アルトーはオペラ会社との演奏旅行を続けるために彼と別れてワルシャワへと旅立っていきました。

チャイコフスキーは1868年11月2日までに曲の骨組みを固め、同年12月には記譜を終えました。

初演が行われたのは1869年2月27日にモスクワで開催されたロシア音楽協会の第8回演奏会で、指揮はニコライ・ルビンシテイン。

作曲時には既存の筋書きが基になったわけではありませんでしたが、初演に際してコンスタンティン・バチュシコフによる人間の生命の無常さを綴った韻文の言葉が総譜の標語として追加されました。

しかし、これがチャイコフスキー自身の発案であったのか、そもそも彼がこの韻文に精通していたのかどうかも定かではありません。
バチュシコフの韻文が陰鬱な主題である一方、音楽は壮大な、抒情的で、喜ばしいフィナーレと明るめの全体像の音楽となっていて、聴衆は両者の不一致に困惑しつつも音楽には温かい称賛を贈りました。

初日の夜、チャイコフスキーは弟のアナトーリに手紙をしたためています。

「あれは私がこれまでに書いた中でも最高のもののようです。少なくとも、人々はそう言っています(かなりの成功でした)」

続いてチャイコフスキーはミリイ・バラキレフの元へ総譜を届け、作品の献呈を受諾してくれるように頼みました。バラキレフはこれを受け入れ、自身がこの音楽をどう思うかに関わらず別途演奏の機会を設けると伝えました。

こうして本作は3月29日にサンクトペテルブルクにて行われたロシア音楽協会の第9回演奏会でバラキレフの指揮により再演さる運びとなりました。

しかし、再演での聴衆の反応は初演の時のように芳しくはありませんでした。

バラキレフがチャイコフスキーに宛てた手紙に

ミリー バラキレフ(1837-1910年)作曲家ロシア五人組のまとめ役

「貴方の『運命』はサンクトペテルブルクで]ほどよく上手い具合に演奏されました。(中略)拍手はあまり大きくありませんでしたが、これはおそらく曲の最後に置かれた訴えかけるような不協和音のためでしょう。

私も全く好まない部分です。
適切に練られておらず、非常にぞんざいにあつらえられたかのようです。
継ぎ目が顕わになっていますが、貴方の不器用な継ぎはぎは全てそうです。 

なにより、形式自体がさっぱり機能していません。全体が全く以て統一されていないのです。(中略)私はすっかり正直な気持ちで貴方へ書き送っています。貴方が私へ『運命』を献呈する意志を取り下げたりしないであろうと確信してのことです。貴方の献呈は私に対する思いやりのしるしとして私にとってはかけがえのないものです - そして私は貴方に深く心酔しているのです

M.バラキレフ - 心からの愛をこめて」

この頃、チャイコフスキーとデジレ・アルトーの両者の心中では共に結婚の意思に変化が生じていました。

双方ともそのことを相手に伝えたわけでありませんでしたが、それでもチャイコフスキーはニコライ・ルビンシテインを通じて彼女が別の男性と結婚したことを知らされてショックを受けました。

相手はスペインのバリトン、マリアーノ・パディーヤ・イ・ラモスで、1869年9月のことでした。

チャイコフスキーがこの曲に向けていた好ましい見方も変化していきました - 彼はこれを失敗作とみなすようになりました。

1870年代に原稿を破棄してしまい、作曲者の生前には2度と演奏されることも出版されることもありませんでした。

しかし、彼はこの曲の抒情的主題をオペラ『オプリーチニク』
『オプリーチニク』の舞台美術となった町の通りの風景。アポリナリー・ヴァスネツォフ画、1911年。
の第4幕、ナターリャとアンドレイの二重唱へと転用しています。

チャイコフスキー没後の1896年、オリジナルの管弦楽パート譜を元に総譜が再構成され、作品番号77として出版されました。