ウード奏者 松尾 賢 のブログ(アラディーン主宰者)

ウード奏者、ダラブッカ奏者、サズ奏者、歌手、アラブ、トルコのオリエンタル音楽演奏家・作曲家である松尾賢のブログ。

イスラムの友人との語らい

2006-08-11 18:08:47 | 音楽

エジプトはカイロで友人になったインドネシア人の友達がわざわざ東京に出向いてくれました。

久々に会った感動とともに、いろいろと話し込みました。

話が進んだ後、私は何気なく「なぜアラブでテロリストが生み出されるのか?」と質問したところ、思いがけず、彼からいろんな意見が出されました。

その内容は非常に幅広く、ここでは細かく書けないのですが、要は彼曰く、「イスラムはテロリストを生み出すというイメージを世界的に作り上げられている。確かにそういった過激派はいる。しかし、テロリストという言葉の定義から言わせると、イスラエルやアメリカこそが最大のテロリストではないか?」ということでした。

なるほど、確かに自分が何気なく投げかけた言葉はいわゆる西側の報道に即した質問だったな、と反省しました。

今、イスラエルが「自衛のため」という大義名分でレバノンを攻撃、破壊活動をし、人を殺しています。

彼曰く、イスラエル側が逮捕、抑留している「危険分子であるパレスチナ人、レバノン人」の数は優に1万人を超えているのに対し、レバノン側が逮捕、抑留している「危険分子であるイスラエル人」はたった2人であるとか。

テロリストについての議論はさんざん盛り上がりましたが、ではどうやったらそういったテロリストたちはいなくなるのでしょうか?

また、1部の権力者たちが作った、このような複雑に絡み合った憎悪の連鎖をどう断ち切るのか?どうやって解決するべきなのか?

たぶん、一瞬にして問題を解決する方法は全くないでしょう。

しかし、だからといって解決方法が全くない訳ではないと思います。

こういった複雑な問題が出てきたとき、私は仏教徒なので、仏教の叡智を借りて考えるのですが、以下の方法が根本的な有効策であると思うのです。

1.イスラエル人であろうと、レバノン人であろうと、とにかく戦争をなくしたい、という人々が世界中から集まって仲良くなる努力をする。

2.そして、そういった人々は勤めて健康に配慮し、生命軽視の野蛮人たちより長生きし、また友好平和を求める新しい世代を育てて彼らよりも人数を増やしていく。

時間がかかるかもしれませんが、これがもっとも有効ではないでしょうか?

敬虔なイスラムの彼も敬虔な仏教徒である私の案に笑って同意してくれました。

ヒズボラにしろ、イスラエルにしろ、生命を軽視していることについてはまったく同レベルです。

今から空爆するから逃げなさい・・、なるほど極限の状況下でのささやかな親切心かもしれません。本心では戦争をしたくないのに軍隊に所属しているから任務という形で戦争に参加している人々ももちろんたくさんいるでしょう。

そういえばトルコに行ったとき、トルコでも兵役があって、その兵役を終えたトルコ人からいろいろ質問攻めにあいました。

特に「戦争をしなければならないとき、お前は命をはって国を守れるのか?」という質問を受けました。

その時の私の答えは

「まず、戦争というものは良くない。何故なら、もし君の国と私の国が戦争を始め、お互いが戦場であったなら、きっと殺しあわなければならなくなる。」

「では戦争をどうしてもしなければならない状況にいたならば、自分は絶対に生きて帰って、戦争終了後平和活動に人生を捧げるだろう。」

この答えにいたく感心してくれたみたいで、彼は、兵役を終えたものに渡される勲章を私にプレゼントしてくれました。

残念ながら、日本の神風特攻隊を美化する傾向が、アラブやトルコなどにはあるのですが、私から言わせれば、神風特攻隊は、低劣・愚劣の極みである日本軍国主義者の犠牲者でしかありません。

彼らが生き残っていれば、あるいは日本の発展に貢献する重要人物になっていたかもしれないのに・・・。

この「生命をあたかも道具のように使うという考え方」を根本的に否定する努力が、平和を創造し維持していく直道だと思うのです。

究極を言えば「生命軽視の考え方」は、わがままな利己心でしかなく、他人はどうでも良い、という所から発していることになります。

これは「あいつは利用価値があるからやつと仲良くしてやろう、あいつは歯向かうから痛めつけてやれ。」という考え方も一緒ですね。

その逆に、想像できる最大の範囲内にいる他の人たちのことを考え、意見が合わない相手には真摯な対話を通してすり合せをし、お互いに最大に力を発揮できるように楽しく物事を運んでいく。

これこそが平和を希求する生命の究極の力であり、人間らしい平和裏な生き方ではないでしょうか?

と、短い間ではありましたが、非常に濃い平和への思索と実践の時間を得ることができました。

こういった対話のできる友人をもてる、ということは本当に素晴らしいことですね。

彼はまたカイロに戻るそうですが、また会える日を楽しみにしています。