実家の木瓜の花。
製薬会社の父と敬虔なローマカトリックの母との間に末っ子長男として生まれました。
プーランクのパリの生家ちかくのソサエ広場
に学びました。
かわいくて好きな花ですが、この鉢はいつもは3月から5月に咲きます。
いろいろ品種によってあるみたいですが…。
フランシス ジャン マルセル プーランク(1899-1963年)
フランス共和国パリ生没
製薬会社の父と敬虔なローマカトリックの母との間に末っ子長男として生まれました。
プーランクのパリの生家ちかくのソサエ広場
ピアノは母から学び、後にはリカルド ビニェシユ
に学びました。
プーランクは、「私は彼を熱狂的に賛美した。1914年時点で我がラヴェルとドビュッシーを弾いた唯一のヴィルトゥオーゾだった。…私がピアノについて知ることは全て彼から学んだ。」
と言っています。
やがてビニェシユはプーランクに作曲を勧め、オーリック、サティの助けを得て成長します。
オーリックは「我が精神の真の兄弟」と呼んでいます。
1917年「黒人の狂詩曲」を発表し、パリで流行りのスラングを入れて作曲し周りを驚かせました。
ストラヴィンスキーはこの曲を出版するように力を貸し、プーランクは生涯そのことを忘れなかったとか。
ラヴェルともこの頃知り合います。
また、この頃からドラングランジユが若い作曲家のために演奏会を開き、これを評論家が作曲家たちを、「コメディア」に「バリ6人組」として掲載します。
オーリック、デュレ、オネゲル、プーランク、タイユフェール、ミヨーの「パリ6人組」はこのコンサートに出ていただけの繋がりであったとミヨーは書いています。
1920年頃はプーランクは両親の遺産でアンドル エ ロワール県に城を購入し、作曲をしやすい環境を用意しました。
名声も高まっています。
しかし、私的には性的嗜好に悩んでいました。
画家のリシャール シャンレールに恋愛感情を持っていて「田園のコンセール」の写譜を贈り「あなたは私の渇きの陽光であり、生きて働く理由です。」とそこに書いています。
同時期に幼馴染のレイモンド リノシエに求婚しています。
リノシエは彼の嗜好を知っていて、他に心惹かれる人がいたために、断っています。
1931年リノシエが32歳で急逝し、プーランクは打ちのめされます。
「墓碑銘」は彼女の思い出のために作曲されています。
1930年頃にはシャンレールとの愛情は友情に変わり、生涯続いています。
32年からは運転手のレイモン デトゥーシユと恋愛関係になり、また、友情関係に変化し、デトゥーシユは50年女性と結婚しています。
1936年作曲家仲間のフェルーが衝撃的な事故で亡くなります。
プーランクはショックを受けロカマドゥールの聖所を訪れ、
「黒い聖母への連祷」「ミサ曲ト短調」「フランス組曲」を書き始めています。
1940年第二次世界大戦で招集され、6月2日ボルドーの防空部隊に所属し、7月18日動員を解かれています。
すぐにフレデレーク(フレディ)レベテフと付き合い1946年マリー アンジュが生まれます。
プーランクは彼女の名親になっています。彼女は第一相続人になっていて、やはり実子だと言われています。
1950年には旅のセールスマンのリュシアン マリウス ウジェーヌ ルベールと付き合います。
「冷気と火」「スターバト・マーテル」など充実した仕事をしています。
1953年映画「カルメル会修道女の対話」に着手します。
しかし、権利衝突とルベールの重篤な病に悩まされます。
1955年にルベールが亡くなり、同じ頃リュシアンも亡くなります。
「カルメル会修道院の女が完成したのは愛しい人が最後に息をした、まさにその瞬間だったのです。」と、書いています。
この頃「フルートソナタ」をストラスブール音楽祭でジャン ピエール ランパルとの共演で初演しています。
そして退役軍人ルイ ゴーティエと恋に落ちます。
仕事は、順調で1958年コクトーと協力し、モノドラマ「人間の声」を初演しています。
アメリカに演奏旅行に出たりしています。
1963年パリの自宅で心臓発作で亡くなります。生涯独身でした。
ホント、すばらしい曲ばかりだと思います。