音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

洋梨のかたちをした

2024-11-21 09:01:00 | 近代
いちごの鉢から、なぜか蔓で出てきました。 抜こうかな?と思っていたら花が咲きました。

調べてみたら、ゴーヤかすいか。

なぜ?
サンルームに入れっぱなしなのに。

まさか実はならないと思いますが、しばらく育ててみたいです。

エリック サティ(1866-1925年)フランス帝国オンフルール生まれ、フランス共和国パリ没

いつも同じ色と形の服を着てこうもり傘を持って歩いていました。真っ黒いジャケットと山高帽子、こうもり傘がサティのスタイル。
死後こうもり傘が100本も家から出てきました。

「インテリアのような音楽」を目指していました。 

変わった名前の曲を量産しています。
1903年に作曲したピアノ4手のための「梨のかたちをした3つの小品」もその1つです。

1898年のサティ

当時、サティはクロード・ドビュッシーに「形式的な作品を作ってみては」と忠告され、調性、拍子、形式を明確にした曲を作曲することにします。

結果、この「梨の形をした3つの小品morceaux en forme de poire」が完成することになりました。

しかし、
フランス語の「梨(西洋梨)」という単語にはもう一つ「まぬけ」や「うすのろ」といった意味があります。

poireは
プログレッシブ辞典によれば
[女性名詞]

➊ ナシ(の実);⸨特に⸩ 洋ナシ.
➋ 洋ナシ形のもの.
➌ ナシブランデー,ポワール.
➍ ⸨話⸩ 間抜け,だまされやすい人.
➎ ⸨俗⸩ 顔;頭.
━[形容詞] ⸨話⸩ 間抜けな,お人よしの.

また、3つの小品となっていますが、実際には7つの小品からなっています。

しかし、最初から明らかな軽蔑が示されているにもかかわらず、形式はしっかりと存在しています。
調性があり、拍子があり、
作品の全体的な構造は完全に対称的です。
2つの作品紹介
3 つの作品
2つの最終部分


オリジナル版の表紙 ( Rouart-Lrolle et Cie、1911 年)
第1曲 始め方
4分の4拍子。
終止線もある。3小節単位の動機が終止線まで繰り返されます。

第1曲は元々は1891年に劇付随音楽「星たちの息子」の曲として作曲され、その後1897年頃に「グノシエンヌ」と改題された後、さらにこの作品へ流用されました。

第2曲 同じものの延長
4分の2拍子、ニ短調。

第3曲 小品Ⅰ
4分の2拍子、ハ短調。  

第4曲 小品Ⅱ
4分の2拍子 - 4分の4拍子、ハ長調 - ト長調 - 変イ長調。
快活な舞曲。再び最初の舞曲に戻っています。

第5曲 小品Ⅲ
4分の4拍子。
激しい曲想。明確なリズムが特徴的。 

第6曲 つけ加えて
4分の4拍子。
全体的に変化のない作り。プリマは単旋律的に演奏されます。 

第7曲 言い直し
4分の3拍子、変ロ長調
緩やかで優雅な旋律の舞曲で終わります。


大王が主題を出題

2024-11-20 21:00:00 | バロック
火曜日は牧野生涯学習センター音楽室で第18回聴き合い会でした。

いつもチェロで参加されているSさん。
今日はヴァイオリンも持参して披露してくださいました。

演奏前にヴァイオリンとチェロの違いを少しレクチャーしてくださいました。
チェロの大きさはヴァイオリンの8倍。

弓はチェロの方が意外に短い。
幼い頃「父にヴァイオリンを習いたい。」と言ったら「あれは金持ちのするもんや!」と断られたそうです。

中学生になってようやく習わせて貰えるようになりましたが、近所の蔵にあると聞いてヴァイオリンをそこから借りてきて習ったそうです。
カバーも無く風呂敷に包んでヴァイオリンを運んだのは乙女心が傷ついたそうでした。

バッハの無伴奏チェロ組曲と、ヴァイオリンとフルート、ピアノで「音楽の捧げ物」を演奏されました。

他にもギター、ビウエラの参加がありました。

次回聴き合い会は12月26日(木)
牧野生涯学習センター音楽室
1人15分、協力金500円
お互いの演奏を聴き合い、励まし合いましょう。
勇気を奮ってご参加ください。

ヨハン セバスチャン バッハ(1685- 1750年)神聖ローマ帝国ザクセン、アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没

「音楽の捧げ物」BWV1079
、1つの主題に基づく16の作品からなる曲集。フーガ2曲と4楽章からなるトリオソナタ、ならびに10曲のカノンが含まれます。 

バッハが1747年5月7日にフリードリヒ大王(1712-1786年在位1740-1786年)

1740年フリードリヒ2世
の宮廷を訪ねます。

サン・スーシ宮殿
その時、ハ短調のテーマ (Thema Regium) を大王より与えられます。

バッハは、これをその場でゴットフリート ジルバーマン(1683-1753年バロックオルガン、フォルテピアノ制作者)
 
のフォルテピアノにより即興演奏を行いました。

サン・スーシ宮殿

1746年ジルバーマンのフォルテピアノ
2ヵ月後には曲集を仕上げ、
「王の命による主題と付属物をカノン様式で解決した」
(Regis Iussu Cantio Et Reliqua Canonica Arte Resoluta) とラテン語の献辞を付けて大王に献呈しました。



献辞の頭文字を繋いだ言葉 RICERCAR (リチェルカーレ)は、「フーガ」様式が出来る前の古い呼び名です。

大王の主題が全曲を通して用いられたこの曲集はその後「音楽の捧げもの」として知られています。

当時の新聞記事や証言が伝えるところによれば、王の与えた主題を用いて即興演奏を求められたバッハは3声のフーガを演奏しました。

6声のフーガの演奏も求められましたがさすがに即興では難しく、自作の主題による即興演奏を行いました。 

のちにその場で果たせなかった6声のフーガを含むこの作品を王に捧げました。

曲集の正しい配列ははっきりわかっていません、出版社や演奏者により順序に違いが生じています。

2曲のフーガはリチェルカーレと題されています。

一曲は3声のフーガで、これが王の前での演奏に近いのではないかとも言われています。もう一曲が6声のフーガです。

10曲のカノンのうち9曲は「謎カノン」と呼ばれる形式で書かれています。
単旋律に記号が付されていて、演奏者はその記号に基づいて曲を完成させなければならないのです。 

また、4楽章からなるトリオソナタが含まれ、これにのみ楽器の指定があります。

音楽の捧げ物
Das Musikalisches Opfer, BWV 1079
トリオソナタ フルートとヴァイオリン、通奏低音のための




信じられないほど美しい曲

2024-11-19 21:01:00 | 国民楽派
月曜日、フルートアンサンブル「エスカル」の練習日でした。
渡辺橋近くのサロン ド
プリンシパル。
定期演奏会が10月20日に終わって、新しい曲を模索中です。

榎田先生に練習前にレッスンしてもらいました。
ロングトーンは女性で45秒は続ける吹き方で練習すること。
基本pianissimoで。
アンブシュアは、できるだけ細い息が出るように…。
私は少し大きいようです。
もう少し締めて、そのためにもビアニッシモのロングトーンの練習がいいそうです。下顎を前に前歯の上下が合うくらい。少し下目に吹くといい音がします。

息も続くし、音量は簡単に上げられます。

タンギングは基本舌が歯の間から外に出るモイーズのソノリテが基本です。
歯の付け根に置くというタンギングは切れが悪いのでしない。
鋭く。
タンギングの音が聞こえるように、ベネットもそうだったそうです。
CDで聴くとそういうことがわからない。
そばで聴くと、汚いくらいタンギングの音がしたそうです。

ヴィヴラート、モデラートの速さで一拍に3回くらい。
波は大きくし過ぎない。

以上を気をつければもっと音が良くなるはず!
ということで頑張ります。

新しい楽譜が来ました。
2曲、来年の定期演奏会の候補曲。

一曲はヘンデルの「アレクサンダーの饗宴」
後一曲はドボルザークの「セレナーデ」
初見大会。
今回はバスフルートを持っていなかったのでどちらもコンサートフルートで2ndを吹かせてもらいました。

榎田先生「ドボルザークにしてはこの曲はいい曲なんだよ。土臭い、田舎っぽいところがなくってね。」

それからマーラーのアダージェットをやりたいというメンバーに
「マーラーは好きじゃないんだよ。情緒的過ぎる、俺はもうちょっと硬いやつが好きなんだ。」

「このヘンデルのようなやつ。」
ですって!
ドボルザークの第一楽章が終わったら
「この曲はね。信じられないほど美しい曲なんだよ。本当はね!」
はい、私たちの演奏ではまだまだです。



アントニン ドボルザーク(1841-1904年)オーストリア帝国ネラボゼヴェス生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国プラハ没

弦楽セレナーデ ホ長調 作品22 B.52 は、アントニン・ドヴォルザークが作曲した弦楽合奏のためのセレナーデ。
この曲はドヴォルザークが33歳だった1875年5月に11日間という短い期間で一気に書き上げました。

ドヴォルザークは2年前(1873年)に初恋の相手だった女性の妹アンナ

と結婚していて、作曲に着手する2か月前には、ブラームス

や音楽評論家ハンスリック

らが審査員を務めるオーストリア政府奨学金の審査に合格、当時の自身の年収の倍を超える額の奨学金を5年間にわたって受給することが決まりました。

当面の生活の安定が約束された状況下で作曲に打ち込むことが出来るという幸福感からこの作品を書き上げています。

この作品を書き上げた翌月(1875年6月)には、スラヴ的な親しみやすい旋律が満載の『交響曲第5番ヘ長調』の作曲に着手して、1か月余りの期間を費やして完成しました。

2年後の1877年には『スターバトマーテル』を完成、さらにその翌年の1878年には『スラヴ舞曲集』作品46を作曲して大ヒットとなるなど、この作品の前後数年間に作曲された楽曲によって国際的名声を得ています。

本作の初演は作曲の翌年、1876年にプラハ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏により行われました。

Moderato
Tempo di valse
Scherzo: Vivace
Larghetto
Finale: Allegro vivace




心肺蘇生法

2024-11-18 21:00:00 | ロマン派
日曜日の朝は実家でレッスンした後、牧野に戻って地元の小学校で「救急救命法講習会」を受けました。

子育てサポートをするので5年に一度位は受けてくださいと言われています。

3度くらい受けていますが、コロナで飛んでしまい、間が空きすぎてしまいました。たにはだ

近くでやってくれるので助かります。
地元の消防団の方が開講してくれました。

もし近くで倒れて意識がなく、呼吸が止まっている人がいたらどうしますか?

1安全を確認
2反応を確認 
3大声で助けを呼びます。救急車やAEDを取ってくるように頼みます。
4呼吸を確認
5胸骨圧迫 30回(一分に100-120のテンポ)
6人口呼吸2回
5 6を救急車が来るまで続けます。

すぐに胸骨圧迫=心肺蘇生法を行うことで生存率がグンと上がるそうです。

胸骨圧迫と言ってもどれくらい押していいのか?
流血していたら?
心臓が止まったら脳に血流がいかないので、とにかく胸骨圧迫をした方がいいそうです。 

赤ちゃんや子どもの場合は?
体の厚みの3分の1まで圧迫。
赤ちゃんは抱いて呼吸ができるようにして指2本を乳首の間の少し下に縦に置き、押すそうです。横に置くと骨が折れやすいそうです😱
 
それでも肋骨がもし折れても、しないよりした方がいいそう。

AEDが来たら、機器の指導に従って電気ショック、心肺蘇生法を続けます。

人形で押し加減がわかりますが、思ったよりたくさん重みをかけて押さなくてはなりません。

AEDは、市役所、学校、コンビニ、駅などに置いてあります。

聞いただけでは加減がわかりません。
みなさんの自治体でも無料…税金で受けられます。大切な人を将来助けられるかもしれません。
受講、お勧めです。

リヒャルト ワーグナー(1813-1883年)ザクセン王国ライプツィヒ生まれ、イタリア王国ヴェネツィア没

は、警察署で書記官を務める父が生後まもなく亡くなり、革命に関わり亡命生活をしたりしました。

不安定な生活を送っていましたが、バイロイト王国のルートヴィヒ2世の寵愛を受け、1876年にはバイロイト祝祭劇場が完成し、ワーグナーの作品だけが上演されることになります。

そのワーグナーは
1883年2月13日、ヴェネツィアに旅行中、突然客死しています。
以前から患っていた心臓発作が起きての死だったと言われています。

彼が、最後に書いていた論文は

『人間における女性的なるものについて』であり、その執筆中に。ワーグナーは死ぬ直前に「われわれはすべてをユダヤ人から借り出し、荷鞍を乗せて歩くロバのような存在である」とも書いていました。

妻のコジマはベッドに横たえられたワーグナーの遺体を抱きかかえて座り、一日中身動きひとつとしなかったとい言います。
遺体はバイロイトの自宅であるヴァーンフリート荘の裏庭に埋葬されました。

バイロイトのヴァーンフリート荘と、裏庭にあるワーグナーとコジマの墓

ワーグナー最後の作品は舞台神聖祝典劇『パルジファル』(Bühnenweihfestspiel "Parsifal" )1882年に完成させた楽劇です。 



全3幕。原語ドイツ語。台本も作曲家自身によります。

初演は1882年7月26日、バイロイト祝祭劇場。

中世(10世紀ごろ)スペインのモンサルヴァート城およびクリングゾルの魔の城。


第1幕
老騎士グルネマンツと小姓たちが傷の治療のために湖へ向かうアンフォルタス王を待っているところへ、呪われた女クンドリが現れ、王の薬を託します。

Willy Pogany ~ Parsifal by Richard Wagner ~ Crowell ~ 1912 ~ via Golden Age Comic Book Stories

かつてアンフォルタス王はクンドリに誘惑され、聖槍を奪われて傷つけられていました。癒えない傷口からは、絶えず血が流れ出し、罪の意識を伴ってアンフォルタス王を苦しめます。

グルネマンツは魔法使いクリングゾルの神託「共苦して知に至る、汚れなき愚者を待て」を聞いていました。
そこへ、湖の白鳥を射落とした若者が引っ立てられてきます。

グルネマンツはこの若者こそ神託の顕現ではないかと期待し、若者を連れて城へ向かいます。

城内の礼拝堂で、聖杯の儀式が執り行われます。しかし、若者は茫然として立ちつくすばかり。グルネマンツは失望して若者を追い立てます。

第2幕
魔法使いクリングゾルの魔の城。
クリングゾルはクンドリに、魔の城に侵入した若者を誘惑し堕落させるように命じます。
クンドリは抵抗しますが、結局言いなりになります。
若者は襲いかかってくる兵士たちをなぎ倒して進むうち、クリングゾルの魔法で、あたりは花園になります。

花の乙女たちが無邪気に舞いながら若者を誘います。
やがてクンドリが「パルジファル!」と呼びかけ、初めて若者の名が明かされます。

クンドリはパルジファルの母親の愛を語り、キスします。ところが、これによって、パルジファルは知を得て、アンフォルタス王の苦悩を自分のものとすします。
なおもクンドリはパルジファルに迫ります。しかし、パルジファルはこれを退けます。

誘惑に失敗したと悟ったクリングゾルが現れ、聖槍をパルジファルめがけて投げつけます。

聖槍はパルジファルの頭上で静止し、パルジファルがそれをつかんで十字を切ると、魔法が解け、城は崩壊して花園は荒野と化します。

第3幕
隠者となったグルネマンツは倒れているクンドリを見つけます。
そこに武装した騎士パルジファルが現れます。
いまやアンフォルタスは聖杯の儀式を拒否し、先王ティトゥレルも失意のうちに没し、聖杯の騎士団は崩壊の危機に瀕していました。

クンドリが水を汲んできて、パルジファルの足を洗い、グルネマンツがパルジファルの頭に水をかける洗礼の儀式をすると、パルジファルもまたクンドリを浄める3人は城に向かいます。
城では、騎士たちの要請によって、先王ティトゥレルの葬儀のための儀式が始まろうとしています。

アンフォルタスは苦悩の頂点に達し、「我に死を」と叫びます。

そのとき、パルジファルが進み出て、聖槍を王の傷口にあてると、たちまち傷が癒えます。

パルジファルは新しい王となることを宣言、聖杯を高く掲げます。
合唱が「救済者に救済を!」と歌う。聖杯は灼熱の輝きを放ち、丸天井から一羽の白鳩が舞い降りて、パルジファルの頭上で羽ばたき。クンドリは呪いから解放されてその場で息絶えます。

第1幕フィナーレ


ギターとコンサーティナーの名手

2024-11-17 21:00:00 | ロマン派
土曜日は今津公民館で西宮ギター練習会でした。

今回は一度も行ったことのないルートで行きました。
京阪天満橋で地下鉄谷町線に乗り換え、東梅田で阪神に乗り換え、直通快速で甲子園口。そこから各駅二駅で久寿川駅。そこで降りて今津公民館へ、

実は久寿川駅からのほうが100mほど近いのです。

しかし、お店が無い。
今津は阪急今津線と阪神が乗り入れているので、駅前はスーパーやコンビニで
にぎやかです。
お昼ごはんを買い損なって…でもそんなこともあろうかとチーズと豆のセット、紅茶の水筒を持参していました。   

それに途中で和蝋燭のお店を見つけました。

ちょっといい感じ。



会場に着いたら豆とチーズを食べて、

ギターの川原久美子さんとドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」イベールの「間奏曲」モーツァルト「フルートソナタop14」を演奏しました。

みなさん、熱のこもった名演ばかり。
私もギターの曲だいぶ覚えました。

ジュリオ・レゴンディ(1822 - 1872年)スイス ジュネーブ生まれ、イングランド王国ロンドン没

ジュリオ・レゴンディ リトグラフ、ヨーゼフ・クリーフーバー作、1841年。

は、ギタリスト、コンサート奏者、作曲家で、フランスと(主に)イギリスで活躍しました。

レゴンディは、スイスのジュネーブで、ドイツ人の母親とイタリア人の父親の間に生まれました。

1831年、フェルナンド・ソル(1778-1839年)

は、天才少年だったレゴンディがまだ9歳のときに、 作品46「友情の思い出」を捧げました。

1831年9月3日、ロンドンのロイヤル・アデルフィ劇場で演奏する若きジュリオ

1831年9歳の時 ロンドン。
タイムズの1831年6月16日、3ページに
「新しい音楽基金 レゴンディという名前の少年が、6歳から7歳の間、ギターでファンタジアを演奏しました。 「彼はピアノの上に置かれた椅子に座っていました。」という記録があり、ギターの神童として紹介されています。

レゴンディのコンサーティーナ(1829年制作)の曲のほとんどはイギリス式のために書かれたものです。

Lachenal の金属製エンドのイングリッシュ コンサーティーナ。

彼はこの分野でも名手でした。

しかし、ギター曲の方がよく知られています。

彼のギター独奏曲は、練習曲集、ベリーニのテーマによる変奏曲、そして5つの大作から構成されています。
 
レゴンディはロンドンで亡くなりました。

ヴェンチェンチオ ベリーニ(1801-1835年)

のオペラ「カプレッティとモンテッキ」は1830年、ヴェネツィア フェニーチェ劇場


で初演されました。

シェークスピアの「ロミオとジュリエット」を下敷きにフェリーチェ ロマーニ(1788- 1856年)

が台本を書きました。

ジュディッタ・グリージとアマーリア・シュッツによる1830年のスカラ座での上演
レゴンディ作曲、オペラ「カプレッティとモンテッキ」の主題による変奏曲 ギター独奏

1845年に作曲されましたが遺失したと思われていました。2007年になって再発見されました。


友情と愛と陰謀

2024-11-16 21:00:00 | バロック
木曜日はピアノの坂田恭子さんと聴き合い会で披露するドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」を合わせました。

夫が、育てているメダカの鉢

坂田さん昨年倒れて入院半年。ようやく最近ピアノ復帰てきるようになりました。
まだ、本調子ではありませんが、姿を見るだけで嬉しいです。

以前のように一緒に紅茶を飲んで、おしゃべりして、練習。  

それだけで幸せです。

ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ(1710−1736年)教皇領イェージ生まれ、ナポリ王国ポッツォーリ没

イタリアのナポリ楽派オペラ作曲家。オペラ・ブッファの基礎を築き、甘美な旋律にあふれたオペラを作曲しました。

短い生涯であったのにも拘らず、古典派音楽の様式を最も早く示した人物として音楽史に名を遺しています。


オペラ「オリンピアーデ」
台本はオッタヴィアーデ

シチョーネ(古代ギリシャの都市国家キシュオン)の僭主クリステーネの娘アリステア
イタリアのコントラルト、テレサ・アルブッツィ・トデスキーニ
アリステア(ドレスデン、1756年)
は、古代ギリシアで行われていたオリンピックの祭典競技で数度にわたって優勝したことのあるアテネの高貴な青年メガークレ

と愛し合っていました。

しかし、アリステアの父クリステーネはアテネを嫌っていたため、メガークレとアリステアとの結婚の許しを与えず、メガークレは失意のなかクレタ島に赴きます。

そこでメガークレは追剥に襲われますが、クレタ島の王子として知られるリーチダ

に助けられ、一命を取り留め、メガークレはリーチダとゆるぎない友情を築きました。

リーチダはクレタ島の令嬢アルケ゚ーネ
アルゲーネ
と愛情で結ばれ、密かに婚約もしていました。

しかし、クレタ王はその結婚が身分違いのものであるとして許ざず、望みを失ったアルケ゚ーネは、祖国を捨て、身分を隠してエーリデへと逃げてしまいます。

エーリデで、アルケ゚ーネはリーチダの一族やクレタ王から身を隠すため、羊飼いの服を着て、「リーコリ」と名を変えて暮らしていたのでした。

エーリデの村では、4年ごとにギリシャ全土から参加者が集うオリンピックの祭典競技が開催されていました。

リーチダは、愛するアルケ゚ーネがいなくなってしまった悲しみを紛らわせようと、これに参加することにします。

リーチダは、メガークレをクレタ島に残し、ひとりエーリデにやってくると、このオリンピックの祭典競技の代表として選出され、シチョーネからエーリデにやってきていた僭主クリステーネと出会います。

クリステーネは、オリンピックの祭典競技の優勝者に自分の娘アリステアをめとらせると決めます。
リーチダは、恋人アルケ゚ーネを忘れてそれを賞賛し、さらにそのアリステア姫を見て、恋に落ちるのでした。 

しかし、リーチダには戦いの経験がなく、優勝には程遠いと感じます。

そこで、オリンピックの祭典競技で優勝経験のある親友メガークレを、自分の身代わりとして戦わせて優勝させることを思いつきます。

しかし、もちろんリーチダはメガークレがアリステアと昔、恋に落ちていたことなど知る由もありません。友であるリーチダからの強い願いもあって、メガークレもエーリデの地に向かいます。

このオペラはここからが始まりです。

第1幕
メガークレは、かつて命を救ってくれた友人、リーチダという名でオリンピック大会に出場するのにちょうど間に合うようにシキュオンに到着します。

かつてクレタ島の王女アルゲーネと婚約していたリーチダは、メガークレとアリステアがすでに愛し合っていることを知らず、その後友人に賞品のことを告げます。

アリステアとメガークレは互いに親しみを込めて挨拶しますが、メガークレは今やリーチダとして競技に参加するという約束に縛られていると感じています。
一方、アルゲーネは羊飼いの女に変装してオリンピアに到着し、リーチダの前に現れます。

第2幕

メガークレがゲームに勝ち、そのまま去ります。
リーチダが彼女を要求しに来ると、アリステアは彼を非難し、変装したアルゲ―ネも同様に彼を非難し、彼を落胆させます。

リーチダの家庭教師は、メガークレは溺死したと報告し、欺瞞を知ったクレイスチーネ王はリーチダを追放します。

第3幕
アルゲーネは絶望したアリステアが自殺するのを阻止し、メガークレは漁師に救われ、リーチダは王の暗殺を企てます。
企ては失敗。
アリステアは父のクリスチーネ王にリーチダのために慈悲を乞い、アルゲーネは彼の代わりに自分を差し出します。

彼女は王女である証拠として、リーチダからもらった鎖をクリスチーネに見せます。

クリスチーネ王はそれが、父親を殺すという予言を未然に防ぐために幼い頃に捨てられた息子のものであると認識します。復権したリーチダはアルゲーネを受け入れ、妹アリステアをメガークレに託し、二組の結婚が祝われます。

アルゲーネのアリア 



調整と無調性

2024-11-15 20:57:00 | 現代
フルートの調子が良くなくて、調整。してもらおうといつもの所に連絡したら、コンサートシーズンで1ヶ月先の予約になりました。

富久田先生にそう言ったら、谷町六丁目駅近くの矢田工房さんを紹介していただきました。

火曜日子育てサロンの後に行ってお見せするとなんと翌日4時には仕上げてくださると言うので

また、電車に乗っていくとキーを全部分解してきれいに全体も拭き上げて置いてくださいました。

全部のオーバーホールに出したような感じ。
しかも、鳴ります。
タンポは6個も破れていて!全て交換していてくださいました。
「半年に1回は見せてください。」って半年に1回は見せていたのになぁ…。

前回よそで5月に調整していただいて11月。半年経ってました。

「タンポが濡れると破れるので、濡らさないように、冬は15分に1回は中を、拭いてください。」
「水は頭部管で止めてください。」とにこにこしながら教えていただきました。

ガンガン吹くので仕方ないと思っていましたが、こまめに中を拭くことでタンポを長持ちさせることができるそうです。
はあ〜!こんなことも知らなかったなんて恥ずかしい。
先生方、そういえばよく拭くなぁ?と思っていました。

しっかり拭いてタンポ長持ちさせようっと。
6個も替えるとさすがにお財布が痛いし…。

楽器の調整が無いと楽器はあっという間にうまく鳴らなくなりますが、
音楽上で調性の破壊は19世紀新しい潮流となって押し寄せました。

無調、無調性(英語: atonality, ドイツ語: Atonalität)とは、調性のない音組織のことです。

無調は単なる調性の否定でなく、
①調的な中心音(特定の主音・終止音)がない、

②和声的な分類体系(トニカ‐サブドミナント‐ドミナント)が働かない。

③全音階的でないといった特色から、旋法性とも分類されます。

西洋音楽の歴史の中で数世紀の時間をかけて築き上げられた「調性」という名の調的な主従・支配関係に基づく音組織を否定し、19世紀末期から20世紀初頭にかけて新たに形成された音組織の概念です。

調性のない音楽のことを無調音楽といいます。

無調に規律と秩序を与えようと創り出されたものに、「移調の限られた旋法」と「十二音技法」があります。

※全音音階は、移調の限られた旋法の一種です。

その一方で、
多調性(複調性・複旋法性)のように、複数の調的・旋法的な音階を同時使用することにより、調的な中心を曖昧にして、伝統的な調性感が働かないように楽曲構成することもあります。

調性感のある音楽は、15世紀後半まで遡ります。

機能和声法(三和音(主和音、和音記号を中心とする和声法)に基づく調性音楽は、17世紀に実践的に形成され、18世紀に理論化されて発達を遂げ、19世紀に様々なかたちで高度に応用されるようになりました。

見方を変えると、19世紀は調体系の変質・崩壊の時期でもあり、エンハーモニック(異名同音)転調と準固有和音・借用和音(他の調の和音を使うこと)・偶成和音の多用(シューベルト、ショパン)、不協和音の解決の遅延または未解決(ワーグナーのトリスタン和音)、旋法(教会旋法・民族旋法)による旋律線と半音階的和声法の結合(ショパン、ロシア五人組、グリーグ、フォーレ)によって、調性の概念が拡張されていきました。

たとえばフレデリック ショパン(1810-1849年)

の《スケルツォ第3番》の導入部のパッセージや《ピアノ・ソナタ第2番》のフィナーレは、「調性の破壊・否定」が意図されたわけではないシェーンベルク にせよ、結果的には調性感がほとんど生じない。伝統的な調性からの逸脱と言われています。

リヒャルト ワーグナー(1813-1883年)

の楽劇『トリスタンとイゾルデ』(1859年)や、ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』(1894年)、シェーンベルクの『浄められた夜』(1899年)の場合も、破壊や否定の意図があったわけでなく、何らかの衝動によって豊かな表現の可能性を追究した結果、調性の拡張・簡略化が付随しました。

意図的な調性破壊の試みは、移調の限られた旋法と同じものが用いられたリスト(1811-1886年)

の『調性のないバガテル』(1885年)に始まります。作品は周知されることなく眠っていました。

本格的に調性が崩壊したのは、20世紀初頭、シェーンベルクら新ウィーン楽派の作曲家が出現した時期です。

《室内交響曲 第1番》(1906年)や《弦楽四重奏曲第2番》(1907~8年)がこの例です。

シェーンベルク

の完全な調性の放棄は、連作歌曲集『架空庭園の書』に始まり、『月に憑かれたピエロ』(1912年)においては、無調と歌唱の実験(シュプレッヒシュティンメ)とが結び付けられています。

シェーンベルクの始めた実験は、その弟子アルバン ベルク(1885-1935年)


のオペラ『ヴォツェック』(1922年)や、 
アントン ウェーベルン(1883-1945年)

の一連の器楽曲や歌曲においても受け継がれます(この3人をまとめて「新ウィーン楽派」と呼ばれています)。

シェーンベルク以外にも、アレクサンドル スクリャービン(1872-1915年)
の後期のピアノソナタ群における神秘和音の使用、クロード ドビュッシー(1862-1919年)


の『帆』(前奏曲集第1巻)における全音音階の使用など、1900年代初頭には、広い意味では無調ともいえる試みがいくつか見られます。

ベラ バルトーク(1881-1945年)

は一時期、ストラヴィンスキーの原始主義音楽とシェーンベルクの無調音楽の両方に影響を受けて、尖鋭的な音楽語法を取っていました(バレエ音楽『中国の不思議な役人』など)。

シェーンベルクが無調に到達すると、「アトーナル」(atonal[e])という言葉が盛んにその説明に使われるようになりましたが、シェーンベルクはこの言葉に、額面通りの「無調」という意 味だけでなく、「没音楽」という揶揄する含みがあることを知っていました。

このためシェーンベルクは、より即物的な「不協和音の解放」という表現を好みました。
「“無調”音楽でなく、無調“音楽”を」とも語っています。

ドイツ語で Atonalität と atonale Musik はほとんど同義ですが、後者の言い方はシェーンベルクの発想をよりいっそう尊重したものとなっています。

アーノルド シェーンベルク(1874-1951年)オーストリアハンガリー帝国ウィーン生まれ、アメリカ合衆国ロサンゼルス没

シェーンベルク(1906年)リヒャルト・ゲルストル作

《室内交響曲 第1番》
1906年に書かれました。
15人の奏者による編成で、管楽器が弦楽器の数を倍も上回ります。
これは当時の常識では考えられないほどに斬新でした。

全奏では非常に鋭い音色になるのが特徴的です。

初演時は非難の嵐でしたが、聴衆の中には新しい響きを評価する者も少なからずいて、居合わせたマーラーなどは毅然とした態度で拍手を続け、野次を飛ばす人をたしなめるあまり、喧嘩になりかけたほどでした。

もっとも、マーラーは「曲のよさはわからないが、おそらくシェーンベルクが正しいだろう」とこの帰途に妻アルマに感想を述べています。

初演は1907年2月8日にウィーンで、ウィーン宮廷歌劇場管弦楽団のメンバーと、ロゼー弦楽四重奏団によって行われました。




フルートトラヴェルソの世界

2024-11-14 21:00:00 | バロック
月曜日の夕方からエスカルのメンバーの今川さんに誘われて有志で出演する今川教室の発表会デモ演奏の練習に行きました。

本町の貸しレッスン室スマイルズに着くと今川さんと田中さんが二重奏の真っ最中。

同じメンバーの田中さんは最近トラベルソを買いました。
今川さんもトラベルソを持っていてその楽器とテレマンの二重奏を披露するのです。
二人とも熱が入っています。

その後、私と今川さんでハイドンの「ロンドントリオ」を一回合わせ、いよいよ垣内さんもはいってドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」フルート四重奏版。

こちらはモダンフルート、パウエル、SANKYO、ムラマツ。

練習の後、近くの焼き鳥屋さんで一杯呑んで帰りました。…私は呑めないので烏龍茶。

普段あまり話す時間が無いのでいろいろ話せて楽しかった〜。
前日の定演の余韻も充分に堪能しました。

焼き鳥屋さんってほとんど入ったことがなかったけれど、安くて美味しいですね。
特に鶏皮揚げが美味しかった。
癖になりそうです。

お腹すきすぎてて写真撮れませんでした。

フラウト・トラヴェルソ(伊:Flauto traverso)は木管楽器の古楽器の一種で、今日のフルート(モダン・フルート)の前身となった横笛です。

バロック期以前には、西洋音楽においてフルートといえば縦型のリコーダーの方が主流であったことから、「traverso(横向きの)」という修飾語を付けてフラウト・トラヴェルソと呼ばれていました。

バロック・フルート(4分割型,上方はピッチの異なる替え管,復元楽器
バロック期における典型的なトラヴェルソにはトーンホールが7つあり、歌口に近い側の6つの穴は、左手の第2 - 4指と右手の第2 - 4指で直接押さえる。最下流の穴には指が届かないので、右手第5指で押すと穴が開くシーソー形のキーが設けられています。
この形態から「1キーフルート」とも呼ばれます。

頭部管・中部管・足部管の3部分に分割されるものと、頭部管・左手管・右手管・足部管の4部分に分割されるものとがあり、キーは足部管に付いています。


モダン・フルートはキーを必ず右側にして構えるが、1キーフルートは足部管を回転させれば左側に構えることもできます。(この場合キーは左手第5指で操作します。)


音域はD4からE6までというものが一般的です。B6までの運指が知られていて、A6あたりまでは出しやすい楽器もあります。

D管であるにもかかわらず、楽譜は実音で記譜されたため移調楽器ではありません。
長調について考えると、D-dur(ニ長調)、G-dur(ト長調)、A-dur(イ長調)は比較的大きな音量で演奏できますが、それ以外の調ではクロスフィンガリングによって出す弱々しく不安定な半音が多くなるため、演奏は簡単ではありません。

五度圏の図で D-dur(ニ長調)から遠い調ほど演奏が困難になっていきます。

モダン・フルートと比べるとシンプルで、複雑なキーメカニズムはなく、頭部管のリッププレートもありません。

外径は全体的にモダンフルートよりも太く、内径は頭部管から足部管に向かってしだいに小さくなる円錐形になっています。

管の結合部はテノンと呼ばれ、糸を巻いてあるものと薄いコルクを巻いてあるものとがあり、適宜コルクグリースを塗布して気密を保ちます。

クラシカル・フルート(6キー)

古典派以降の時代になると、より多くの調に対応できるよう、半音を出すための新たなトーンホールが設けられ、これを開閉するキーが付け加えられていった。さらに、高音域を出しやすくするために管の内径を細めるなどの改変がなされて、変貌していきます。

メイヤー式フルート(10キー)
1847年のベーム式フルートの登場によって、トラヴェルソの時代は終焉を迎えます。
トーンホールの径を大きくして音量を増すなどの改良が加えられた多キーのメイヤー式フルートは、フランスを除くヨーロッパやアメリカで、1930年代まで使われていました。

モダン・フルートは、ほとんどが銀や洋白などの金属で作られていますが、古いものはほとんど木製です。 
フラウト・トラヴェルソの管体の材質としては柘植(つげ)や楓(かえで)、梨(なし)、黒檀(こくたん)、グラナディラなどが用いられます。


木材以外で最も多く使用された材料は象牙で、総象牙製のフルートはとりわけ王侯貴族に愛用されました。

デュモン 総象牙 トラヴェルソ
木製フルートでも、結合部の飾りあるいは補強のために銀や象牙のリングを用いているものがあります。
しかし、象牙は割れやすいので今日まで残っている当時の楽器には、割れを補修してあるものが多いです。

キーは銀や真鍮(黄銅)、洋白などで作られていて、穴を塞ぐ部分には薄いシート状のパッドが貼られて空気漏れを防いでいます。 

パッドの材質は皮などですが、製作者によって異なり、スズ系合金のピューター製の弁を用いるものもあります。

なお、現在はABS樹脂製のトラヴェルソも発売されていて、油を塗布する必要がなく、メンテナンスが容易です。

アクロス フルート 樹脂製

アムステルダムの木管楽器製作家リチャード・ハッカ(Richard Haka, 1645-1705)の作った3分割フルートが、現存する最古のバロック・フルートであるといわれています。

いつ頃誰によって最初に考え出されたのか、確かなことはわかっていません。

ジャック・オトテール(Jacques-Martin Hotteterre,1674-1763,フランス)…通称オトテール・ル・ロマン。オトテール一族はフランスの著名な楽器製作者。3分割式のモデルがよく知られています。

ヨハネス・ヒアキントス・ロッテンブルク(Johann Hyacinthus Rottenburgh,1672-1756,ベルギー)…JHRでなく、IHRと略記されることがあります。

J.H.Rottenburgh 1740年頃 R.Tutz作 つげ 415Hz & 440Hz

ゴットフリード・アドリアヌス・ロッテンブルグ(Godfridus Adrianus Rottenburgh,1703-1768,ベルギー)…ヨハネス・ヒアキントス・ロッテンブルクの息子。GARと略記されることがあります。

G.A.Rottenburgh 1760年頃 R.Tutz作 つげ 415Hz

トーマス・ステインズビー・ジュニア(Thomas Stanesby Jr.,1692-1754,イギリス)…父親のトーマス・ステインズビー(Thomas Stanesby Sr.)も著名な楽器製作者。


ピーター・ブレッサン(Peter Jailliard Bressan,1663-1731,イギリス)…銀象嵌を施した独特のデザインを持つ4分割式フルートがよく知られています。

ヤーコブ・デンナー(Jakob Denner,1681-1735,ドイツ)…父親のヨハン・クリストフ・デンナー(Johann Christoph Denner,1655-1707)も著名な楽器製作者。


アウグスティン・グレンザー(Carl Augustin Grenser,1757-1814,ドイツ)


柘植 復刻

クロード・ローラン(Claude Laurent,?-1848,フランス)…クリスタルガラス製フルートの製作者。今日の木管楽器に広く使われているキーポストの構造を考案したことでも知られています。


ジャック・オトテール(Jacques-Martin Hotteterre,1674-1763,フランス王国パリ生没)

は、マルタン・オトテール(1712年死去)とマリー・クレスピーの息子としてパリで生まれました。

1704年頃、ジャック=マルタン・オトテールは従兄弟のジャックの後任として宮廷の「basse de hautbois et taille de violon」の職に就きました。

オトテールは、フラウト・トラヴェルソの設計に数々の変更を付け加えました。

最も重要なのは、フルートを3つの部分に分け、頭部(マウスピース付き)、胴体(ほとんどの音孔つき)、脚部(いくつかの音孔あり)としたことです。

復刻オトテールモデル アフリカンブラックウッド一部樹脂製象牙に変更可能 オトテール商会
また、彼はオーボエの改良でも知られています。
1708年作曲
フルートトラヴェルソとその他の低音楽器のための最初の作品集



ブエノスアイレスの秋

2024-11-13 21:00:00 | 近代
第二火曜日の10:00〜は、子育てサロンです。
今日はスタッフで元保育士のOさんが手遊びをしてくれました。

「さつまいも ホクホク、パクパク食べちゃった。」と歌ってくれると子どもたちも楽しそうに身体を動かしていました。

「ぽっぽくらぶ」の歌を振り付きで歌いました。
ずっと前にスタッフの1人が、作ってくれました。それをみんなで歌い継いでいます。

手作りのボックスシアターを2人でしてくれました。

緑色のもみじが、「あき、あき、秋の色」

と歌っている間に赤い葉っぱになります。

不思議でしょう?

それから今日はお母さんたちでヒノキの粉を袋に詰めて、ヒノキエッセンスを振りかけてサシェを作りました。

子どもたちはスタッフと遊んでいます。

サシェとっても簡単ですがいい香りがして、防虫効果も期待できるそうです。

スタッフの1人しまさんが、絵本を出しました。
チャイルドブックに載っています。
「どんぐりさんぽ」

幼稚園児対象なので、サロンの子どもたちには難しいので簡単にしながら読んでくれました。
短くしても子どもたちよく見ていましたよ。

アストール ピアソラ(1921-1992年)アルゼンチンマル・デル・プラタ生まれ、アルゼンチン ブエノスアイレス没

のブエノスアイレスの四季はEstaciones Porteñasポルテーニャス駅と言う題名でした、
アストール・ピアソラによって書かれた4曲のタンゴ作品のセットです。

元々は1つの組曲ではなく別々の作品として考えられ、扱われていました 
が、ピアソラは時折それらを一緒に演奏していました。

ヴァイオリン(ビオラ)、ピアノ、エレキギター、コントラバス、バンドネオンの五重奏団のために作曲されました。

アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで生まれた人々を指す形容詞「ポルテーニョ」を用いることで、ブエノスアイレスの四季を印象づけています。

ピアソラが「エスタシオネス・ポルテーニャス」につけた演奏順は、
Otoño(秋)
Invierno(冬)
Primavera(春)
Verano(夏)

Verano Porteño (ブエノスアイレスの夏)
1965 年に書かれ、元々はアルベルト・ロドリゲス・ムニョスの劇「メレニタ・デ・オロ」の付随音楽として書かれました。

Invierno Porteño (ブエノスアイレスの冬)1969 年に書かれました。

ブエノスアイレスの春Primavera Porteña ( Buenos Aires Spring )
1969 年に初演されました。

ブエノスアイレスの秋『Otoño Porteño』 1969 年初演されました。

ブエノスアイレスの秋


クリスマスコンサート打合せ

2024-11-12 21:00:00 | ロマン派
ピアノのTさんと「子育てサロン」のクリスマスコンサートの打合せです。

お昼ごはんを用意しました。
食べた後はお茶。
…ばっかりでは進みません。
まず、クリスマスの絵本に先週考えた音楽をつけるのですが、もともとの文章が長いので短い言葉を考えておきました。

それと音楽を合わせるのですが、頭の中だけでは難しいので今日は当てたい音楽を、録音しました。
使うのは少しでも長めに録音しておいて後でカットしたり繋げたりします。
もちろん手動です。

それがすんだら、聴いてもらいたい3曲。
メンデルスゾーンの「歌の翼に」による幻想曲。

バスフルートでブラームスの子守唄

ヘンデルのフルートソナタ

みんなて鈴を鳴らして合わす「ジングルベル」
いろいろな楽器で合わせる「あわてんぼうのサンタクロース」
グノーのアヴェ・マリアでハラバルーン。
サンタクロースがプレゼントを配る音楽の「クリスマス・キャロルメドレー」
結構な曲数になりました。
Tさんに感謝です。
プログラムはスタッフのYさんが作成してくれます。
プレゼントはOさんがお手伝いしてくれます。
後も
みんなが助けてくれるでしょう。

やっと目処がついてほっとしました。

子育てサロンのクリスマスコンサート
12月10日(火)10:00〜会館との2
入場無料 対象子育て中の保護者と子どもたち。

フランツ リスト(1811-1866年)オーストリア帝国ハンガリー王国ドボルヤーン生まれ、ドイツ帝国バイエルン王国バイロイト没

は、『クリスマス・ツリー』(独: Weihnachtsbaum)を、フランツ・リストが1874年から1876年にかけて作曲しました。ピアノ曲。

この曲はリスト晩年のローマ時代に、孫娘ダニエラ


1873年頃のコジマの子供たち - 左からイゾルデ、エヴァ、ジークフリート、ブランディーヌ、ダニエラ
リストの次女コジマは指揮者ハンスフォンビューローと結婚していて4人の娘がいました。
1870年彼と離婚してワーグナーと結婚しました。ジークフリートはワーグナーとの子どもで1869年に生まれました。
のために作曲したものです。
1980年に、12曲にまとめた版がベーレンライター出版社から出版されました。

この曲は古い民謡や教会の聖歌などを原型としたもので、日本でも1988年に日本リスト協会によって初演されています。

クリスマスツリー
第1曲 古いクリスマスの歌 Psallite ; この楽曲は詩篇歌の歌詞がついていますが、ピアノのみでも弾くことが可能な曲です。

第2曲 おお、聖なる夜! O heilige Night! ; この楽曲も第1曲と同様に、クリスマスの歌詞が付いています。

第3曲 かいば桶をかこむ羊飼いたち Die Hirten an der Krippe  ;  この楽曲はハルモニウムで弾くことも可能です。6/8拍子の曲。この楽曲の動機は、アッシジの聖フランチェスコの太陽賛歌と共通しています。 

第4曲 信者たちよ、キリストへ Adeste fideles ; この楽曲は東方三博士の行進になっていて、今日でも教会で賛美歌として歌われています。

第5曲 スケルツォーソ Scherzoso ; 人々がクリスマス・ツリーのろうそくに火をともします。

第6曲 鐘 Carillon ; 教会の鐘が静かに鳴ります。

第7曲 仮眠のうた Schlummerlied  
第8曲 古い田舎のクリスマスの歌 Altes provencalisches Weihnachtslied  

第9曲 晩鐘 Abendglocken ; リストは青年期から晩年まで鐘をピアノで表現しています。

第10曲 むかし Ehemals  

第11曲 ハンガリー Ungarisch-Natale Ungherese

第12曲 ポーランド Polnisch-Natale Polacco

第11曲と第12曲は技巧的で、それぞれリストとカロリーヌの故郷を象徴しているといます。

第1曲 古いクリスマスの歌 Psallite