町田営業所業務日報

地元周辺の鉄道・バス車両について気紛れに綴ります。

秩父路に転じた元都営車・秩父鉄道5000系(東京都交通局6000形)

2025年02月01日 | 関東地方の中小私鉄

都営地下鉄三田線は、1968年に都営6号線として開業以来6000形電車により運転されており1993年6月22日より2代目車両の6300形の導入で初期の非冷房車より置き換え廃車が発生するまで主力車両として運用が続きました。一方で冷房化改造・車体修繕を実施した車両については更に改造を施して継続使用することが検討され一時的に置き換えが停止するも1990年に制定された「相互直通運転における東急目黒線・南北線・三田線・埼玉高速鉄道線との車両申し合わせ事項」にて三田線もホームドア設置の上でATOによるワンマン運転実施が決定し、6000形についてはこれに伴う改修費用が6300形新造に匹敵することが判明したため1999年で全面置き換えとなり同年11月に引退となりました。引退後は熊本電気鉄道、秩父鉄道とODAの一環でインドネシアのPT Kereta Api Indonesia(現在は現.PT Kereta Commuter Indonesiaに譲渡されますが、熊本電気鉄道では廃車が進行し2両1編成を残すのみ(2024年12月時点)となり、インドネシア譲渡分は保存車両1両を残し全廃となっていますが、秩父鉄道譲渡分は現在も3両編成3本のが都営地下鉄時代の面影を残しながら活躍しています。

秩父鉄道に譲渡された6000形は、形式を新たに5000系とされ1999年当時に在籍していた元東急7000系の2000系置き換え用として入線し、3両編成4本の12両が広瀬川原車両基地に配属(車籍無しの部品供給用中間車2両も同時に譲渡)されました。いずれも1972年の三田・日比谷延伸で増備されたグループで、アルナ工機で製造されています。なお5004編成については2011年11月1日に樋口〜野上間の踏切でダンプカーと衝突する事故に遭ってしまい、デハ5004が大破したことから復旧されることなく廃車となってしまいました。

秩父鉄道入りに当たっては、3両編成を組成し三峰口側の1両を制御車化、ATS・無線装置交換、側面に社紋設置、ワンマン運転対応機器設置、ドア半自動機能追加と手掛け増設、中間車となるデハ5100へパンタグラフ増設が実施されました。外観は三田線時代の青帯を踏襲しているので、三田線時代とあまり変わらない姿で運用が続いています。

都営三田線といえば、現在は東急目黒線・新横浜線と相互直通運転を実施していますが、かつては高島平から東武鉄道の支線(高島平線)に接続し和光市(計画時の名称は大和町)より東上線と直通、更に泉岳寺〜桐ヶ谷間の未成線である東急泉岳寺線を介して大井町線方面に直通する計画が存在していました。しかし東急は銀座線方面との直通に突如計画を変更(後に半蔵門線へ更に変更)、東武鉄道側が営団地下鉄(現在の東京メトロ)有楽町線に直通先を変更したため何れも頓挫したことが有名ですが、秩父鉄道に移籍したことにより寄居駅で東武東上線と並ぶことになりました。また、この5000系により置き換えられた元東急7000系の2000系は東急目黒線の前身である目蒲線で運用されていた車両で大井町線に配置された時期もあるなど、偶然とはいえ因縁めいた顔合わせが実現したのは興味深いところです。

車内設備も暖房が強められた以外はほとんど変化しておらず、三田線から引退した当時のままとなっています。ドア部分には都営地下鉄時代の旧デザインのステッカーが広告部分を切り取り半円で残されたのが面白いですね。

登場から50年以上が経過しており、他社譲渡分は全廃ないし1編成を残すのみとなりましたが、この秩父鉄道の5000系は果たしていつまで活躍できるのか、また置き換えられるとしたらどんな車両がやって来るのか興味が尽きないですね。


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