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マンドリン アンサンブル フィオーレ ディ オオサカ

2024-07-15 21:00:00 | バロック
14日午後からマンドリンアンサンブルフィオーレ ディ オオサカのコンサートでした。

加えてプロージットオーケストラの練習日。
前回コロナで休み、次回カルテットの本番でお休み。
絶対行かなけれは!

と言っていつも助けてくれる友だちのコンサートも…!
コンサートは淀屋橋フェニックスホールで13:00開演。
オケはミサソレニムスから入るので降り番の私は15:00第9に間に合えばいい。

しかし、場所はなるお会館。
阪神、武庫川女子大学駅前。
どこそれ?という私。
ヤフー路線検索してみたら淀屋橋から50分弱で行けるらしい。

で、フィオーレの第1部を見てから、淀屋橋にと思ったけれど、よく考えたら歩いて梅田まで行って阪神に乗ったほうが早いんじゃないかな? 

googleの中の人は歩くのが早いみたい。
フェニックスホールから淀屋橋まで帰るのに私の足だと10分以上かかります。そこから梅田まで御堂筋線で行って阪神というルートです。

フェニックスホールから直接梅田まで歩いて、そこから阪神に乗ったほうが早い…と思う。たぶん。そちらにかけて、ちょっとドキドキしながら梅田に向かって歩きました。

初めの予定の10分後に出て、阪神梅田で予定の10分前の電車に乗れました。やった!今回は成功。



武庫川女子大学駅に43分に着いて、余裕でオケの練習に間に合いました。
余裕は大事。

残念ながらフィオーレは第1部、終わったところで退出しましたが、

第1部のプログラム

ラニエリの前奏曲
ベルッティのメヌエット
ミユールのメヌエット
ミユールの小組曲「子どもたちの遊び」より
1.踊り
2.人形への子守唄
3.ジロトンド 回れ回れ薔薇の輪に

小品ながら、繊細な表現が必要な前奏曲とメヌエット2曲。
力が抜けて優しい演奏でした。

ミケーリは1889年生まれのイタリアのヴァイオリン奏者で、2人の息子を生後すぐに相次いで亡くし、子どもたちが生きていたらこんなふうに遊びたかったという思いのこもった曲でした。
フィオーレはこういう繊細な曲が本当に素敵です。

第2部は日本を代表する現代音楽の作曲家菅原明朗先生の曲でした。
聴きたかった! 
明朗先生の曲をみんなで演奏させていただいた後に、声をかけて頂いたことがあります。
すごく怖かった!
叱られるのかと思ったら、「頑張りなさい。」でした。

卒業後も関西マンドリン合奏団に川口先生に呼ばれて明朗先生のマンドリンオーケストラ曲のフルートを吹かせて頂いたこともありました。

菅原明朗(1897-1987年)兵庫県明石生まれ、菅原道真の菅原氏の末流。


プロテスタントの幼稚園に通ったことから、明石第二尋常小学校(現在の明石市立人丸小学校)通学中の1908年(11歳)、洗礼を受ける(後年、カトリックに改宗)。

1910年(13歳)京都二中(現在の京都府立鳥羽高等学校)に入学。その時代、陸軍軍楽隊長小畠賢八郎にホルンとソルフェージュを学びました。

1914年(17歳)上京し、1918年(21歳)まで画学校に通うかたわら作曲家の大沼哲に師事し、1915年(18歳)より作品を発表します。

また、大田黒元雄・堀内敬三等の「新音楽グループ」に入り、雑誌「音楽と文学」同人となりました。

1917年(20歳)、
武井守成(1890-1949年)
 
主宰のマンドリン楽団、「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」に入団し、また、「軍艦行進曲」で有名な瀬戸口藤吉に対位法を学びました。

1924年(27歳)初夏より1年あまり同志社大学マンドリン倶楽部の指揮をとり、1926年(29歳)、「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」の指揮者となりました。

この頃から、音楽作品が認められるようになります。
当時のマンドリンオーケストラの編成は巨大化する傾向にあり、菅原の代表作「内燃機関」もフルート、バスクラリネット、トロンボーン、ピアノ、ハーモニウム、打楽器を加えたものでした。
しかし1932年に「雑感」という文章を発表し、本格的な管弦楽の普及により、その代用としての巨大化したマンドリンオーケストラの役割は終わったとして、新しいマンドリンオーケストラの在り方を模索するよう主張し、マンドリン音楽界から去りました。

その一方で1930年(33歳)、私立「帝国音楽学校」

の作曲科主任教授となり、また、箕作秋吉、清瀬保二、橋本国彦、松平頼則ら16人と「新興作曲家連盟」を、さらに、1936年、門下の深井史郎らと「楽団創生」を結成しました。

1938年、歌劇「葛飾情話」の上演後、そのときのアルト歌手、永井智子(1908-1998年)

と結婚。

その後ドイツ系が主流だった当時の日本の洋楽界に、フランス流の新風を吹き込みます。

1930年代中ごろからはイタリア音楽に接近し、チマローザやピツェッティに傾倒しました。
指揮活動は、自作の指揮ばかりでなく、たとえば1942年には、アルチュール・オネゲルのオラトリオ「ダヴィデ王」を松竹交響楽団により日本初演しています。

戦後はグレゴリオ聖歌に影響を受けた作品が多く、またキリスト教に関連する作品も多数残しました。

さらに1963年に神戸で活動する関西マンドリン合奏団

と出会ってマンドリン界に復帰し、最晩年まで関西マンドリン合奏団のために多くの作曲や編曲を行いました。

1967年の最初のイタリア旅行以降、彼はたびたびイタリアに長期滞在し、ピツェッティと親交を深めました。
長寿の最期まで現役で、ハーモニカ奏者の崎元譲やアコーディオン奏者の御喜美江など若い演奏者のために作品を提供しました。

1981年4月、芥川也寸志と新交響楽団による「日本の交響作品展5 菅原明朗」が開催されました。

1988年4月2日、「ヨハネの黙示録」に基づいたカンタータ作曲の途上、亡くなりました。(享年91歳)

2022年のアンサンブルフィオーレ ディ オオサカ演奏の菅原明朗編曲バッハの「パッサカリア」の動画ありました。残念ながら、菅原明朗先生の曲を演奏したフィオーレの動画はありませんでしたので…。









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