町田営業所業務日報

地元周辺の鉄道・バス車両について気紛れに綴ります。

ロマンスカーミュージアムの展示車両(5)20000形RSE

2021年04月27日 | 小田急電鉄

HiSEと同時に引退した水色のカラーリングが印象的な御殿場線直通用の20000RSEは先頭車デハ20001+サハ201512両がミュージアム入りしました。デハ20301は残念ながら他車同様に整理の対象になり解体されています。

連接構造の他形式と異なり、ロマンスカーとして初めて20メートル車体の連結車として、また唯一ダブルデッカー形中間車を連結する車両でJR東海から直通して来る371系と共に一際目立つ存在でした。こちらも19801990年代初頭に流行したハイデッカー構造による眺望が売りでしたが、バリアフリー化の並みには贖えず引退になりました。現在は第2編成が富士急行に譲渡され8000系として、元371系の8500系と共にフジサン特急で活躍しています。

見えにくい位置ですがダブルデッカー形中間車のサハ20151。サービスコーナーと2階部に大型シート、1階部分にはセミコンパートメントを設けています。客室内立ち入りは出来ませんが、デッキ部より見ることが出来ます。

小田急のファーストクラスをテーマに掲げた2階部のピッチが広い座席。座席毎に液晶テレビや読書灯・アテンダント呼び出しボタンを設置するなどバブル期らしい豪華な設備が目立ちました。

立ち入りと着席が可能なデハ20001車内。展示に当たりリクライニング・回転機構は撤去され、テーブルも固定化され引き出せなくなっています。

どちらかと言えば博物館というよりはテーマパークの色合いが濃いロマンスカーミュージアムですが、個人的には機械遺産的価値が認められて永久保存を決定したSE車を解体してまで収容する必要はあったのか…?とやはり疑問でした。小田急=ロマンスカーのイメージが浸透しているので重要な位置付けなのは分かりますが、SEの代わりに3両もいる通勤車の保存車を収容するのではダメだったのだろうかと今更ながら思わずにはいられません。また館内にはもう1両が入りそうなスペースがあり、展示する形式が更に増えるのか、またリニア・鉄道館のような(あちらは事情は違いますが)車両入れ替えなども有り得るのか注目したいところです。

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ロマンスカーミュージアムの展示車両(4)10000形HiSE

2021年04月25日 | 小田急電鉄

2012年に20000RSE車・通勤車両初代5000形と共に引退したかつての小田急のイメージリーダー、10000形はデハ10001号車のみが残されました。こちらも当初はサハ10003+デハ10011を含めて3両が保存されましたが、先頭車があれば良しと判断されてしまったようです。

シャープなスタイルの前頭部で登場から33年が過ぎても陳腐化しないHiSE50000VSEが登場するまでは長らく箱根特急のシンボル的存在でした。ハイデッカー構造で眺望の良さがセールスポイントだった10000形ですが、交通バリアフリー法ではこの構造が仇となり引退を早めてしまいました。

現役時代は幌で覆われていた為、乗客視点では見る事が出来なかった妻面と連接台車。しかし車体が短いせいもあってか、1両だけにされると頼りなく見えてしまいます

HiSERSEと共に車内への立ち入りと座席への着席が可能になっています。座席は太陽をイメージした赤色と芦ノ湖や江ノ島の海をイメージした青色の2種類があり、編成両端の6両と中間5両で配色を変更していました。

展望席部分は赤と青の座席を組み合わせて交互に配置しています。右は写真による解説が載せられているように乗務員室へ上がる為の梯子で、運転士はここから上部のハッチを開けて運転席に着席していました。

先頭車だけになってしまったのが些か残念ですが、長野電鉄に譲渡された4両2編成が1000系として今でも現役なのがせめてもの救いです。

 

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ロマンスカーミュージアムの展示車両(3)初代3000形SE車

2021年04月23日 | 小田急電鉄

長らく海老名電車基地の格納庫で保管されて来た初代3000SE車も収蔵され、常時その姿が見られるようになりました。日本では初となる本格的特急車として、登場時の1957年当時狭軌鉄道では世界一の145キロを記録し新幹線開発の基礎を築いた極めて重要な車両でもあり、ロマンスカーミュージアムの展示車両の中でもハイライトと言える存在です。

登場直後の姿に復元された新宿側のデハ3021+3022。引退以来ずっと保存用の車庫の中に収容されていましたが、初めて太陽の下に姿を見せたのは2007年のファミリー鉄道展でのことでした。

小田原側のデハ3025は御殿場線直通改造・5両編成化後の馴染み深いスタイルです。本来はサハ3023とデハ3024を含む3両が晩年の姿でしたが、この2両はミュージアムへの収容に当たって解体されてしまいました。

NSEと共に小田急ロマンスカーの名を全国に広め不動の地位を確立したこの2形式はマスメディアへの露出も多かった為、昭和世代にとって小田急の特急といえばこの2形式というファンも多いのではないでしょうか。

回転式クロスシートが並ぶ車内。1984年の車体修理後の為、登場時とは座席や化粧板の配色が異なるほかファンデリアに代わり冷房が設置されています。車体のみならず座席も旅客機に設置される物を参考にし極限まで軽量化に拘った仕様になりました。日本の鉄道のだけでなく、産業考古学上も極めて重要な車両ですが、引退が始まった頃は保存計画が無く後に役員会議で決まったのだそうです。

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ロマンスカーミュージアムの展示車両(2)3100形NSE・7000形LSE

2021年04月21日 | 小田急電鉄

ヒストリーゾーンを抜けると歴代のロマンスカーギャラリーへ続き、新幹線開発の基礎にもなったSE車、展望席を設置してロマンスカーの地位を不動のものにしたNSE車、SE車の代替を兼ねて更なる快適性向上を図り近年まで活躍したLSE車が3車種並んで来場者を出迎えています。3100形NSE車(写真中央)は展示に当たって片側の先頭車の愛称表示を車体修理前の五角形に復元しました。

奥の3000形SE車と3100形NSE車は車内(連結部付近のみ)に立ち入ることも可能ですが、7000形LSEは残念ながら車内は通常非公開となっています。

3100NSEはデハ3221+デハ3223+デハ32313両、7000LSEはデハ70031両が収容されました。しかし7000形についてはラストラン編成でもトップナンバーでもないところが「?」です。

1999年引退時の表示が存置されている反対側の先頭車。この車両の引退時、箱根振興やロマンスカーの地位向上に多大な貢献をしたとして運用離脱後も11両フル編成で暫く保管されていました。しかし長編成の保存は難しく中間車5両が後に解体され、6両編成での保存になり時折海老名電車基地の公開時に展示されていました。しかし、2017年に増発に伴う留置スペースの不足から保存車の一部解体が発表され、3100形は中間車3両が処分されることになってしまいました。6両での営業運転を実施したこともあり現役当時を彷彿とさせる姿で保管されていましたが、パンタグラフを搭載する車両が全て処分された為プラレールのような少々残念な姿になってしまっています

車内は1984年より開始された車体修理施行後のワインレッドの座席モケットです。座席はリクライニング機構こそありませんが、私鉄の特急としては非常に高い水準でした。

※次回へ続く

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祝・ロマンスカーミュージアム開館!展示車両観察

2021年04月19日 | 小田急電鉄

20184月に建設が発表され、私鉄では随一の規模の展示施設として注目されていた小田急電鉄のロマンスカーミュージアムが19日に開館しました。これまで小田急電鉄では多数の保存車を持っていましたが、公開はイベント時に限定されており2010年代に入ってからは現役の車両を展示することが増え見る機会が減少していました。今回のミュージアム開館でSE車からRSE車までの特急車と、開業時の車両である1形電車が常時公開になっています。筆者も見学に行って来たので、館内の展示車両を載せて行きます。

1階・ヒストリーシアターには開業時の車両であるモハ1形電車が。ここでは小田急の歴史を映像で振り返るコーナーになっています。

この車両は小田急での運用終了後に熊本電気鉄道に譲渡され、引退後再び小田急に買い戻され1984年に復元・保存されたものですが近年はファミリー鉄道展でも姿を見せなくなっていました。画像を見ても分かるように、写真撮影には余り適さない配置なのと館内の外に出ることはなく、太陽の下で見れなくなってしまったのが残念であります…。

車内を見ることも出来ますが、劣化防止ということもあってか立ち入りは出来なくなっています。反対側は木製のブラインドが全て上げられた状態になっていました。

側面には新宿⇔稲田登戸(現・向ヶ丘遊園)間のサボが設置されていました。この電車の現役当時だった1920年代は各停は稲田登戸までの運転とされ、小田原までは直通と称する種別でした。

※次回へ続く

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