一年のうち、夏はゆっくりしよう。
あるいは、いつもより、楽しむ機会をたくさん持とう。
そういう原則が、アメリカンの旦那の心の遺伝子には、深く深くインプットされている。
金曜日の夕方はバタバタしない、働かない、というのと同じように。
極小自営の夫婦にはだから、夏という季節は、恐ろしくもあり楽しくもある。
こちらがフル開業してても、患者さんや生徒が、家族もろともどこかへ行って、そこで長~いバカンスを楽しんだりするし、
町に居るとしても、夏休みモードで、心がどこか上の空で、キャンプなんかもちょこちょこ入ったりして、スケジュールを組み立てるのに一苦労する。
けれども今年の7月は、ほんの数人の生徒たちが休んでいるだけで、なかなかの盛況振り。
なのでけっこう、ゆっくりしたり、よけいに楽しんだりするのは難しくて、相方の夏モードに合わせるのが、ちょいとしんどかったりする。
うちから電車でもバスでも車でも、ほんの30分弱で、ヒョイッと直行で行けるマンハッタン。
用事がてらではあるけれども、偶然にどちらも仕事が入ってなかったので、ぶらぶら回ることにした。
ニューヨーク・ペンシルバニア駅からの出口。

全然スッスと歩いてくれない妻に、かなり嫌気が差している夫の後ろ姿。

げげっ!

聖フランシス・アッシジ教会の一角でした。


出掛けに慌てて、沸騰させたミルクがいっぱい入っていたコーヒーを、テーブルの上にぶっちゃけてしまい、
けれども電車の時間が迫っていて、ろくに拭き取る間も、もちろんなにか食べる間も、さらにもちろんコーヒーを作り直して飲む間もなく来たので、
通りの簡易屋台のサンドウィッチ屋さんで腹ごしらえ!

ひと昔前、旦那が開業したての時に、間借りして治療していた懐かしのビルディング。

ブルームバーグ元市長が、任期最後に取り付けた、貸し自転車。平日だからか、この地域だからか、ほとんど使用されていない。

我々ふたりの一番のお気に入り、ル・パン・コティディアン(日々の糧という意味)に入り、


わたしのカメラを見て「写真家?」と聞いてきたウェイターさん。
「いえいえ、ただの写真を撮るのが好きな人です」とわたし。
「ボクはね、休みとかに結婚式の撮影をしてんだ。それを編集するのにどえりゃ~時間がかかるんだけど、けっこういい収入にはなるね」
それから延々と、カメラのこと、編集するのに使っているウェブサイト、どういう撮り方をしてるのかなどなど、熱く語ってくれた。
窓の外を見ると、あ、使ってる人がいる!

ル・パン・コティディアンのすぐ隣の、きちんとした物を売っていそうなキッチン(←シャレのつもり)用具店。
これまでに何回も買い直してきた胡椒挽き。もういい加減、長持ちするのを買おう。
ということで、なんと37ドルも払ったプジョーの胡椒ひき……でも、故障した時の対応が、めちゃくちゃしっかりしている会社らしい。

外に出ると……エンパイア・ステートビルディングの背が、いつもより低く見える……なんで?

アイアン・ビルがこんなド近所だったとは……。

旦那推薦のビルのコントラスト。

旦那が、次の行き先を探索している隙に。

8月の第二週目はまるまる、旦那家族総動員で、ニュージャージーの南端にある海辺で過ごす。
その1週間の間は、食事当番と洗いもの当番の日を除くと、小さな子がいない旦那とわたしは、ほぼ自由にしていられるので、
寝そべることができる所ならどこでも、海辺でもソファでも床でも、好きな場所に本を何冊か持ってって、ダラダラと読みふける。
なのに、まだ読んでいない本が無くなってしまった!
なので、BOOK OFFに行くことにした。
店に向かってテクテク歩いていると、図書館が見えてきた。
今まで何回もこの前を通ったり、階段で休憩したり、前のテラスで食事したりしたけど、まだ入ったことなかったやん……。
入ってみよう!

外からでも充分デカいのは分かってたけど、中もデカい!ほんでもって大理石がふんだんに使われていて、重厚で美しい。
二階に上がると、図書館の歴史が展示されていて、

さらに三階に上がると、

図書館というより美術館?

三階の閲覧室。『The Day After Tomorrow』という映画では、ここが冷凍庫のようになってしまっていたような……。

けどさ~……本はどこ?図書館やのに……。
ということで、近くに居た係員さんに尋ねてみた。
「このニューヨーク公共図書館は、世界屈指の規模を持っていますが、総合的な教育と研究機関として機能していていて、
なので、「公共図書館」と名付けられてはいるけれども、設置主体は独立の法人で、
だから「公共」というのは、一般公衆に対して開かれたという意味からつけられたのであって、
誰でも本が借りられる普通の図書館、というのではないのです」とのこと。
なるほど……しかも、ここの財政的基盤は、民間の寄付によって成り立っていると聞いてさらにびっくり!
本はあきらめて(というか、もともと借りられるとも思ってなかったけれども)、見学終了。


図書館前のテラスで。けっこうふられ続けているのにも関わらず粘っていた鳩(♂)さん。

BOOK OFFに到着。1ドル均一から数冊、ちょっと張り込んで5ドルのを数冊。これで海辺の1週間は完ぺき!

ずっと歩き続けている上に、重い荷物がじょじょに増えてきて……それでも写真を撮りたいわたし……。



大好きな公園『ブライアン・パーク』

ここでお弁当を半分こして。

家に戻り、シャワーを浴びて、歩美ちゃんから教えてもらっていた『ガザ攻撃抗議集会』に。


歩美ちゃんは、イラクの子どもたちの寄せ書きを刺繍したキルトを掲げ、静かに立っていた。

ここは、今の家に引っ越すまでの9年間、息子たちと4人で暮らしていた町の本通。

通り過ぎる車の窓から手を伸ばし、あるいはクラクションを鳴らして、あんたたちに賛同してるよ!という気持ちを伝えてくれる人たち。

そうだよ、愛だよ、武器なんか捨てて話し合おう。

パキスタンからの人たち。
近くを、3匹の犬の散歩で通りかかった男性が、急に声を荒げて何かを言い始めた。
その彼に、大声で返事するパキスタンの女性。
わたしの背後では、拡声器を使ってスピーチが行われていて、その会話をきちんと聞くことができなかった。

彼は家族に会えないでいる。電話の向こうで、幼い子どもたちが、帰ってきてと泣き叫んでいるのを聞くしかできないでいる。
パキスタン人だから。
その不条理、不幸を訴えていた。
パキスタン人もイスラエル人も、和平を願っている人はたくさんいる。
けれども一方で、ネットなどで伝えられているように、小高い丘の上に飲み食いできる物を持参して、ガザの爆撃を見物しているイスラエル人がいて、
自衛などという理由で、途方もない量の兵器を使うチャンスを、イスラエルに与える手伝いをしているパキスタン人がいる。
権力とカネを持っていれば、愚かさに数などは必要ではない。
その愚かさは、大きな破壊力と影響力を持っているので、愚かではない人たちにまで、愚かだというレッテルが貼られてしまう。


彼女は最後の最後まで、ピースサインを掲げながら、メッセージを送っていた。

歩美ちゃんが、彼(Ayuman)のスピーチの内容を、Facebookに載せてくれていた。
ここに転載させてもらう。
『昨日のVigilには、ガザから留学しているAyumanが参加してくれました。
ガザに残した妻子と、36時間連絡がつかない状況で、憔悴して、スピーチも用意していませんでした。
だからその場で、彼の訴えた言葉のひとつひとつは、心からの叫びなのでした。
わたしはそれを聞いて、涙をこぼしました。
「ニュースで皆さん、ガザの攻撃を聞いています。
ここの通りを過ぎる人たちにとって、犠牲者はただの統計、数にしか感じられないのでしょうが、
私たちにとっては家族、友だち、一人一人の顔なのです。
パレスチナ人と言うだけで、どこへ行ってもテロリスト扱いされるのです。
最後に家族に電話したときは、子たちが、電話口で、恐怖で叫んでいるのが聞こえました。
どんな子どもも、平和に生きるように、この世に生まれたはずです。
私は、家族のもとに今すぐ帰りたい、家族を守りたい!
でも、私が飛行機で行っても、エジプト政府は私を通過させません。
私は収容所に入れられてしまう。
それは、私が、パレスチナ人だからです。
私は、イラクにも住んでいたことがあります。
しかし、アラブ社会でさえ、”パレスチナ人”を、テロリストだと差別します。
私は、West Bankに親戚がいます。
ガザ地区からたった20分のその場所に、私は30年間行けない、親戚に会うことができないのです。
イスラエルの検問を、通ることが出来ない。
それはわたしが、パレスチナ人だからです。
私はガザで、イラクで、戦争の恐怖を何度も味わい、トラウマになっています。
私の子どもたちには、そのような恐怖を味わってほしくないのです。
ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、皆一緒です。
私たちは、平和のうちに生きたい。自由に生きたい。
ただそれだけです」
Ayumanの奥様と子どもたちが、無事でありますように。
攻撃が無くなり、多くの人たちが、暴力から和平という、本当の勇気に目覚めますように。
皆さんも、自分の選挙区の議員に電話を掛け、イスラエルの攻撃支持を辞め、今すぐ和平に取り組むよう、
イスラエルへの軍事支援を辞めるよう、要求してください』
↑以上、転載おわり
近くで待っていた旦那と合流。
なにやら近所の公園で、ずっと延期されていた『独立記念日』の花火が上がるらしいという情報を、フェイスブックでゲットした旦那。


あの日は、ショーティが逝って、花火どころではなかった。
いろんな町のいろんな場所で上げられている、花火のにぎやかな音を聞きながら、ずっとメソメソ泣いていた。
これはだから、ショーティからの贈り物『花火』だ。
一旦家に戻り、蚊対策の長袖長ズボンに着替え、いざいざ出発!
5年前までしょっちゅう散歩していた通りに車を停め、公園の中にぐんぐん入って行くと……うわっ!いっぱい人がいる。

花火は多分、この野外コンサートが終ってから、だと思っていたら、上がった!

我々は、人ごみを避けて、空き空きの芝生の丘に寝そべって観た。




彼女が居なくなってしまってから、3週間経った。
まだ3週間なのか、もう3週間なのか、
いずれにせよ、淋しいことにはかわりがない。
あるいは、いつもより、楽しむ機会をたくさん持とう。
そういう原則が、アメリカンの旦那の心の遺伝子には、深く深くインプットされている。
金曜日の夕方はバタバタしない、働かない、というのと同じように。
極小自営の夫婦にはだから、夏という季節は、恐ろしくもあり楽しくもある。
こちらがフル開業してても、患者さんや生徒が、家族もろともどこかへ行って、そこで長~いバカンスを楽しんだりするし、
町に居るとしても、夏休みモードで、心がどこか上の空で、キャンプなんかもちょこちょこ入ったりして、スケジュールを組み立てるのに一苦労する。
けれども今年の7月は、ほんの数人の生徒たちが休んでいるだけで、なかなかの盛況振り。
なのでけっこう、ゆっくりしたり、よけいに楽しんだりするのは難しくて、相方の夏モードに合わせるのが、ちょいとしんどかったりする。
うちから電車でもバスでも車でも、ほんの30分弱で、ヒョイッと直行で行けるマンハッタン。
用事がてらではあるけれども、偶然にどちらも仕事が入ってなかったので、ぶらぶら回ることにした。
ニューヨーク・ペンシルバニア駅からの出口。

全然スッスと歩いてくれない妻に、かなり嫌気が差している夫の後ろ姿。

げげっ!

聖フランシス・アッシジ教会の一角でした。


出掛けに慌てて、沸騰させたミルクがいっぱい入っていたコーヒーを、テーブルの上にぶっちゃけてしまい、
けれども電車の時間が迫っていて、ろくに拭き取る間も、もちろんなにか食べる間も、さらにもちろんコーヒーを作り直して飲む間もなく来たので、
通りの簡易屋台のサンドウィッチ屋さんで腹ごしらえ!

ひと昔前、旦那が開業したての時に、間借りして治療していた懐かしのビルディング。

ブルームバーグ元市長が、任期最後に取り付けた、貸し自転車。平日だからか、この地域だからか、ほとんど使用されていない。

我々ふたりの一番のお気に入り、ル・パン・コティディアン(日々の糧という意味)に入り、



わたしのカメラを見て「写真家?」と聞いてきたウェイターさん。
「いえいえ、ただの写真を撮るのが好きな人です」とわたし。
「ボクはね、休みとかに結婚式の撮影をしてんだ。それを編集するのにどえりゃ~時間がかかるんだけど、けっこういい収入にはなるね」
それから延々と、カメラのこと、編集するのに使っているウェブサイト、どういう撮り方をしてるのかなどなど、熱く語ってくれた。
窓の外を見ると、あ、使ってる人がいる!

ル・パン・コティディアンのすぐ隣の、きちんとした物を売っていそうなキッチン(←シャレのつもり)用具店。
これまでに何回も買い直してきた胡椒挽き。もういい加減、長持ちするのを買おう。
ということで、なんと37ドルも払ったプジョーの胡椒ひき……でも、故障した時の対応が、めちゃくちゃしっかりしている会社らしい。

外に出ると……エンパイア・ステートビルディングの背が、いつもより低く見える……なんで?

アイアン・ビルがこんなド近所だったとは……。

旦那推薦のビルのコントラスト。

旦那が、次の行き先を探索している隙に。

8月の第二週目はまるまる、旦那家族総動員で、ニュージャージーの南端にある海辺で過ごす。
その1週間の間は、食事当番と洗いもの当番の日を除くと、小さな子がいない旦那とわたしは、ほぼ自由にしていられるので、
寝そべることができる所ならどこでも、海辺でもソファでも床でも、好きな場所に本を何冊か持ってって、ダラダラと読みふける。
なのに、まだ読んでいない本が無くなってしまった!
なので、BOOK OFFに行くことにした。
店に向かってテクテク歩いていると、図書館が見えてきた。
今まで何回もこの前を通ったり、階段で休憩したり、前のテラスで食事したりしたけど、まだ入ったことなかったやん……。
入ってみよう!

外からでも充分デカいのは分かってたけど、中もデカい!ほんでもって大理石がふんだんに使われていて、重厚で美しい。
二階に上がると、図書館の歴史が展示されていて、

さらに三階に上がると、

図書館というより美術館?

三階の閲覧室。『The Day After Tomorrow』という映画では、ここが冷凍庫のようになってしまっていたような……。

けどさ~……本はどこ?図書館やのに……。
ということで、近くに居た係員さんに尋ねてみた。
「このニューヨーク公共図書館は、世界屈指の規模を持っていますが、総合的な教育と研究機関として機能していていて、
なので、「公共図書館」と名付けられてはいるけれども、設置主体は独立の法人で、
だから「公共」というのは、一般公衆に対して開かれたという意味からつけられたのであって、
誰でも本が借りられる普通の図書館、というのではないのです」とのこと。
なるほど……しかも、ここの財政的基盤は、民間の寄付によって成り立っていると聞いてさらにびっくり!
本はあきらめて(というか、もともと借りられるとも思ってなかったけれども)、見学終了。


図書館前のテラスで。けっこうふられ続けているのにも関わらず粘っていた鳩(♂)さん。

BOOK OFFに到着。1ドル均一から数冊、ちょっと張り込んで5ドルのを数冊。これで海辺の1週間は完ぺき!

ずっと歩き続けている上に、重い荷物がじょじょに増えてきて……それでも写真を撮りたいわたし……。



大好きな公園『ブライアン・パーク』

ここでお弁当を半分こして。

家に戻り、シャワーを浴びて、歩美ちゃんから教えてもらっていた『ガザ攻撃抗議集会』に。


歩美ちゃんは、イラクの子どもたちの寄せ書きを刺繍したキルトを掲げ、静かに立っていた。

ここは、今の家に引っ越すまでの9年間、息子たちと4人で暮らしていた町の本通。

通り過ぎる車の窓から手を伸ばし、あるいはクラクションを鳴らして、あんたたちに賛同してるよ!という気持ちを伝えてくれる人たち。

そうだよ、愛だよ、武器なんか捨てて話し合おう。

パキスタンからの人たち。
近くを、3匹の犬の散歩で通りかかった男性が、急に声を荒げて何かを言い始めた。
その彼に、大声で返事するパキスタンの女性。
わたしの背後では、拡声器を使ってスピーチが行われていて、その会話をきちんと聞くことができなかった。

彼は家族に会えないでいる。電話の向こうで、幼い子どもたちが、帰ってきてと泣き叫んでいるのを聞くしかできないでいる。
パキスタン人だから。
その不条理、不幸を訴えていた。
パキスタン人もイスラエル人も、和平を願っている人はたくさんいる。
けれども一方で、ネットなどで伝えられているように、小高い丘の上に飲み食いできる物を持参して、ガザの爆撃を見物しているイスラエル人がいて、
自衛などという理由で、途方もない量の兵器を使うチャンスを、イスラエルに与える手伝いをしているパキスタン人がいる。
権力とカネを持っていれば、愚かさに数などは必要ではない。
その愚かさは、大きな破壊力と影響力を持っているので、愚かではない人たちにまで、愚かだというレッテルが貼られてしまう。


彼女は最後の最後まで、ピースサインを掲げながら、メッセージを送っていた。

歩美ちゃんが、彼(Ayuman)のスピーチの内容を、Facebookに載せてくれていた。
ここに転載させてもらう。
『昨日のVigilには、ガザから留学しているAyumanが参加してくれました。
ガザに残した妻子と、36時間連絡がつかない状況で、憔悴して、スピーチも用意していませんでした。
だからその場で、彼の訴えた言葉のひとつひとつは、心からの叫びなのでした。
わたしはそれを聞いて、涙をこぼしました。
「ニュースで皆さん、ガザの攻撃を聞いています。
ここの通りを過ぎる人たちにとって、犠牲者はただの統計、数にしか感じられないのでしょうが、
私たちにとっては家族、友だち、一人一人の顔なのです。
パレスチナ人と言うだけで、どこへ行ってもテロリスト扱いされるのです。
最後に家族に電話したときは、子たちが、電話口で、恐怖で叫んでいるのが聞こえました。
どんな子どもも、平和に生きるように、この世に生まれたはずです。
私は、家族のもとに今すぐ帰りたい、家族を守りたい!
でも、私が飛行機で行っても、エジプト政府は私を通過させません。
私は収容所に入れられてしまう。
それは、私が、パレスチナ人だからです。
私は、イラクにも住んでいたことがあります。
しかし、アラブ社会でさえ、”パレスチナ人”を、テロリストだと差別します。
私は、West Bankに親戚がいます。
ガザ地区からたった20分のその場所に、私は30年間行けない、親戚に会うことができないのです。
イスラエルの検問を、通ることが出来ない。
それはわたしが、パレスチナ人だからです。
私はガザで、イラクで、戦争の恐怖を何度も味わい、トラウマになっています。
私の子どもたちには、そのような恐怖を味わってほしくないのです。
ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、皆一緒です。
私たちは、平和のうちに生きたい。自由に生きたい。
ただそれだけです」
Ayumanの奥様と子どもたちが、無事でありますように。
攻撃が無くなり、多くの人たちが、暴力から和平という、本当の勇気に目覚めますように。
皆さんも、自分の選挙区の議員に電話を掛け、イスラエルの攻撃支持を辞め、今すぐ和平に取り組むよう、
イスラエルへの軍事支援を辞めるよう、要求してください』
↑以上、転載おわり
近くで待っていた旦那と合流。
なにやら近所の公園で、ずっと延期されていた『独立記念日』の花火が上がるらしいという情報を、フェイスブックでゲットした旦那。


あの日は、ショーティが逝って、花火どころではなかった。
いろんな町のいろんな場所で上げられている、花火のにぎやかな音を聞きながら、ずっとメソメソ泣いていた。
これはだから、ショーティからの贈り物『花火』だ。
一旦家に戻り、蚊対策の長袖長ズボンに着替え、いざいざ出発!
5年前までしょっちゅう散歩していた通りに車を停め、公園の中にぐんぐん入って行くと……うわっ!いっぱい人がいる。

花火は多分、この野外コンサートが終ってから、だと思っていたら、上がった!

我々は、人ごみを避けて、空き空きの芝生の丘に寝そべって観た。




彼女が居なくなってしまってから、3週間経った。
まだ3週間なのか、もう3週間なのか、
いずれにせよ、淋しいことにはかわりがない。