ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

愚かな人間が作った愚かな兵器と屁理屈で、あっという間に破壊される日常を、今なお持てることの奇跡

2014年07月25日 | ひとりごと
一年のうち、夏はゆっくりしよう。
あるいは、いつもより、楽しむ機会をたくさん持とう。
そういう原則が、アメリカンの旦那の心の遺伝子には、深く深くインプットされている。
金曜日の夕方はバタバタしない、働かない、というのと同じように。

極小自営の夫婦にはだから、夏という季節は、恐ろしくもあり楽しくもある。
こちらがフル開業してても、患者さんや生徒が、家族もろともどこかへ行って、そこで長~いバカンスを楽しんだりするし、
町に居るとしても、夏休みモードで、心がどこか上の空で、キャンプなんかもちょこちょこ入ったりして、スケジュールを組み立てるのに一苦労する。

けれども今年の7月は、ほんの数人の生徒たちが休んでいるだけで、なかなかの盛況振り。
なのでけっこう、ゆっくりしたり、よけいに楽しんだりするのは難しくて、相方の夏モードに合わせるのが、ちょいとしんどかったりする。

うちから電車でもバスでも車でも、ほんの30分弱で、ヒョイッと直行で行けるマンハッタン。
用事がてらではあるけれども、偶然にどちらも仕事が入ってなかったので、ぶらぶら回ることにした。

ニューヨーク・ペンシルバニア駅からの出口。


全然スッスと歩いてくれない妻に、かなり嫌気が差している夫の後ろ姿。


げげっ!


聖フランシス・アッシジ教会の一角でした。




出掛けに慌てて、沸騰させたミルクがいっぱい入っていたコーヒーを、テーブルの上にぶっちゃけてしまい、
けれども電車の時間が迫っていて、ろくに拭き取る間も、もちろんなにか食べる間も、さらにもちろんコーヒーを作り直して飲む間もなく来たので、

通りの簡易屋台のサンドウィッチ屋さんで腹ごしらえ!

 
ひと昔前、旦那が開業したての時に、間借りして治療していた懐かしのビルディング。


ブルームバーグ元市長が、任期最後に取り付けた、貸し自転車。平日だからか、この地域だからか、ほとんど使用されていない。


我々ふたりの一番のお気に入り、ル・パン・コティディアン(日々の糧という意味)に入り、


 



わたしのカメラを見て「写真家?」と聞いてきたウェイターさん。
「いえいえ、ただの写真を撮るのが好きな人です」とわたし。
「ボクはね、休みとかに結婚式の撮影をしてんだ。それを編集するのにどえりゃ~時間がかかるんだけど、けっこういい収入にはなるね」
それから延々と、カメラのこと、編集するのに使っているウェブサイト、どういう撮り方をしてるのかなどなど、熱く語ってくれた。

窓の外を見ると、あ、使ってる人がいる!


ル・パン・コティディアンのすぐ隣の、きちんとした物を売っていそうなキッチン(←シャレのつもり)用具店。
これまでに何回も買い直してきた胡椒挽き。もういい加減、長持ちするのを買おう。
ということで、なんと37ドルも払ったプジョーの胡椒ひき……でも、故障した時の対応が、めちゃくちゃしっかりしている会社らしい。


外に出ると……エンパイア・ステートビルディングの背が、いつもより低く見える……なんで?


アイアン・ビルがこんなド近所だったとは……。


旦那推薦のビルのコントラスト。


旦那が、次の行き先を探索している隙に。


8月の第二週目はまるまる、旦那家族総動員で、ニュージャージーの南端にある海辺で過ごす。
その1週間の間は、食事当番と洗いもの当番の日を除くと、小さな子がいない旦那とわたしは、ほぼ自由にしていられるので、
寝そべることができる所ならどこでも、海辺でもソファでも床でも、好きな場所に本を何冊か持ってって、ダラダラと読みふける。
なのに、まだ読んでいない本が無くなってしまった!
なので、BOOK OFFに行くことにした。

店に向かってテクテク歩いていると、図書館が見えてきた。
今まで何回もこの前を通ったり、階段で休憩したり、前のテラスで食事したりしたけど、まだ入ったことなかったやん……。
入ってみよう!


外からでも充分デカいのは分かってたけど、中もデカい!ほんでもって大理石がふんだんに使われていて、重厚で美しい。
二階に上がると、図書館の歴史が展示されていて、


さらに三階に上がると、


図書館というより美術館?


三階の閲覧室。『The Day After Tomorrow』という映画では、ここが冷凍庫のようになってしまっていたような……。


けどさ~……本はどこ?図書館やのに……。
ということで、近くに居た係員さんに尋ねてみた。

「このニューヨーク公共図書館は、世界屈指の規模を持っていますが、総合的な教育と研究機関として機能していていて、
なので、「公共図書館」と名付けられてはいるけれども、設置主体は独立の法人で、
だから「公共」というのは、一般公衆に対して開かれたという意味からつけられたのであって、
誰でも本が借りられる普通の図書館、というのではないのです」とのこと。
なるほど……しかも、ここの財政的基盤は、民間の寄付によって成り立っていると聞いてさらにびっくり!

本はあきらめて(というか、もともと借りられるとも思ってなかったけれども)、見学終了。




図書館前のテラスで。けっこうふられ続けているのにも関わらず粘っていた鳩(♂)さん。


BOOK OFFに到着。1ドル均一から数冊、ちょっと張り込んで5ドルのを数冊。これで海辺の1週間は完ぺき!


ずっと歩き続けている上に、重い荷物がじょじょに増えてきて……それでも写真を撮りたいわたし……。






大好きな公園『ブライアン・パーク』


ここでお弁当を半分こして。



家に戻り、シャワーを浴びて、歩美ちゃんから教えてもらっていた『ガザ攻撃抗議集会』に。




歩美ちゃんは、イラクの子どもたちの寄せ書きを刺繍したキルトを掲げ、静かに立っていた。


ここは、今の家に引っ越すまでの9年間、息子たちと4人で暮らしていた町の本通。


通り過ぎる車の窓から手を伸ばし、あるいはクラクションを鳴らして、あんたたちに賛同してるよ!という気持ちを伝えてくれる人たち。


そうだよ、愛だよ、武器なんか捨てて話し合おう。


パキスタンからの人たち。
近くを、3匹の犬の散歩で通りかかった男性が、急に声を荒げて何かを言い始めた。
その彼に、大声で返事するパキスタンの女性。
わたしの背後では、拡声器を使ってスピーチが行われていて、その会話をきちんと聞くことができなかった。


彼は家族に会えないでいる。電話の向こうで、幼い子どもたちが、帰ってきてと泣き叫んでいるのを聞くしかできないでいる。
パキスタン人だから。
その不条理、不幸を訴えていた。
パキスタン人もイスラエル人も、和平を願っている人はたくさんいる。
けれども一方で、ネットなどで伝えられているように、小高い丘の上に飲み食いできる物を持参して、ガザの爆撃を見物しているイスラエル人がいて、
自衛などという理由で、途方もない量の兵器を使うチャンスを、イスラエルに与える手伝いをしているパキスタン人がいる。
権力とカネを持っていれば、愚かさに数などは必要ではない。
その愚かさは、大きな破壊力と影響力を持っているので、愚かではない人たちにまで、愚かだというレッテルが貼られてしまう。




彼女は最後の最後まで、ピースサインを掲げながら、メッセージを送っていた。


歩美ちゃんが、彼(Ayuman)のスピーチの内容を、Facebookに載せてくれていた。
ここに転載させてもらう。

『昨日のVigilには、ガザから留学しているAyumanが参加してくれました。
ガザに残した妻子と、36時間連絡がつかない状況で、憔悴して、スピーチも用意していませんでした。
だからその場で、彼の訴えた言葉のひとつひとつは、心からの叫びなのでした。
わたしはそれを聞いて、涙をこぼしました。

「ニュースで皆さん、ガザの攻撃を聞いています。
ここの通りを過ぎる人たちにとって、犠牲者はただの統計、数にしか感じられないのでしょうが、
私たちにとっては家族、友だち、一人一人の顔なのです。
パレスチナ人と言うだけで、どこへ行ってもテロリスト扱いされるのです。
最後に家族に電話したときは、子たちが、電話口で、恐怖で叫んでいるのが聞こえました。
どんな子どもも、平和に生きるように、この世に生まれたはずです。
私は、家族のもとに今すぐ帰りたい、家族を守りたい!
でも、私が飛行機で行っても、エジプト政府は私を通過させません。
私は収容所に入れられてしまう。
それは、私が、パレスチナ人だからです。
私は、イラクにも住んでいたことがあります。
しかし、アラブ社会でさえ、”パレスチナ人”を、テロリストだと差別します。
私は、West Bankに親戚がいます。
ガザ地区からたった20分のその場所に、私は30年間行けない、親戚に会うことができないのです。
イスラエルの検問を、通ることが出来ない。
それはわたしが、パレスチナ人だからです。
私はガザで、イラクで、戦争の恐怖を何度も味わい、トラウマになっています。
私の子どもたちには、そのような恐怖を味わってほしくないのです。
ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、皆一緒です。
私たちは、平和のうちに生きたい。自由に生きたい。
ただそれだけです」

Ayumanの奥様と子どもたちが、無事でありますように。
攻撃が無くなり、多くの人たちが、暴力から和平という、本当の勇気に目覚めますように。
皆さんも、自分の選挙区の議員に電話を掛け、イスラエルの攻撃支持を辞め、今すぐ和平に取り組むよう、
イスラエルへの軍事支援を辞めるよう、要求してください』

↑以上、転載おわり


近くで待っていた旦那と合流。
なにやら近所の公園で、ずっと延期されていた『独立記念日』の花火が上がるらしいという情報を、フェイスブックでゲットした旦那。




あの日は、ショーティが逝って、花火どころではなかった。
いろんな町のいろんな場所で上げられている、花火のにぎやかな音を聞きながら、ずっとメソメソ泣いていた。
これはだから、ショーティからの贈り物『花火』だ。

一旦家に戻り、蚊対策の長袖長ズボンに着替え、いざいざ出発!
5年前までしょっちゅう散歩していた通りに車を停め、公園の中にぐんぐん入って行くと……うわっ!いっぱい人がいる。


花火は多分、この野外コンサートが終ってから、だと思っていたら、上がった!


我々は、人ごみを避けて、空き空きの芝生の丘に寝そべって観た。








彼女が居なくなってしまってから、3週間経った。
まだ3週間なのか、もう3週間なのか、
いずれにせよ、淋しいことにはかわりがない。
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「戦争が起きている、空爆が加えられているときだけが、パレスチナの苦しみではない」

2014年07月23日 | 日本とわたし
もう一稿、IWJブログに掲載されていた、パレスチナについてのお話を、紹介させていただきます。


パレスチナからのか細い声~パレスチナに通い続ける女性フォトジャーナリストからの報告(写真家・高橋美香)
【IWJブログ・特別寄稿】

私が初めてパレスチナを訪れたのは2000年、ちょうど第二次インティファーダ直前だった。
シャロンが次期首相に選ばれたことで、「これでまた戦争になる」と、人々は暗い顔をしていたことを思い出す。
そしてその予感は的中し、シャロンが、イスラム教徒の聖地アルアクサ―を挑発的に訪問したことで、
それに対する抗議が、一気に、抵抗運動へと変わっていった。

二度目に訪れたのは、その第二次インティファーダのまっただなか。
半年ぶりに訪ねた、ガザ地区の友達ハーゼムは、以前のような屈託のない笑顔が、完全に消えていた。
以前彼は、サッカーの話しかしていなかった。
それがたった半年で、人格が変わってしまったかのようだった。
度重なる戦車の侵攻に、子どもたちは怯え、夜になると、電気がカットされた暗い部屋のなかで、「ひきつけを起こしたように子どもたちが泣き始める」と、ハーゼムが暗い顔で話した。


そして数日後、ハーゼムに連れて行かれたのは、すぐ近所の叔父さんの家。
家のなかには、ハーゼムの叔父さん、叔母さんと、小さな赤ちゃんがいた。
その赤ちゃんの父親であるイブラヒムさんは、ハーゼムの従兄だった。
第二次インティファーダが始まってすぐ、彼は、通りを歩いていたところを、イスラエル軍兵士に射殺された。
赤ちゃんの母親は、そのショックで、子どもを育てられる状態ではなくなり、赤ちゃんを置いて実家へと帰って行った。

その赤ちゃんを抱いたまま、ハーゼムの叔母さんは、大切にしまってあった息子のイブラヒムさんの死亡証明書を開き、
「さあ、写真を撮ってください」とおっしゃった。
目の前の光景は、あまりに辛かった。
まだ、何もわからずにきょとんとしている赤ちゃんの、澄んだ瞳にみつめられることが、息苦しくなった。
私には、撮れそうもなかった。
家族を喪って、悲しみにくれている人たちと向き合うということが、どういうことなのか、
その覚悟もないまま、パレスチナに足を踏み入れていた。

そんな私に、ハーゼムは、それまで見せたこともない大人びた顔で、
「いまミカが撮らなければ、この家族の悲しみも、苦しみも、永遠に誰にも伝わらない」と叱った。
声を荒げるわけでもない。
ハーゼムの、静かな怒りが伝わってきた。

「そのために来たんだろう? そのために今まで積み重ねてきたんだろう?」

意を決して、ファインダーをのぞいて、ピントを合わせた。
ファインダー越しの叔母さんのまなざしは、永遠に忘れられない。
ファインダーが涙で曇った。
ひとの人生と向き合う、辛さや悲しみと向き合うということが、こんなにも辛いことだと、このときまで気付いていなかった。
そのことを教えてくれたハーゼムとは、その後連絡が取れなくなってしまい、いまでもその安否が分からないままでいる。
生きていれば33歳。
どんな大人になっているのだろう。


▲殺された息子の死亡証明書と、遺された孫を抱く祖母――2001年1月、ガザ


■「分離壁」が作るシステムとしての占領状態

次にパレスチナを訪れるまでに、8年もの歳月を要した。
その8年のあいだに、ガザの入植地は撤去される一方で、封鎖はどんどん強まり、
東エルサレムと西岸地区では、着々と、入植地と分離壁の建設が進められていた。
パレスチナは、ガザと西岸とイスラエル国内のパレスチナ人の分断、経済面での構造的な支配、入植地の増大によるパレスチナ自治区の「領土」の減少といった、
目に見えやすい軍事的な占領よりも、もっと巧妙な、実質的な、占領状態に置かれていた。

私は、分離壁の反対運動を、村ぐるみで続けている、ラマッラ―北西部のビリン村を訪ねてみた。
ビリン村では、ひょんなことから、12人家族のアブーラハマ家の居候となった。
一家の父親ファトヒと母親バスマは、私を「11人目の子ども、わが娘」としてかわいがってくれ、
通算でおよそ6カ月ほどを、この家で、家族の一員として、農作業を手伝いながら過ごしてきた。
そして、日々の暮らしのなかからみえる占領を、肌で感じることができた。

アブーラハマ家は、分離壁建設予定地に張られたフェンスのすぐ近くにあり、
村人の多くが、フェンスの向こう側に、自由に立ち入れない自分たちの畑や牧草地をもっている
しかし、いまではそのほとんどが、強制的に接収され、巨大な入植地群が建設中である。

村人たちは、村ぐるみで、分離壁反対、占領反対運動をしているが、
週に一度の反対デモは、イスラエル軍とボーダーポリス(武装国境警察)の圧倒的な武力によって弾圧され、
毎週のように怪我人が発生し、運動が始まった2005年以降、過去にふたりが、この村では殺されている。


▲高さ8メートルの分離壁がパレスチナを囲む
人々は、「パレスチナ全体が出口のない監獄」だと口にする――2009年6月、カルキリヤ



催涙弾、ゴム被覆金属弾、汚水、ガス、実弾と、毎週デモの弾圧のために、様々な武器が投入される
それだけでなく、運動のリーダー、記録するカメラマン、デモの参加者は、深夜に完全武装で侵入してくる、イスラエル軍兵士に連行され
民間人であるにもかかわらず、暴力扇動罪などの罪により、軍事裁判所で裁かれ、軍事刑務所に収監される
兵士に投石した少年たちも、たとえ12歳以下の子どもであろうとも、容赦なく連行され、法外な罰金を支払わされたうえで「釈放」される

今現在、パレスチナの農地は、入植地の建設によってどんどん奪われ、自宅の敷地であっても、許可なく井戸を掘ることも許されず、
パレスチナの土地の上につくられた入植地から取水した、豊富な水を使って大量につくり、安価に出荷する「イスラエル産」の農作物に、市場を奪われ、農業が立ち行かなくなっている。

結果として、人々はどこかへ働きに出なければならなくなり、イスラエル社会や入植地での、3K労働を担う労働力とされてきた

あるとき、ビリン村の撮影を続けながら、エルサレムにも拠点を置いて、西岸地区の他の町と行ったり来たりを繰り返しながら過ごしていた。
取材費も心もとない私が選んだのは、一泊750円ほどの安宿のドミトリー。
左右の高さが違うベッドに、ダニだらけのマットレス、いつ洗ったのか分からないシーツが敷かれているような宿だった。
窓ガラスは割れ、共同の炊事場は汚れ、宿に帰るのが憂鬱ではあったが、その宿で仲良くなったアシュラフと、話をすることが楽しみだった。

アシュラフは、ベツレヘムに自宅があるが、イスラエルで働くために、身の回りのわずかなものを携えて、その安宿の屋上にある、三畳ほどの個室に暮らしていた。
彼は、弁護士の資格を持っていたが、それではなかなか生計がたてられず、家族と離れて、イスラエルで肉体労働に従事し、仕事と宿の行き帰りだけの日々を送っていた。

ベツレヘムとエルサレムのあいだには、分離壁と検問所があり、
イスラエルでの滞在許可がない労働者は、明け方には家を出て、何時間もかけて検問所を越え、朝の始業に間に合うようにしなくてはならない
そんな苦労をしてまでイスラエルに働きに行くのは、自治区内に産業が育っていないためだ。
アシュラフは、滞在許可を持っていたので、安宿に「正式に」滞在することが出来た。
許可証を持たない人のなかには、捕まることを覚悟で、「不法滞在」している人もいる。

家族や友達と切り離された生活で、孤独を抱えていたアシュラフは、毎日のように私を屋上に招き、ナルギーレ(水タバコ)をふるまい、コーヒーをいれてくれた。
私の下手なアラビア語を笑うわけでなく、同僚のほとんどがアフリカ系ユダヤ人という環境のなかで、
アラビア語を使う日常とも切り離された彼は、私とアラビア語で会話できることを喜んでくれた。
そして私も、毎日のように、各地で見たこと、聞いたことを、アシュラフに話していた。

ある金曜日、
「今日は、ミカのために、パレスチナ料理をつくって待っているから」と、休日をまるまる使って、
モロヘイヤスープ、グリルドチキン、マクルーベ(パレスチナ風炊き込みご飯)とデザートをつくってくれていた。
私は、ビリン村のデモの撮影を終えて、宿に戻った。
そして、アシュラフが作ってくれたご飯を食べながら、いつものように、その日あったことを話した。

僕は、君のやっていることはすごいと思うし、君が撮影を続けている各地の人々、勇気を持って抵抗を続けている人々のことを、尊敬している。
僕自身、占領に苦々しい思いは感じているけれど、でも、今ある労働許可証を失わないようにするためには、そういうことと距離を置くしかないんだ


アシュラフは、そう話した。

そのとき、占領というのは、軍事的な目に見えやすいものだけでないこと、
こうやって、自らの暮らしを守るために、家族や友人と切り離されて、カネを得ることと引き換えに黙らされるという、
もっと巧妙な、目に見えにくい、システムとしての占領状態が存在する
のだ、ということを思い知らされた。

ジェニン難民キャンプでは、ある難民の家族に出会った。

2002年に、イスラエル軍の軍事侵攻と虐殺がおこなわれたこのキャンプでは、
カメラマンやジャーナリストが、あのとき何をしてくれた? 
世界は、俺たちを見殺しにしようとしたじゃないか。
今さら話すことなんてない。
外国人なんかに何がわかる。さっさと帰れ

と罵倒され、石を投げられ、話も聞かせてもらえなかった。
そんな目にあったのは、パレスチナでは初めてのことだった。

逃げるような気持ちでバス停に向かっていたとき、ふたりの子どもに話しかけられた。
「もし時間があるなら、一緒に人形劇観に行こうよ。僕のチケット分けてあげるからさ」と。
屈託なく笑うその少年の、歯抜けの笑顔が心にしみて、救われたような気持ちになって一緒に向かった先が、フリーダムシアターだった。

フリーダムシアターは、パレスチナ人の夫をもつ、イスラエル人アルナ・メールによって創設された。
難民キャンプの子どもたちに、演劇や絵画を通して、夢や希望、自らを表現することを教えた。
そのフリーダムシアターが、難民キャンプの子どもたちに、無料で披露していた人形劇だった。

この日抱えることになった、いたたまれない気持ちも、深い虐殺の傷、記憶を、難民キャンプの人々が、今なお抱えていることを思い知らされたことも、
どちらもその後、私の足を、ジェニン難民キャンプから、遠ざける理由となった。
そして、二年半ぶりにもう一度、意を決して訪ねてみた。

唯一、明るい記憶を思い起こさせる、フリーダムシアターへと足を運んだ。
そこで出会ったのが、このシアターで演劇をしている、俳優のカマールだった。
しばらく話をするうちに、「もしも泊まるところが決まっていないなら、うちに来ればいい」と言われ、
すぐ近くの難民キャンプ内の家に案内された。

カマールの家に辿り着くと、一家は驚きながらも、すぐに食事と寝床を用意してくれた。
玄関のドアを開けるとすぐに、居間兼寝室兼応接間があり、その奥に、小さな部屋がふたつと、台所とトイレと浴室があった。
父親のイマード、母親のマハ、カマールのほかに、二人の弟と妹が暮らす。
姉のひとりと弟のひとりは、家を離れている。
普段は、朝早くから仕事のあるカマールをのぞいて、五人が、居間兼寝室で、折り重なるように雑魚寝をしている。
そこに、居候として、その日から私が加わった。

食事のとき、イマードの様子がおかしいことに気付いた。
自分でスプーンを口に運べないし、そもそも、食事だと促されるまで、ずっと頭を抱えたまま、虚ろな目をして座っていた。
みんなが寝静まってから、マハに聞いた。
「イマードはどうしたの?」と。

2002年、イスラエル軍の侵攻があったとき、イマードは、まだ働き盛りの35歳だった。
この地区のファタハのまとめ役だった彼は、このときイスラエル軍兵士に連行され、壮絶な拷問を受けた。
それ以来、徐々に体調を崩すようになり、私が彼に会った2011年には、自分で立つことも、ほとんどしゃべることもできなくなっており、
ただ1日中、虚ろな目をして、部屋の隅に頭を抱えて座り込んでいるだけ
だった。

それだけでなく、当時12歳だった次男のムハンマドは、イスラエル軍兵士に捕まり、ライフルの銃座で脚を骨折するまで殴られ、
8歳だった四男のサリームは、太ももを撃たれた


「でも幸いにも、うちは誰も死ななかった。
帰ってこない子どもたちは、死んだと聞かされたり、病院にいると聞かされたり。
そのたびに、あちこちに、銃撃の合間を縫って、確認に駆け回った。
食料も底を尽くなかで、外に出れば撃たれるから、空腹を我慢するしかなく、
何カ月も戻ってこなかった夫は、死んだものとあきらめかけていた」

マハは、そのときのことを思い出しながら話した。

マハは、6人の子どもたちを抱えながら、懸命に働き、イマードが病気になってからは、夫の介護までをしながら暮らしてきた。
農場で肉体労働に従事し、疲れと体の痛みに眠れぬ夜を過ごしながら、懸命に子どもたちを育てた。

しかし、一家の暮らしは楽ではなく、イスラエル軍の侵攻で、銃撃されて割れた窓ガラスは、そのままビニールシートで覆われており、
朝食のパンを買うお金がないと、毎朝のように、布団の下に落ちているかもしれない1シェケル(25円ほど)を探していた。
そんななかでも、決して、私にはお金を出させてはくれなかった。
どうすれば恩を返せるのか、と考え抜いた末、マハと一緒に、トマト農場で働く事に決めた。
そして、農場主に、「私が働いた分はマハに渡してくれ」と頼み込んだ。
マハには、これも取材、撮影と偽って。


▲トマト農場で働くマハ――2011年12月、ジェニン


そして、その二年後、再び一家を訪れた。
「つい数週間前、イマードが亡くなった」と伝えられた。
まだ46歳の若さだった。

マハは、夫の死後三か月間は、「喪に服す」ことを強いられ、
家から外に出ること、家を訪ねてきた親族以外の男性と顔を合わせることなどが「恥」とされ、
なかなか家の外にも出られず、働きに行くこともできず、「不自由で窮屈」な暮らしを強いられていた


「こんなことをしていたって、イマードが帰ってくるわけじゃない。
外に働きにいかなければ、借金がかさんでいくばかり。
何よりも、私はもう退屈で気が狂いそう」とマハが言う。
マハに「恥」の概念を押し付け、その自由を奪っているのは、イマードの親族などだった。

私たちは、周囲の裏をかいて、マハの実家がある村へ、気分転換と「仕事」に行くことにした。
「実家の母の調子がすぐれないので」と、マハは言い訳をした。
内心の嬉しさを隠しながら、神妙な顔をして車に乗り込み、私たちは、マハの母親インム・カーセムが暮らす村へと向かった。

そして、村に到着すると、早速マハは、「オリーブの実を拾いに行こう」と言い出した。
収穫が終わったあとのオリーブ畑で、木の下に落ちている、木の持ち主には見向きもされないような干乾びた実を、木の持ち主の厚意で拾わせてもらうそうだ。

私たちは、炎天下四日間ほど、その実を拾う作業に精を出した。
地表に落ちた棘のある植物に、何度も刺されながら実を拾い続けるのは、トマト農場で働く以上に厳しい作業だった。
しかし、その干乾びた実から採れるわずかな油が、マハにわずかな収入をもたらした。
故郷を奪われた難民が、土地を持たないということがどういうことなのかを、体で理解した。
ビリン村での十日間にわたるオリーブ収穫作業も、もちろんしんどいものだったが、
地べたに這いつくばって、わずかな油のために拾うよりは、その収穫量は労働時間に見合ったものであり、はるかに楽で喜びの大きいものだった。

マハは、実を拾いながら、昔話をしてくれた。
長男のカマールが十代の終わりのころ、「僕が死んでも、ずっと僕を愛し続けてくれる?」と、マハに突然言い出した。
マハは直感で分かったそうだ。
「ああ、この子は、武装組織に加わろうとしている」と。

カマールは、兄弟のうちで、誰よりも親思い、友達思いで、優しくて、感受性の強い子。
父親がああいう姿にさせられた。
友達はどんどん殺されていく。
故郷がないこと、土地がないこと、貧困が、成長した彼自身にのしかかり始めた。
そんななかで、家族を守ること、友達を守ること、不正義を正すことは、
彼にとっては、武装組織の一員となって、占領に抵抗することだという結論だった。
でも、私にとっては、どんな武装組織も、民衆のことなんて本気で考えてはいない、
民衆の血を利用することでしか成り立っていない、と思っている。
組織の存続や、利害関係や、そんなことのために、自分の息子の命を奪われてたまるかと思った。
だから、カマールが組織に入るのを阻止した。
ありとあらゆる方法を使って


マハはそう話した。
それは、母親の壮絶な覚悟だった。
私は、マハのような人の姿こそを、追いたいと思う。
その声を、記録したいと思う。
誰にも拾われることのない、「名もなき」小さな声こそを。


▲著作者:現代企画室『占領ノート』編集班/遠山なぎ/パレスチナ情報センター


■空爆を加えられている時だけが、パレスチナの苦しみではない

私は、常々、人々の暮らしのなかからみえるものを写し取りたい、伝えたいと思っている。
そういう意味で、戦争が起きている、空爆が加えられているときだけが、パレスチナの苦しみではないと思っている。
だからこそ、迷惑をかけながら民家に居候して、その暮らしに溶け込み、「家族」の一員となって、その声を拾い続け、姿を追い続けている。

こんなやり方では、人々の注目を集めることは難しく、また、多くの人に伝えることは難しいことも分かっている。
何百人も殺される、「目に見えやすい」悲劇、ニュースほどには、その日常に目を向けてはもらえない。
それでも、物事は、その日常に本質があると思っている。
空爆だけが苦しみではない。
封鎖が続くこと、入植地に自分の土地を奪われること、自分の土地ですらも自由に井戸も掘れないこと、
イスラエル社会のなかで「同化」しようともがく、イスラエル国内のパレスチナ人の存在…そこには、多くの苦しみがある。


私は、できるだけ、パレスチナの人々に親しみを感じてもらいたい、
難しい宗教戦争などでは決してなく、差別と抑圧と人々の尊厳の問題なのだということを、感じてもらいたいと、
各地で、写真展やスライドトークをおこなっている。
岩上さんとの出会いも、そんな会場のひとつだった。

2010年拙著『パレスチナ・そこにある日常』出版記念写真展として、那覇市の国際通り裏にあるバー&ギャラリー「土」で、同名の写真展を開催した。
それは、2009年に、沖縄の読谷村在住の彫刻家・金城実さんのアトリエで、その作品を撮影しているときに、
同時期に取材に来られていた、映画監督の西山正啓さんの紹介で実現した。
「土」のオーナーのごうさんとは、以前に、実さんのアトリエでお目にかかっていた。
ごうさんは、写真展開催を快諾してくださるだけでなく、それまで開かずの間と化していたシャワー室を片づけ、期間中、二階に居候させてくださった。
岩上さんはそのとき、知事選の取材に来られていたようで、「土」に来られたことが出会いだった。
そのご縁で、今、IWJに寄稿するための、この原稿を書いている。

そもそも、実さんとの出会いも、パレスチナに関係していた。
ある出版社の、PR誌に連載していた、パレスチナのルポを読んだ編集者から、
「パレスチナの話をうかがいたい。
そして、金城実さんの彫刻作品集を出版するための、カメラマンを務めてほしい」と連絡があり、
下見のために、実さんに会いに行った。
そして、その作品にも、実さん本人にも、圧倒された。
「日本にも、こんな大きな心、広い視野を持ち、覚悟をもって闘っているひとがいたのか」と。




■首相官邸前に立つ

そのまま月日は流れ、パレスチナやエジプトやアフガニスタンと日本を行ったり来たりするなかで、
安倍政権になり、集団的自衛権の行使が憲法解釈でなされる、ということに傾いていった。
私は、その報道を、テレビや新聞で目にしながら、どんどん、「このままではいられない」という気持ちになっていった。

集団的自衛権の行使容認の閣議決定を、翌日に控えた6月30日、
わたしには自衛隊員の弟がいます/そしてアフガニスタンに大切な友がいます/集団的自衛権の名のもとで弟に友を殺させたくない/殺されたくない」と書いた紙を掲げて、官邸前に立った。
もし行くのだとすれば、覚悟をもって命令に従い、攻め入る弟の命の問題だけでなく、
むしろ何の覚悟も準備も、もちろん何の非もなく、「集団的自衛権」のもとに、彼らに突然奪われる可能性のある、異国の友の命の問題を訴えたくて。




官邸前に立つ前夜、考えれば考えるほど眠れなくなって、居ても立ってもいられず、先に書いた訴えを紙に大きく書いてはみたけれど、
実際に、これをプラカードがわりに掲げて、立つ勇気があるのか、土壇場まで悩み続けた。
決まって浮かんでくるのは、板挟みになる母の苦渋の顔。
うちの家族内では、今に始まった議論ではない。
弟が自衛隊に入ったときから、私は、この可能性を危惧し続けてきた。
遅かれ早かれ、アメリカの戦争に引きずり込まれていくのではないかと。

そして、私は、アフガニスタンの子どもたちの、学校教育を支援するNGOの、ボランティアスタッフの一員として活動するようになり、
2007年に、初めて現地を訪れて、多くの大切な友達ができた。
支援活動を通した、十年以上にも及ぶ子どもたちとの付き合いのなかで、その成長を見守ってきた。
その大切な子どもたちが、自分の弟に命を奪われるかもしれない。
極論だとは分かっていても、それは耐え難いことだ。

アフガニスタンの一番の親友アクバルは、2008年に、タリバンが仕掛けた遠隔操作の爆弾で爆破され、瀕死の重傷を負った。
借金に借金を重ね、必死にリハビリをして、日常生活をなんとか取り戻す努力を続けてきた彼には、不自由な脚という、大きな後遺症が残った。
そして、そのことは、彼にできることの範囲を狭め、人生の可能性を狭めた。

最初の数年は、まだ良かった。
彼も、社会復帰のために懸命で、他のことを考える余裕がなかったから。
しかし、月日が流れると、「なんで生き残ってしまったんだろう」と、無表情につぶやくようになった。
ただでさえ産業が育っておらず、失業率も高いアフガニスタンで、不自由な体を抱えて生きていくということは、想像を絶するほどの困難があるのだろう。
ただただ、見守ることしか出来なかった。

そのアクバルが、ようやく最近、また昔のように笑うようになった。
難しいとは分かっていても、それでも、人生の目標を口にするようになった。
不自由な体を言い訳にせずに、困難なことに挑もうとし始めた。
その姿を見ていると、もう二度と、彼の希望を奪うことは許されない、という気持ちになる。
誰よりも平和を願うのは、彼のように、戦争で傷ついた、傷つけられた人々自身だと痛感する。
だからこそ、弟が、その希望を奪う日が来るかもしれないということに、全力で反対しなければならないと思う。

それでも、私の心から、悲しそうな母の顔は消えなかった。
「もしも弟が、アフガニスタンで、誰かを殺すようなことに加担したら、私は一生彼を許さない」と、何度も母にぶつけてきた。
そのたびに母は、悲しそうな顔をした。

私が、国家の決めること、国家の進む道に異を唱えて表明すれば、それは、弟に迷惑をかけることになるかもしれない。
本当に、家族に迷惑をかけてまで、表明する、声をあげる覚悟はあるのか?
そんなものは、自分のエゴではないのか? と、一昼夜、自分自身に問い続けた。
でも、結論は、「どんなことよりも命が大事」、ということだった。

抗議行動に参加する前日、一昼夜悩むなかで、何度も思い出した金城実さんの言葉や覚悟が、私の背中を押してくれたともいえる。
実さんは、ご自身のお父さんの盛松さんが、志願兵として戦地に行き、ブーゲンビル島で戦死され、
幼い実さんを遺して逝ったことを「犬死」だとして、その死の意味を問い続けている。

盛松さんの信念は、「立派な日本人としてお国のために働けば、沖縄に対する差別はなくなる」というものだった。
だからこそ、「実を、立派な日本人として育ててくれ」と、妻の秋子さんに言い残した。
靖国神社に、「英霊」として祀られた父、その父を思い、6月23日に涙を流す母のことを、実さんは「それでいいのか?」と問う。

戦後も結局、基地を押しつけられた。
沖縄の民意は、踏みにじられ続けた。
沖縄に対する構造的な差別は、変わっていない。
戦争中、本土を守るための捨て石とされたことと、何も変わっていない。
父親は犬死だ
」と。
これからの抵抗のために、自らの肉親の死すらも厳しく問う実さんの覚悟から、私はたくさんのことを教えられた。

ガザへの空爆がおこなわれ、多くの方々が犠牲になっている。
パレスチナから、刻々と、情報や連絡が入ってくる。
とうとう17日には、地上軍が、ガザへ侵攻を始めた。


▲金城実作「生ぬるい奴は鬼でも喰わない」――2014年7月撮影


パレスチナの友達、特にガザの友達から、悲鳴のようなメッセージが届くたびに、
実さんに会うための大阪行きを、あきらめた方がいいかとも思った。
できるだけ、情報収集に没頭したいとも思った。
しかし、こんなときだからこそ、実さんに会いたい、自分の立っている場所で抵抗を続けることの意味を、再確認したいと思い、大阪行きの夜行バスに飛び乗った。

そもそも、今回のことの発端は、ヘブロン郊外で、入植者の青年三人が何者かに誘拐され、殺されたたことだった。
この「入植者誘拐殺人事件」について、すぐに、「ダウラトアルイスラミーヤ」という組織が犯行声明を出したが、
これは無視され、イスラエルは、「ハマスの仕業」だとして、ヘブロンをはじめとする西岸地区全土で、「捜索」を開始、
それに対する抗議行動を行った青年たちが、射殺されはじめた。

そして、東エルサレムのシュアファットに住む、16歳の少年ムハンマド君が、
「誘拐殺人事件の報復を」「アラブ人を殺せ」と公言する右派の入植者たちに、生きたままガソリンをかけられ、飲まされ、焼き殺された。

イスラエル軍、警察による「大捜索」のなかで、事の発端となった「入植者誘拐殺人事件」は、ハマスの活動家が容疑者とされ、
西岸地区では、多くのハマスの活動家が連行され、ガザ地区からはロケット弾が、イスラエルに飛ばされ始めた。
そして、イスラエルは、このときを待っていましたとばかりに、大規模な空爆を始め、
民家や学校や病院も標的にして、多くの民間人を巻き添えに、殺しつづけている。

私は、「入植者誘拐殺人事件」が起きたとき、このタイミングに、妙な違和感をおぼえた。
まるで、先ごろ発表された、ファタハとハマスの統一政府づくりを潰すために、仕組まれたかのようなタイミングに思えたからだ。


そして日本政府は、よりによってこの時期、7月5日から9日にかけて、イスラエルを訪問して、経済協力促進の合意をする茂木敏充経産相を送り出した。
武器輸出三原則を廃し、防衛装備移転三原則に看板をすげ替え、イスラエルのような国にも、武器、兵器の輸出や、関連の技術協力を始めようとしている。
まさに、そのことを再確認するための、イスラエル訪問。
カネ儲けが一緒にできれば、占領して、人権を無視して、多くの一般市民の命を奪っている国だろうが構わないのだろう。
少なくとも、周囲からは、そのようにみられても仕方がない。
そういう一歩を、この国は踏み出してしまった。
根拠もあやふやな「国益」のために。

このことによって、日本人にとっても、パレスチナでの出来事が、ますます他人事ではなくなっていく。
もちろん、今までも、無関係でいられたわけではない。
米軍基地が日本にあり、日本の技術が、戦争やガザの占領にも寄与している限り、間接的には関係してきた。
しかし、これからは、経済的にも軍事的にも、直接、日本がこれらの事柄に関わるようになる可能性が高い。

ガザからは、毎日のように、多くの叫びが届き続ける。
これからは、私たち自身が、直接この悲鳴の元凶となり、苦しみを直接与えることに、加担していくのだ。

ガザに暮らす友達が、たまたま仕事でガザを離れていて、エジプト側のラファハからガザに戻ろうとしたら、国境が閉じられていて、入れなかったそうだ。
なすすべもなく、自分の家がある地区が、空爆されている情報を受け取り続けているその苦しみ。
彼から、「お願い。誰か止めて。あそこに家族がいるんだ」という言葉が届く。
その叫びに、心がえぐられる。

また、ガザに暮らす、会ったことのないSNS上の友達からも、こんなメッセージが届く。

僕はもう、ここで死んでしまうかもしれない。
だから、君たちに伝えたいんだ。
ここで出会った君たちの存在は、僕にとって、本当に大きな意味を持つもの。
ただのSNS友達、なんて思ったこともない。
大切な存在。みんなのことが大好きだよ
」と。

自分がひとりではないということが、どれだけ彼らを勇気づけているかということを、ほかのパレスチナ人の友達からも、何度も聞かされてきた。
みんなが繋がろうとしてくれている、みんなが見守ってくれている、自分はひとりで闘っているわけではないと思うことこそが、最大の勇気になるのだと。


空爆開始から三日目、ガザの友達から、
「爆撃のなか、ここにいるみんな、疲れ果てているのに、とても眠れない。もう何十時間も。頭が痛いよ。疲れ果てたよ」という言葉が届く。
同じころ、東エルサレム在住の友達は、
「ああ、いま、ロケット警戒のサイレンが鳴っている。アッラーフアクバル」と連絡をしてくる。
そして、パレスチナから発射されたロケット弾が、エルサレム近郊に着弾。
友達は少し興奮気味に、「やるなあ、ハマス」と言う。
私はてっきり、自分達も巻き添えになるかもしれない苛立ちをみせるのか、と思っていた。
占領下で暮らすパレスチナ人の、複雑な心持ちに触れた気がした。

そして、急にパッタリと、ガザの友達と連絡が取れなくなり、SNS上でも、ガザの人たちからの投稿がなくなる。
ガザの外にいる、ガザに家がある友人と連絡を取り合い、彼にも確認してもらう。
ガザでは、インターネットが遮断されるという噂は本当なのか?
情報の遮断されたガザで、いったいどんなことがおこなわれるのか?と、胃がキリキリ痛む。
数時間後、停電と、一時的なネットの遮断との情報が、ガザから。
ガザの友達と、数時間ぶりに連絡がつく。

そうやって、いろんな可能性を考えて、心底心配してくれる友達が外にいるなんて、本当にありがたく、心強い。
ありがとう、いつもガザの僕たちを思ってくれて
」と。

携帯電話から、そう返信があった。

ハマスのロケット弾は、今回は発射の数も多く、射程距離も長く、思いのほか正確な狙いが付けられていることが分かってくる。
もっとも、発射しているのがハマスとは限らない。

ガザの女性から届いた言葉が、胸に突き刺さった。

私は、もう疲れたと感じたり、泣き出したくなったり、ベッドに倒れこみたくなったり、すべてが終わるまで眠っていたくなったりするとき、たまらなく罪の意識を感じる。
だって、私の家族はまだ殺されていないし、家も爆撃されていないし、私自身まだ怪我もしていないし、生きているから
」。

感じる必要のない罪の意識。
そして私自身が、安全な日本から、この虐殺を止められもせず眺めている、という罪の意識にさいなまれる。

エジプト政府が、仲介しようと停戦案を出したが、この停戦案で失うものなど何もないイスラエルは、それを受諾することを閣議決定した。
イスラエルにとって、停戦が成立すれば、またそのまま封鎖と占領を続けていれば、
遅かれ早かれ、「武装組織」の抵抗が始まり、またその機会を利用して叩けばいい。
ハマスが停戦案を受け入れなければ、「イスラエルは受け入れたのに、ハマスがそれを蹴った。悪いのはハマスだ」と、更なる攻撃を正当化できる。
批判的な世論を、ひっくり返せる。

一方ハマスは、その停戦案では、結局封鎖も解除されず、占領は続くだけだとして、その案の受諾を渋った。
そのあいだに、ハマスの軍事部門やイスラム聖戦などが、拒否を表明した。
仲介をしようと試みたのが、アメリカからの軍事援助に首まで浸かった、国境の閉鎖を通じて、イスラエルによる封鎖の求めに応じて協力している、エジプトのシシ政権だということを、忘れてはならない。

そして現地時間の17日夜、イスラエル軍の、地上侵攻が始まってしまった。
民家だけでなく、病院や学校も、空爆の対象になっている。
ピンポイントで攻撃できる「能力」のあるイスラエル軍が、病院や民間人を避ける「能力」がないはずがない
「もう、いったいどこへ逃げろというの?」という、悲鳴のような声が、現地からまた届いた。

世界で飛び抜けた軍事力をもつ、唯一の軍事超大国・アメリカと、強固な関係を維持していれば、
どれだけ罪なき人々の命を奪っても、国際法を無視しても、何をしても、「自衛」として許される
イスラエルは、横暴を重ねることで、そうした不条理な、国際社会の現実を見せつける。

一方、国なき民は、自衛にもならない自衛を試みようとするたび、「テロリスト」と断罪され、虐殺される
対岸の火事ではなく、今だからこそ、私たちも、「自衛」という言葉の意味を、集団的自衛権の行使を、真剣に考えて議論していく必要がある

空爆や地上侵攻に反対して止めるだけでは、パレスチナの人々の苦難は、何も解決されない。
目に見えやすい空爆や侵攻や虐殺だけでなく、日常の常態化した占領や封鎖を解決しなければ、
これから先も、何度でも同じことを繰り返し、そのたびに、無辜の命が奪われていく。


16日、空爆開始以降に殺された方々は227名、1678名の方々が負傷されたと、保健省の発表があった。
現在も、この数は増え続けている。
その同時刻に、ガザから、SNSに投稿された言葉をご紹介したい。

「あなたがたが、この虐殺を止めようとしてくれるのに必要な血は、まだまだこれだけでは足りませんか?」

この言葉に、私たちはどう応えるべきなのかが、問われている。
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タブリと散歩とガザと祈りと

2014年07月23日 | ひとりごと


野菜が食いてぇ~!!
という熱烈な願望に突き動かされた旦那。
スーパーから、パセリの大束をガッシと掴み、バシャバシャと洗い、水切りをして、チャッチャと切り刻んだ。
そこに、今年のガーデンの、唯一豊作中の、けれどもタイミング悪くたったひとつしか熟していなかった黄色いトマトと、紫玉ねぎを刻んで加え、
レモン汁と塩こしょう少々、いっちょ上がり!

食べ役のわたしは、茄子の煮浸しの残り物といっしょに、ムシャムシャいただく。


生徒たちの夏休みが始まって早一ヵ月。
日によっては、朝からレッスンができるし、午後もいつもより早めに始められるので、バタバタと夕飯の支度をしなくてもよくなる。
これがけっこう心によろしい。
なので、今だに朝が苦手なわたしでも、ちょいと早起きして、散歩がてら朝食を食べようではないか、などという、
普段なら、最後まで聞かないうちに、頭を横に振りまくっているような旦那の提案にも、乗っかったりする。

旦那が行こうと思ってるのは、患者さんからのお勧めの、車で20分ぐらいの所にあるボートハウス。

Let's go!!

迷って方向を変えるために入った通りで、こんな標識に出会った。
『耳の不自由な子どもが住んでいます』


ボートハウス。


まだ早いので、ほとんど人がいない。


げげっ!デカい!


1周する?


めちゃくちゃ心地良い風に吹かれて、どんどんどんどん進む旦那。写真を撮りたがるわたしに、辟易中。


水のタンク?


ワンちゃんのう◯ちは、ちゃんと掃除してね♪


かなりへたばってきた。


あなたは誰?


群れからずっと離れた所に、ポツンといるカップル。よくよく近づいてみると、可哀相に、怪我をしている。


あんたたちの中に、お医者はいないのか?


大汗をかいているわたしの横で、旦那はサラサラと涼し気。やはり脂肪の量の違い?
昨日はとうとう、生え放題広がり放題にしていた庭のツユ草のせいで、他の植物や野菜が窒息しそうになってきたので、地面に這いつくばって根っこを抜いた。
ほんの数十分の作業だったのに、大汗をかいた。

こんなふうに、『いつもと同じ毎日』というものが、
爆弾やミサイルが、空から降ってくることもなく、
水道の蛇口をひねると、飲んでも大丈夫な水がジャアジャア出てきて、
そこそこのお金を払ったら、お腹を満たせるだけの食べ物が買える場所があって、
その場所に行くにも、どこかから銃弾が飛んできて、横っ腹に穴を空けられるのではないかと怯えながら、辺りを見回さなくてもよくて、
自分が住もうと決めた場所に暮らすことができて、離れ離れになっている家族がいても、そこも多分、それなりに安全であると思うことができて、
自分が思っていること、考えていることを、話したり書いたり会話したりすることに、規制や弾圧をかけられることもなく、
学びたいことを学び、知りたいことを知り、それを他の人たちと分かり合うことができる。
そういうものであることが、いかに恵まれているか、いかにありがたいことか。

夕方、歩美ちゃんからメールが届いた。
「明日の夜、隣町の大通りの一角で、一日も早いパレスチナの和平へ向けて祈ります」
というお知らせメールだった。

『お近くでご都合のつく方は、一緒に参加していただけると幸いです。

実際に参加することのできない方は、地元の議員にお電話してください:(202) 224-3121
下院も上院も全会一致で、イスラエルのガザ侵攻を支持しました。
しかも、上院は、イスラエルへ、31億ドルの通常軍事支援に加え、さらに先週、6.21億ドルの、緊急支援を可決したばかりです。

明日の6時30分から7時30分の間に、一日も早いパレスチナの和平へ向けて、祈りを送ってみて下さい。
見えないエネルギーが暴力を減らすことは、様々な実験で実証済みです。
多くの人が祈るほど、エネルギーは強くなります。

よろしくお願い致します』

これを読んで仰天した。
夕方、『愛ちゃん』を畑に撒きに来た歩美ちゃんと、蚊帳の中でお茶を飲みながら、また話した。
本当だった。
たったの一人さえも、「イスラエルを支持しない」と言った人が居なかった。
この、議員たちを、というよりアメリカを操っているイスラエルロビーについてはまた、違う日に書こうと思っているが、
このイスラエル・ロビー団体『AIPAC』の気に障るようなことを一言でも言ってしまったら、もうその議員は議席を失う。
これは厳然たる事実であり、だから議員を辞める気の無い者は誰ひとり、真っ当な意見を表明しない。
しかも、国連人権理事会で、イスラエルの軍事作戦を非難する決議案を採択した際に、アメリカたった一国が反対した。
嗚呼……なんと腰抜けな民主主義国家さんだことよ、なんと身勝手な世界の警察さんだことよ!


こうなったらもう、ガザに向かって、ガンガン祈るっきゃない。
「たとえ『AIPAC』に気に入られても、我々が気に入らない、落としてやる!」と、ガンガン電話をかけるっきゃない。

変わらないと思い込んでいる間は変わらない。
世界は、こんなふうに、変えられると信じて、自分のできることをコツコツ、時にはガンガンやる人が、
それこそいっぱいいっぱい増えた時、

変わるのです。
変えられるのです。
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「安倍内閣の集団的自衛権行使閣議決定に対し、集団訴訟、国家賠償請求を行い、司法の場で糾弾していく」

2014年07月22日 | 日本とわたし
↑今日の記事のタイトルは、松阪市長・山中光茂氏の、『ピースウイング』発足会見での言葉です。
その会見の様子を、IWJテキストスタッフの関根さんと奥松さんが、詳しく、分かりやすく、まとめてくださいました。

松阪はわたしにとって、とても懐かしい町です。
その松阪の市長さんが、立ち上がってくださいました。
わたしが知らないだけで、日本の地方都市、町や村の首長さんが、今も次々と立ち上がってくださっているのでしょうか。
ひとりの愚かな為政者、ひとつの愚かな政権のために、当たり前の幸せを台無しにされてきた市民は、世界中に大勢います。
その現実をまさに今、見せつけられているではありませんか?
イラクが、ギリシャが、アフリカの多くの国々が、パキスタンが、ウクライナが、
いえ、そんな国名を上げていること自体が、わたしがまだまだ世界の惨たらしい現実を、しっかりと理解していないことを示しています。
どの国も、大なり小なり、ひとりの愚かな為政者や、ひとつの愚かな政権のために、
生きること、幸せと求めること、健康を願うこと、そんな、命の根本を、土足で踏みにじられている市民が存在しています。

今こそ、本当に、本気で、非現実だ、などと言っていないで、
世界市民のひとりとして、手を差し延べ、求め、つないでいかなければならない時が来ていると、
わたしは強く感じています。


IWJ Independent Web Journalより、転載させていただきます。

↓以下、転載はじめ

【三重】山中光茂 松阪市長「集団的自衛権の閣議決定は違憲!国家賠償請求を行なう」 ~「ピースウイング」発足会見
2014/07/17
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/154385

ひとりの愚かな為政者、ひとつの愚かな政権のために、当たり前の幸せを台無しにすることはできない。
我々は、平和的生存権に基づいて、国家賠償請求を行っていく
」──。

2014年7月17日、三重県松阪市の松阪市産業振興センターにて、「ピースウイング」を立ち上げた松阪市の山中光茂市長と、
「ピースウイング議員の会」による、発足共同記者会見が行われた。
山中市長を中心とした市民団体「ピースウイング」と、松阪市議会議員5名と他府県40名の地方議員による「ピースウイング議員の会」の発足を報告。
安倍内閣による集団的自衛権行使の閣議決定に対し、集団訴訟、国家賠償請求を行い、司法の場で糾弾していくことを表明した。

山中市長は会見で、
集団的自衛権の閣議決定は暴挙であり、憲法違反。
国民の生存権が害され、未来を生きる子どもたちの幸せが壊される。
その不利益を拒否をするためにも、安倍政権に『ノー』を突きつけなければならない
」と語った。


約1時間にわたる記者会見の間、終始熱弁を振るった山中市長は、
自分はピースウイングの代表であり、シチズンという意味での市民だ。
松阪市長として、市民の安全安心を守る立場で、集団的自衛権の閣議決定に対して提訴、原告団の一員として活動する。
また、立憲主義を危惧する有識者や学者とも連携をとっていく
」と決意を述べた。

---------------------------------------------------------
記事目次
・「自衛」という美名の下での侵略戦争
・平和主義が抑止力だった日本外交
・集団提訴も国家賠償請求も辞さない
・世界に名だたる平和国家が壊れてしまう
・集団的自衛権は、国際貢献ではない
・国がやらないことを、地方からやっていく
・愚かな為政者の専制にストップを!
・国民の声の受け皿がない

----------------------------------------------------------



日時  2014年7月17日(木)11:00~
場所  松阪市産業振興センター2階(松阪市本町2176番地)の人材育成室
会見者 山中光茂市長、松阪市議会議員(久松倫生氏、松田千代氏、今井一久氏、深田龍氏、海住恒幸氏)、
    他の自治体から参加の議員(議員経験者も含む)、松阪九条の会の呼び掛け人の一人で、元三重県議会議員の多喜正男氏ら
詳細  ピースウイング議員の会


■『自衛』という美名の下での侵略戦争

冒頭、「ピースウイング」「ピースウイング議員の会」会見出席者の紹介に続いて、松阪市の山中市長が挨拶に立ち、
「本日は、呼びかけていなかったにもかかわらず、本団体の趣旨に賛同するたくさんの方々に集まっていただいた」と謝辞を述べた。

山中市長は、今回立ち上げた「ピースウイング」は政治的な活動ではなく、市民に開かれた運動であることを説明。
シンボルマークの虹色の翼を示して、
半世紀以上、この国が守ってきた平和を翼に乗せて、次の世代に届ける、という思いを込めた。
右でも左でもない、さまざまな議論には染まらない、虹色の平和の翼である
」と話した。

その上で、
安倍内閣が、集団的自衛権を閣議決定した。
武力による平和、武力による抑止と言うが、武力による平和が、今まであったのだろうか。
自衛という美名の下に、多くの侵略戦争が行なわれてきたではないか
」と訴えた。


■平和主義が抑止力だった日本外交

日本は憲法9条に基づき、現在まで、徹底した平和主義を貫いてきた。
平和主義を抑止力としてきた国家だった。
それが、日本の誇りでもあった

と語る山中市長は、
集団的自衛権の行使は、他国の自衛の正当性に基づき、武力行使が可能になる。
肯定論者は『一国の平和主義だけではダメだ。積極的な平和主義、国際貢献が必要だ』と主張する。
しかし、同盟国と共に戦争ができる権利を使って、国際貢献活動を行なうことは、まったく適切ではない

と断じて、次のように続けた。

国際貢献活動や平和維持活動と、集団的自衛権の論拠を混同している。
積極的平和主義を言うならば、人道支援、国連、国際機関の枠組みを通じた、自衛隊による国際貢献活動でいい。
アメリカのような、単独の武力行使による紛争解決は、侵略戦争に他ならない
」。

医師である山中市長は、
私はアフリカでの医療活動で、戦争の悲劇を痛感した。
日本では愚かな為政者が、集団的自衛権という、戦争ができる論理を打ち立てた。
市民の当たり前の幸せが壊されてしまう。
今が分水嶺だ

と、強い口調で訴えた。

今回の集団的自衛権の閣議決定は、一内閣の暴挙であり、憲法違反。国民の生存権が害される。
未来を生きる子どもたちの、幸せが壊される。
その不利益を拒否するためにも、安倍内閣に司法の場を通じて、『ノー』を突きつけなければならない。
ひとりの愚かな為政者、ひとつの愚かな政権のために、当たり前の幸せを台無しにすることはできない
」。


■集団提訴も国家賠償請求も辞さない

続けて、
そのために、集団提訴を考えている。
また、憲法違反を合法化するならば、立法機関としての国会に対して、平和的生存権に基づいて、国家賠償請求を行なう。
政治家が立憲主義を守れないなら、市民運動で訴えていかなくてはいけない

と主張。

一内閣の総理大臣でしかない人、閣議という行政機関のひとつの役割でしかない、憲法の中でも一組織でしかないものが、
これまでの国家の歴史を冒涜する判断をしたことを、司法の場で糾していかなくてはならない
」。

ピースウイング運動は、松阪地域から全国へと広げ、この思いを、次の世代へ伝えていきたい。
一度、平和が壊されてしまったら、再び取り戻すのは大変困難だ。
愚かな為政者によって、当たり前の幸せが壊されてしまう前に、それを防ぐことの重要性を、全国民に伝えていきたい
」。

この運動は、決して理想主義ではない。
国家としての安全を守る、現実的で戦略的な、非常に有効な手段である。
虹色の翼で、次世代に向けて平和の風をしっかり届けたい

と力を込めた。


■世界に名だたる平和国家が壊れてしまう

次に、松阪市議会議員の海住恒幸氏がマイクを握り、
「ピースウイング議員の会」に参加する松阪市議会議員(久松倫生氏、松田千代氏、今井一久氏、深田龍氏)を紹介。
愛知岐阜埼玉などからも、12名の市町村議員がここに出席した。
2府8県、計40名の議員が賛同している

と報告した。

続いて、市民の賛同者が、
これまで、日本の自衛隊員は、戦闘でひとりも死んでいない。
そんな、世界に名だたる平和国家が、このままでは壊れてしまう。
この運動を全国に広げていきたい

とスピーチした。


■集団的自衛権は、国際貢献ではない

質疑応答に移り、時事通信の記者が、山中市長に、提訴に関して具体的な計画を尋ねた。
山中市長は、
集団的自衛権の閣議決定後も、防衛省のホームページには、『集団的自衛権は、憲法上、認められない』と書いてあった(現在は削除)。
行政の手続きすら不十分のままで、憲法解釈で変えてしまう。
立憲主義国家に、あってはならないことだ

と批判。

その上で、
政府は、私的機関に過ぎなくなった。
私たちの平和的生存権が害されるということを、全国規模の活動を通して、みんなで共有したい。
テクニック的にも完璧にしてから、法的手段に訴えたい

と述べ、この会の結成は、提訴が目的ではないことを強調した。

※ 【IWJブログ】防衛省の反乱? 「集団的自衛権の行使は憲法上許されない」の文言、閣議決定から6日後にやっと削除

さらに、
この会は、同じ思いを持つ各種団体ともつながりを持ち、集団的自衛権の法的な間違いを正しく精査し、訴えていく。
また、集団的自衛権の意味を、国際貢献と取り違えている国民も多いので、啓蒙活動もしたい

と述べた。

集団的自衛権行使を肯定する人たちを、批判するつもりはまったくない。
さまざまな意見の方々が、一堂に介したシンポジウムを開催するなど、平和を守るためにはどうしたらいいのかと考える活動も行っていきたい
」。


■国がやらないことを、地方からやっていく

今後の活動サイクルについて訊かれた山中市長は、
次回は8月1日松阪市の商工会議所で、第1回市民集会を開催する
と告知した。
「ただし、市長としての公務が最優先だ」
と言い添えた。

この市民集会については、
とにかく、市民が、集団的自衛権の是非を議論する場がない。
なぜ、集団的自衛権が問題なのか。
平和を守っていくために、何が必要なのか。
議論のできる場を作り、意見交換を行いたい。
そもそも、議論の場を作ることなく閣議決定したこと自体が、何よりの問題だ。
国がやらないことを、地方からやっていく

と語った。

CBC記者が、「ピースウイング」と「議員の会」との違いを質問した。
山中市長は、
市民団体としては、今日がスタートだが、すでに、賛同する1万通以上のメッセージが届いている。
議員の会には、他地域の首長も賛同している。
議員の会は形式的なもので、市民団体とまったく同じ趣旨である

と答えた。

届いたメッセージの詳細を問われると、
中には、安倍政権を応援する、という内容もあったが、8対2で、1万通以上が、われわれに賛同するメッセージだった。
若い世代、女性、戦争経験者の高齢の方からの反響が多い。
海外も含めて、全国から寄せられた

と述べた。


■愚かな為政者の専制にストップを!

さらに山中氏は、次のように熱弁を振るった。
国家賠償請求や訴訟が、第一目的ではないが、集団的自衛権の憲法判断を、法廷で仰ぐ。
日本には、ドイツのような、憲法裁判所がない。
具体的な事例で、判断を求められる。
平和的生存権を失うこと、自衛隊員が、契約以外の職務で損害を被ること、
平和憲法の下で、外交交渉を行なってきたことの変更は、不作為による行政の憲法違反、と考えている
」。

今の憲法学者の見解では、司法は、この訴訟を拒むことはできないという。
本来、立憲主義を守るための三権分立であり、少数者を守るために司法がある。
司法の場で、愚かな為政者の専制をストップさせることは、とても大事だ
」。

毎日新聞記者が、
「市長は、改憲議論自体に反対なのか。
それとも、手続きに対して、異議を申し立てているのか」
と訊いた。
山中市長は、
まず、問題意識の共有や、具体的な事案を議論することなく、改憲議論することの不毛性がある。
国民的な意識変化、国家の環境変化の中で、具体的な改憲の必要性が生じた場合に、改憲議論が行なわれるべきだ

と見解を述べた。

憲法前文の平和的生存権の保障、9条の交戦権の否認、13条の幸福追求権、98条1項の最高規範性としての意味、99条の憲法尊重擁護義務。
これら、今の憲法における大前提について、内閣が憲法解釈ができるのか。
行政行為、もしくは立法行為として、不適切ではないか、と訴えたい
」。


■国民の声の受け皿がない

今回、『集団的自衛権には賛成だが、改憲をした上で行なうべき』という小林節氏(憲法学者)の意見もあるが、
集団的自衛権は、国を守るべき必要最小限度の武力からは逸脱していることを、多くの憲法学者、有識者、そして国民も認識している。
現行憲法に基づき、集団的自衛権を認めることはあり得ない

と断言した。

※ 2014/06/20 小林節氏「交戦権を放棄した日本に『戦争する道具』はない」~生活の党勉強会で

「現行憲法では認めないが、手続きを踏めばOKなのか」という質問に対しては、
ピースウイングには、いろいろな意見があると思うが、自分個人の考えでは、現行憲法の改正は不要。
70年間守ってきた平和主義の日本で、憲法による不都合、憲法による行政行為や、立法行為が不適切に行なわれてきたことはない、と思っている。
新たな問題は、違憲立法審査権で対応できる
」。

※ 2013/10/07 大江健三郎氏ら「九条の会」がアピール文発表 「解釈改憲による集団的自衛権行使容認は戦争への道

IWJの徳王記者が、
「松阪市議会では、集団的自衛権の行使容認の閣議決定の、白紙撤回を求めた請願が否決され、三重県議会でも、慎重を求める意見書が否決されている。
これからの議会運営で、市長は、与党自民党を動かしていかないとならないが、どうするのか」と質問した。

山中市長は、
自民党はともかく、今の野党にはリスクを感じる。
民主、みんな、維新、結いの各党は、今回の閣議決定のプロセスに関しては批判しているが、
集団的自衛権に対する意識、平和に対する意識が、自民党とほとんど変わらないのではないか。
国民の意識と乖離した政府の方向性に、野党が『ノー』を突きつけられない現状がある

と話した。

その上で、
国民の声の受け皿となる政治家、政治勢力がないのが、今、この国の問題点ではないか。
議員や首長に任せるという、従来の政治の流れではなく、市民から運動を動かしていく

と述べた。
【IWJテキストスタッフ・関根/奥松】 

↑以上、転載おわり
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権力者たちよ、私たちとともにシファー病院で一晩、たったの一晩でいい、過ごしてほしい!

2014年07月21日 | 日本とわたし
ブログ『薔薇、または陽だまりの猫』より、転載させていただきます。

ガザ通信2014 
ガザからの3つの手紙/岡真理さん から

2014-07-21

ガザに対するイスラエルの地上戦が始まり、死傷者の数も一挙に倍増しています。
土曜の晩から日曜にかけて、イスラエル軍は、ガザ市東部のシュジャイヤ地区を攻撃、多数の死傷者が出ています。
メディアや医療関係者も、狙い撃ちされています。

現地から、私たちに向けて発信された、3つの手紙を紹介します。

ひとつは、ガザのアズハル大学の英文学教授、サイード・アブデルワーヘド教授のFB。
もうひとつは、ガザ市のシファー病院で医療活動にあたっているノルウェーの医師、マッヅ・ギルベルトの手紙。
3つ目は、エレクトロニック・インティファーダに投稿された、アブーニウマのシュジャイヤ地区に対する攻撃についてのレポートです。

アブーニウマのレポートには、シュジャイヤ地区の写真もたくさんありますので、サイトの方もぜひご覧ください。

1)サイード゛・アブデルワーヘド教授
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
2014年7月20日、今日のガザ。
ガザ市東部のシュジャイヤ地区は、流血と砲撃の夜ののち、非戦闘員のパレスチナ人が、朝、自宅を逃げ出す。
52名が死亡、350名以上が負傷、と伝えられる。
遺体が、通りや瓦礫となった自宅の下に。
救急車や消防隊は、死傷者を救出しようにも、地区内部に到達することができず。
さらに、2名の救急救命士が殺され、18人が負傷。
UNRWAは、新たに避難した者たちのために、複数の学校を開放。
メディアや記者たちは、その報道ゆえに、脅迫されている。
ホテル、もしくは自宅にとどまるよう、命じられた。



2)マッヅ・ギルベルト医師
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
ガザからの手紙
http://www.middleeastmonitor.com/articles/middle-east/12920-letter-from-gaza-by-a-norwegian-doctor
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
親愛なる友人諸君、

昨夜は凄まじかった。
ガザに対する「地上侵攻」がもたらしたのは、貨車何十両分もの、変形し、ばらばらになり、血を流し、震え、死にかけた――、
ありとあらゆる種類の怪我を負ったパレスチナ人たち、あらゆる年齢の、あらゆる市民、あらゆる無辜の人々。

救急車の、そしてガザの病院すべての英雄たちは、12時間から24時間勤務で働いている。
疲労と非人間的な仕事量に蒼ざめながら、彼らは治療し、負傷者を分け、さまざまな肉体の把握不能な混沌をなんとか理解しようとする。
体格、四肢、歩ける者も歩けない者も、呼吸している者もしていない者も、出血している者もしていない者も、人間たちを!

今、「世界でもっとも道徳的な軍隊」(ママ!)によって、またも獣のように扱われて。
負傷者に対する私の尊敬の念に、終わりはない。
痛みと苦しみと、衝撃の只中にありながら、感情を抑えた彼らの決意。
[病院の]スタッフやボランティアに対する私の称賛の念に、終わりはない。

パレスチナ人の「ソムード」(不屈の意思)に、身近に接していることが、私に力を与えてくれる。
とはいえ、ふとした拍子に、叫び出したくなる。
誰かにしがみついて、泣いて、血まみれになった子どもの、その暖かな肌や髪の匂いを嗅いで、
終わりのない抱擁の中で、自分自身を護りたい――だが、そんな余裕は我々にはない、彼らにもない。

灰のように蒼ざめた顔――ああ、だめだ!
もうこれ以上は、何十人もの変形し、出血した者たち。
救命治療室の床は、依然として血の海だ。
血をたっぷり吸いこんだ包帯の山から、血が滴っている。
そこかしこで、清掃係の者たちが、速やかに始末している、血や、うち棄てられた布、髪、服、カニューレ――、
死者が遺して行った物だ――すべてが取り除かれる……再び備えるために、最初からまた、同じことを繰り返すために。

この24時間のあいだに、100人以上の患者が、シファー病院に運ばれた。
何もかも揃った、訓練の行き届いた大病院なら問題ない。
だが、ここは――ほぼ何もないのだ。
電気も、水も、ディスポも、薬も、手術台も、器具も、モニターも――、
何もかも、昔の病院の博物館から持ってきたかのように、錆びついている。
だが、彼らは不平など言わない。
これら英雄たちは。
彼らはこれで何とかするのだ、戦士のように、向かっていくのだ、大いなる決意をもって。

ベッドで、この言葉をあなたがたに書いているあいだにも、涙が止まらない。
暖かいが、役に立たない、痛みと悲しみの、怒りと恐怖の涙。
こんなことは起きてはいけない!

すると、今まさに、イスラエルの戦争機械のオーケストラが、その身の毛のよだつ交響曲を再び奏でだす、今まさに。
海辺のすぐ向こうにいる海軍のボートから、迫撃砲の一斉射撃、F16の唸り声、不快なドローン(アラビア語では「ゼンナーニス」、ハンマーのことだ)、そして群れなすアパッチヘリ。
多くがアメリカ製か、アメリカが買い与えたものだ。

オバマよ、あなたに人間の心はあるのか?
あなたを招待しよう。
私たちとともに、シファー病院で一晩――たったの一晩でいい――過ごしてほしい。
清掃係のふりでもして。
私は確信している、100%、そうすれば歴史が変わると。
誰であろうと、人間の心と、そして、権力のある者は、シファー病院で一晩を過ごしたなら、
パレスチナ人の殺戮に終止符を打つ、という決意なくして、ここを立ち去ることなどできないはずだ。

だが、人間の心をもたない、無情な者たちが、自分たちの損得勘定で、またも「ダヒーヤ」(犠牲)を、すなわち、ガザに対する殺戮を計画したのだ。
血の川が、今晩も流れ続けるだろう。
彼らが、その死の楽器の音合わせをしているのが、私には聞こえる。

どうか、あなたにできることをしてほしい。
こんなことは、こんなことは、続いてはいけない。

マッヅ・ギルベルト医学博士
ノース・ノルウェー大学病院
緊急医療クリニック
教授・診療所長



3)アリー・アブーニウマ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
シュジャイヤの虐殺
http://electronicintifada.net/blogs/ali-abunimah
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日曜の未明、イスラエルは、ガザ市東部のジュジャイヤ地区を無差別砲撃、何十人もの男性、女性、子どもたちが殺された。

約60もの遺体がすでに、家やアパートのビルの瓦礫の中から運ばれ、負傷者は多数、200名を超えると、
パレスチナ保健省の報道官、アシュラフ・アル=キドラ博士は、地元メディアに語った。

だが、実際の死者数は、もっと多いはずだ。
国際赤十字委員会は、負傷者の救出と遺体の搬送のため、2時間の「人道的休戦」を整えた。

今回の、ガザに対するイスラエルの爆撃による集団殺戮で、420名以上のパレスチナ人が殺され、今、攻撃は、第2週目に入った。
3000人以上が負傷し、何万人もの人々が自宅から逃げ出し、うち大勢が、国連が運営する学校に避難をしている。

ガザという小さな土地に、180万の人間が暮らす。
イスラエルの陸、海、空による攻撃から、安全な場所などどこにもない。
エジプトの軍事独裁政権は、イスラエルと緊密な同盟を結び、ラファ検問所を封鎖している。


攻撃現場の目撃証言
イスラエルの攻撃が一時停止したとき、シュジャイヤ地区に入ったジャーナリストたちが、その光景をツイートしている。
ガザ市のシファー病院の中から、あるいはその近くから、写真をツイートしている者もいる。

以下、現場からのツイート記事と写真。
写真については、サイトをご覧ください。
http://electronicintifada.net/blogs/ali-abunimah/



ガザ危機 7月17日までの状況まとめ(IMEU)/岡真理さん から
2014-07-21

京都の岡真理です。
Institute for Middle East Understanding(IMEU 中東理解のためのインスティチュート)が発表した、本17日までのガザ危機の現状です。

http://imeu.org/article/gaza-crisis-update-july-17-2014

IMEUは、パレスチナ問題に関し、主流メディアが報道しない事実を提供するために作られた情報サイトです(写真も掲載されていますので、サイトの方もご覧ください)。

もはや、「ハマースの軍事施設を叩くために」などという、イスラエルの公式声明を信じている者はいないと思いますが、
これを読むと、民間人の大量殺戮がどのように行われているのか、具体的に知ることができます。

また、イスラエルによる戦争犯罪を、世界に発信するジャーナリストやメディアも、攻撃対象になっていることが分かります。

さらに、病院も標的とされ、救急医療へのアクセスも意図的に阻害されることで、犠牲者が拡大していることも分かります。

8年に及ぶ完全封鎖で、疲弊しきった社会の、その辛うじて稼働している産業インフラ、社会インフラを、
爆撃・砲撃によって、徹底的に破壊するための作戦
だということが、こうした被害事実からも見えてきます。

ガザ攻撃は、ガザのパレスチナ人を定期的に実験台にして、開発された軍事兵器の威力を、世界に向けて知らしめるためのショーとしても、企図されています

日本のマスメディアに対しても、このような事実の詳細を、番組や紙面できちんと報道するよう、要求したいと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ガザ危機 2014年7月17日(更新)
IMEU

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
●7月7日以来、イスラエルは、ガザのパレスチナ人およそ370名を殺害、負傷者は約2700名。

●7月17日に始まったイスラエルの地上攻撃の最初の48時間で、少なくとも、ガザのパレスチナ人110名が殺害。

●現地時間の今朝(7月20日)、イスラエル軍は、ガザ北部のシュジャイヤ地区で、子供3人を含む少なくとも20名を殺害。

●国連?によれば(7月19日午前8時 アメリカ東部標準時)

○少なくとも228人の民間人が殺害、うち子ども77名、女性56名。
○少なくとも657名の子ども、463名の女性が負傷。

6万人のパレスチナ人避難民が、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の学校に避難。

○少なくとも7万2000人の子どもが、知人の死や負傷、家の喪失によるトラウマのため、特別な心理的サポートを必要としている。

90万人が、水、および衛生サービスに、適切にアクセスすることができない。

○住民の80%が、1日に4時間しか電気がない。

○少なくとも3600人の漁師が、生計を立てることができず、
少なくとも2500人の農民が、家畜、農地、穀物、施設の損傷、ないし喪失のため、緊急の食糧援助を必要としている。

○7月7日以来、少なくとも85の学校、18の保健関連施設が、損傷(病院3、診療所12、看護センター3)、修復を必要としている。

少なくとも医師1名が殺害、19名の医療スタッフが負傷、少なくとも4台の救急車が損傷。


●民間人の死傷者の目だったものとして、

○7月19日
一家4人を含む5人の民間人が、ガザ北部、ベイト・ハヌーンで、イスラエルの砲撃により殺される。
殺された家族は、マフムード・ズワイドとその妻ダリア、ナガム(3歳)とルーヤ(2歳)。

○7月18日
ガザ北部、ベイト・ハヌーンの自宅にミサイルが撃ち込まれ、アブー・ジュラード家の、子ども4人を含む8人の家族が殺される。

○7月18日
ガザ南部のハーン・ユーヌスで、シャース家は、自宅がイスラエルに空襲され、家族のうち4名が殺され、ほか4名が負傷、うち1名は重症。

○7月16日
ガザ市の海辺で、イスラエルの砲撃により、4名の幼い少年が殺され、ほか3名が負傷、すべて従兄弟たちだった。
亡くなったのは、アヘド・アーテフ・バクル、ザカリヤ・アヘド・バクル(ともに10歳)、ムハンマド・ラミーズ・バクル(11歳)、イスマーイール・マフムード・バクル(9歳)。

○7月13日
イスラエルは、ガザの警察庁長官を暗殺しようと、その従兄の家を攻撃(暗殺は失敗)。
それにより、アル=バトシュ家の家族18名が殺され(うち6名が子ども、3名が女性、一人は妊娠中)、ほか16名が負傷。

○7月12日
イスラエルの空襲により、ガザ北部のベイト・ラヒヤにある障害者施設で、2人の住民が殺害、ほか数名が重傷。
殺されたのは、オラ・ワシャシ(31歳)、スハー・アブー・サアダ(47歳)。
いずれも、重篤な精神的、身体的障害を負っていた。

○7月10日
イスラエル軍は、ガザ南部ハーン・ユーヌスの、アル=ハッジ家の自宅を攻撃、家族8名を殺害、うち5人が子ども。

○7月8日
イスラエル軍は、ガザ南部の浜辺のカフェを攻撃、少なくとも9名の民間人が殺され、16名が負傷。
彼らは、ワールドカップを観戦していた。


●メディアに対する攻撃

○7月18日
イスラエルは、ガザ市にある、メディアの事務所が複数あるビルを爆撃、パレスチナ人のフォト・ジャーナリストが負傷。

○7月15日
ニューヨーク・タイムズのために運転手をしていた男性が、ガザ市の住宅に対するイスラエルのロケット攻撃により軽傷。

○7月8日
パレスチナ人ジャーナリストたちが乗っていた車両が、メディアとはっきり書かれていたにもかかわらず
イスラエルに爆撃され、運転手が殺され、同乗していた記者3人が負傷。


●人権団体の声明・リポート

7月18日、人権のための医師団ーイスラエルやベツェレム、拷問に反対するイスラエル公共委員会、イスラエル市民権協会をはじめとする、イスラエルの人権諸団体からなる一グループが、合同プレスリリースを発表。
イスラエルの激しい攻撃により、負傷したパレスチナ人が、必要な医療を受けられないという、いくつもの事例を詳細に訴える、

「「キャスト・レッド」作戦で学んだ教訓の一部として、そして、法的義務に従うとして、
軍は、負傷者が退避でき、妥当な時間内に救急車にアクセスできるよう調整するメカニズムを準備する、と約束した。
昨晩の複数の出来事は、このメカニズムが、たとえ紙の上には存在するのだとしても、じゅうぶん効果的ではないことを、明瞭に例証している。

その結果、我々は、
ガザ地区の負傷者の避難を調整するメカニズムを制度化するというこの法的義務を、履行するための緊急行動を求める。
我々は、
ガザ地区の救急チームや、医療従事者が保護され、彼らが自らを危険にさらすことなく、その義務を遂行できるようにするよう訴える。
これは、命の尊厳の原則を守り、致命的なものとなり、犠牲者のさらなる増大をもたらすかもしれない負傷者の避難の遅延を、回避するためである。

さらに、激しく攻撃されている地域から避難するに際して、民間人が直面している甚大な困難という事実を踏まえ、
我々は、
自らの命を守るため、爆撃下の地域から脱出しようとする市民のために、安全な通路を確保し、
彼らが安全な地域に移動できるようにすることを、双方に対して要求する。


7月17日、ガザで何年にもわたり活動している、英国を拠点とする「世界の医師たち」は、
「イスラエルの空襲は、パレスチナの看護システムを、限界まで破壊する」と題する声明を発表、
民間人の負傷者の多さに対し、警告を発し、以下のように述べた。

「空襲により、保健サービスは深刻な被害を受け、頻繁な停電を耐えなければならない」
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世界独裁体制を作っているグループに、命と精神を傷つけられるのはもうイヤだ!

2014年07月21日 | 世界とわたし
青木よしなりさんという方が、フェイスブックで伝えてくださったこの写真。




ニューヨークで行われた、数万人のユダヤの人々による、ガザ虐殺抗議集会の写真です。
メジャー局は、このことについて、一切伝えていません。

今朝は、この写真に寄せられたコメントを元に、あちこち調べたり読んだりしていました。
青木さんも、わたし同様、ガザで子育てをしている友人がおられるそうで、
わたしの親友ミリアムから聞いたように、
「催涙ガスやアパッチ、ゴム弾や機銃掃射という日常の上に、今度はミサイルに空爆……」という、
我々には到底想像もつかない、非情で悲惨な状況の中に、人々や動物は閉じ込められています。
ミリアムがくり返し言っていたのは、そのミサイルを追撃するミサイルが的を当て、同時に炸裂した時の音の恐ろしさです。
そんなものを、小さな子や動物のように、まだ未完の弱い生きものに、毎日のように体験させてしまっていることは、本当に間違っています。

これはロンドンでの抗議デモ。


そしてこれは、イスラエルでの抗議デモです。



青木さんと、コメント欄で話し合われていた方々の言葉の中から、その一部を転載させていただきます。

↓転載はじめ

「この黒帽子のハシディズム派の人達は、ずっと以前から、イスラエルの暴挙を非難していました。
ユダヤ人の中でも、極少数派だから、良心のユダヤ人なんて呼ばれているんです」

「実際には、スティーブン・スピルバーグのように、イスラエルの虐殺に寄付をするシオニストの方が、圧倒的多数です」

「世界中から反対の叫び、それでもヤルのは、アメリカと同様に、武器使用期限から来る在庫一掃セールなのか?
人の命を奪う以外に使い道の無いハサミは、誰もをバカにすると感じてます」

「ユダヤの人々とは、一体何を持って指すのか?
正直解らないのが本音です。
ジプシー、ロマ、様々な形で世界中に居る人々、ウクライナやアゼルバイジャン等の東欧圏まで含め、様々な血が混ざってるのは間違い無く、
それでも尚、ユダヤ人の国と言う敷居を設け、土地の略奪と殺戮を繰り返すのは、意図的なユダヤ人消滅を願ってるとすら感じます。
武器を使うという行為が、自国の尊厳や平和を維持する為で『無く』、経済活動であるとハッキリしている時代にする殺戮は、明確に犯罪なのに……」

「ユダヤとは宗教であり、人種ではないという説明が基本にあります。
他の人によれば、宗教としてのユダヤと、人種としてのユダヤ人と、2種類の見方もあります。
一番問題なのは、ユダヤをカモフラージュに使い、偽りの「ホロコースト」をバネにして犠牲者の中に隠れ、
実際には、金融システムを独占しては世界独裁体制を作っている、比較的少数のマフィア・グループだと思います」

↑以上、転載おわり


そして、わたしの転載の承諾を尋ねるコメントに対して、快諾してくださった青木さんの返事の中に、
「インティファーダが行われるのかは解りませんが、何とか誰もが出来る事をする時と思います」とあり、
インティファーダという言葉を知らなかったので、そのことについて調べてみました。

Wikipedia『インティファーダ』

こちらの方がわたしには分かりやすかったので、

知恵蔵2014の解説
『インティファーダ』

1987年末、イスラエル占領地で、パレスチナ人が一斉に、投石などでの抗議行動を開始した。
これを、第1次インティファーダと呼ぶ。
この鎮圧に失敗したイスラエルは、力だけでは、パレスチナ人の民族主義を抑えることはできないと悟った。

1993年のオスロ合意を受け、抗議行動は、一応の終息を見た。
2000年9月末、シャロンが、多数の護衛を従えて、エルサレムのイスラムの聖地(ハラム・アル・シャリーフ)に入った。
これにパレスチナ人が反発、占領地全域で、イスラエル当局と衝突した。
イスラエル国内のアラブ人地区でも、抗議運動が発生。
このパレスチナ人の蜂起を、聖地内のアル・アクサー・モスクの名を冠して、アル・アクサー・インティファーダと呼ぶ。
オスロ合意以前のインティファーダの再燃、との視点に立てば、第2次インティファーダでもある。
蜂起の背景には、1993年以来の中東和平プロセスの成果が、あまりに乏しかったという、パレスチナ人の不満がある。

第1次インティファーダにおいては、投石などの手段が主流であったのに対し、
第2次インティファーダでは、小火器、迫撃砲、さらには手製のロケット弾などが、パレスチナ側によって使用された。
また、イスラエル国内での、パレスチナ人による自爆攻撃も、続発している。
対するイスラエルは、戦車、ジェット戦闘爆撃機、ミサイル搭載ヘリコプターなどの圧倒的な火力で、パレスチナ側を攻撃、
さらに、パレスチナ人の指導層を、「テロリスト」として、次々と暗殺した。
その上、ヨルダン川西岸では、交渉によってパレスチナ人が自治を始めていた地域の大半を、再占領した。

05年1月、アッバスが、パレスチナ人の指導者となって以来、事態は一時、鎮静化した。
しかし、06年に、イスラエルを認めないハマス政権が成立し、
同年7月に、イスラエル兵士1人が、ガザへと拉致されると、イスラエルはガザを封鎖した。
しかも、ヨルダン川西岸では、ハマスの評議会議員を、次々と拘束した。
占領と抵抗という、インティファーダの構図が続いている。
( 高橋和夫 放送大学助教授 )

出典:(株)朝日新聞出版発行「知恵蔵2007」
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
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かぞく

2014年07月21日 | 家族とわたし
友人のアンドリューが、
「ぜひ紹介したい友だちがいる。
ふたりして、ぜひ彼の家に行ってほしい。
もうすごいんだから」
と言ってきた。

場所は、アンドリュー一家が暮らすワシントンハイツ。
先週の土曜日に、ご近所さんで、彼の息子フィンと同い年くらいの娘ちゃんがいる、マイケルの家に遊びに行った

  



 









居間には楽器がいっぱい♪

アンドリューがやりたかったのは、チビちゃんたちも交えてのジャムセッション♪

だから彼は、けっこう重たいコレ↓を、自分ちからエッサホイサと運んで来た。


つい最近、コレも加わったことを知らなかったらしい……。


結局、あれやこれやの楽器を存分に楽しんだのは、我々大人たちだけだったのだけど……そして子どもたちは、お医者さんごっこをしていて、

患者になりなさ~い!という命令を受けて、大人たちはひとりずつ、体のどこかに固いものを潜ませて、診察室に入って行き、


ふたりの先生の、懇切丁寧な診察を受け、


熱を測ったり注射をしたり、大忙しのドクター・エラ。


あ、痛みの元が取れました!


我々が持ってった甘辛ポップコーンが大人気。


マイケルのアパートメントのエレベーターが、超~渋い。






ロビーのモザイク模様が、ホットドッグみたいだよ~と、踊るフィン。


どこの角にも、フィン怪獣出現!




ワシントン・ハイツ名物、路地の階段。


建物がどれもこれもすご~く古い。




いきなり出現したピエロさん。


長~いお昼寝から目が覚めて、腹ごしらえ中のメイヴ。


おいおい、9ヵ月なのに歩いてるよ~!?


自分ちの庭のように使ってる、近所の公園にGO! お兄ちゃんぶりを発揮中の4才間近のフィン。


公園前の地下鉄駅。


春にはとんでもない数の花が咲き誇るこの公園、ハドソン河がパノラマに見渡せる。


薄暗い夕暮れに、白く輝く花、花、花。






雨がずっと続いた後の丸々1週間、快晴続きだったので、ちょっと喉が渇いているのかも。






そして昨日の日曜日、
従兄弟んち(うちから15分ぐらい車で走った所)のパーティに行くんだけども、帰りに寄ってもいいかな?と、友人ジャンから連絡が入った。
もっちろんさ!

夏は特に、あくせくしたくないので、近くのベトナム料理店からテイクアウトした。


アリーナとユージンが、ジャン父ちゃんのギターに合わせてダンス・ダンス・ダンス♪
お~い、ピントが合わないよぉ~!




まったくもって、可愛い過ぎて、目が一時も離せないふたりなのである。






アンドリューもジャンも、旦那と同じ大学で学んだ同級生、まさに子育ての真っ最中。
パートナーとふたりして、一所懸命に、時には年令相応の経験からくるリラックスさでもって、親業に励んでいる。
対して旦那は、もうすっかり子育てを終了して、自分のキャリアを積むことに集中している。

彼がいきなり、20代の真ん中で、ふたりの男の子の、それも幼児の、しかも文化も言葉も違う子どもの父親にならなければならなかった時の、混乱と躊躇について、
今さらながらではあるけれど、こうやって子育てに奮闘しているカップルを見るたびに、思いを馳せる。

大変だったろうな……彼にとっても、そして息子たちにとっても。
わたし自身が感じていた大変さとはまた違う、質の、量の、大変さを彼らは抱えていたのだろうな。

もしあの時◯◯だったら、もしあの時△△していたら、
そんなふうに考えることはあるけれども、それがいかに意味の無いことであるかもわかっているから、
とにかく、どうであれ、息子たちは成人し、社会人として、親のわたしなどよりはるかに良く生きてくれていることに、心から感謝しよう。
まるでなにも特別なことを、はっきりいって当たり前のことすらも、させてあげられなかった、与えてやれなかったわたしたちだったけれど、
思いやり、優しさ、強さ、そして思ったことを正直に言葉にする残酷さも備え、お金で苦労してきた我々を反面教師にして、しっかりした経済設計を立てて生きている彼ら。

家族の数だけ物語がある。
わたしたちは、その中のひとつに過ぎないけれど、そのひとつは、かけがえのないひとつなのだ。
コメント (2)
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「放射能でひとりも死んでないだと……このうそこきやろう人殺し」青田恵子『拝啓関西電力様』より

2014年07月19日 | 日本とわたし
花てぼさんのブログより拝借させていただきました。
このブログでも、以前に一度、紹介させていただいた、青田恵子さんの詩『拝啓関西電力様』。
方言の持つしなやかさやリズムが、そして花てぼさんの流れるような優しい文字が、
棄民をひたすら続行する国や電力会社への憤り、絶望、悲鳴が、そこらかしこから聞こえてくるような激しい言葉を、あたたかく包み込んでいます。

↓以下の写真は、花てぼさんが紹介してくださった、みどりさんのブログ『日々の暮らしを記憶に刻む』よりお借りしました。







↓以下、花てぼさんのブログより、転載はじめ

2014年07月13日
青田恵子さんの詩「拝啓関西電力様」

「入間書人展」で発表して、大変好評をいただいている。
毎日展7/16日から、東京都美術館で展示のものと同じで、見に行ってくださる予定の方もおられて、こちらを先に載せるのは憚られたが、
作風が随分違うので、一つはこちらでご覧いただいて、もう一つの方と比較して見るというのもいいのではないかと思っています。
私自身はこちらの作品が好きです。
と言っても、もう一方の作品は提出が早かったので、詳細を思い出せません。


今回、書としてよりも、青田恵子さんの詩を多くの方に知っていただいたり
この作品の前で「脱原発談義」が聞かれるのが、私の願いでもありましたから、実際そのように見受けられるのが嬉しいです。
方言と共に、この文字の優しさが、この詩の重苦しさ(作者ご本人や、当事者の方たちには、これでも言い足りないお気持ちでおありのことでしょう)に、ワンクッション置かれているように感じるなどと言っていただくと、書にした者冥利に尽きる思いがします。
詩を書くことを快く承諾してくださった青田恵子様、お世話いただいたNO NUKES from shiga 脱原発・滋賀☆アクションhttp://nonukesiga.exblog.jp/ 様に、心より感謝申し上げます。


『拝啓関西電力様』
青田 恵子

エアコン止めで 耳の穴かっぽじって よーぐ聞け
福島には 「までい」っつう言葉があんだ
までいっつうのは ていねいで大事にする
大切にするっちゅう意昧があんだ
そりゃあ おらどこ東北のくらしは厳しかった
米もあんまし穫んにぇがったし
べこを飼い おかいこ様を飼い 炭を焼き
自然のめぐみで までいにまでいに今まで 暮らしてきた
原発は いちどに何もかもを 奪っちまった

原発さえなかったらと
壁さ チョークで遺書を残―して
べこ飼いは首を吊って死んだ。

一時帰宅者は
水仙の花咲く自宅の庭で
自分さ火つけて死んだ。

放射能でひとりも死んでないだと……
この うそこきやろう 人殺し
原発は 田んぼも畑も海も
人の住む所も ぜーんぶ(全部)かっぱらったんだ。
この 盗っ人 ドロボー
原発を止めれば 電気料金を二倍にするだと……
この 欲たかりの欲深ども
ヒットラーは毒ガスで人を殺した
原発は放射能で人を殺す
おめえらのやっていることは ヒットラーと なんもかわんねぇ
ヒットラーは自殺した

おめえらは誰ひとり
責任とって 詫びて死んだ者はない
んだけんちょもな おめえらのような人間に つける薬がひとつだけあんだ
福島には 人が住まんにゃくなった家が なんぼでもたんとある
そこをタダで貸してやっからよ
オッカアと子と孫つれて 住んでみだらよがっぺ
放射能をたっぷり浴びた牛は そこらじゅう ウロウロいるし
セシウムで太った魚は 腹くっちくなるほど 太平洋さいる
いんのめぇには、梨もりんごも柿も取り放題だ
ごんのさらえば 飯も炊けるし 風呂も沸く
マスクなんと うっつぁしくて かからしくて するもんでねえ
そうして一年もしたら 少しは薬が効いてくっかもしんにぇな

ほしたら フクシマの子供らとおんなじく
鼻血が どどうっと出て
のどさ グリグリできっかもしんにぇな
ほうれ 言った通りだべよ
おめえらの言った 安全で安心な所だ
 
さあ、急げ!
荷物まどめて フクシマさ引っ越しだ
これが おめえらさつける
たったひとつの薬かもしんにぇな
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「自分達の町の存続と生命を守るため、この訴訟を起こした。それ以外に残された道はなかった」函館市長

2014年07月19日 | 日本とわたし
「世界一厳しい基準」は根拠無し。
「第二の安全神話」を作っているに過ぎない。 
大間原発差し止め訴訟の工藤函館市長が口頭弁論で指摘(函館)

2014年7月17日



函館市長の工藤でございます。
函館市が提起した、大間原子力発電所の建設差止め訴訟に至るまでの経緯や、私たち地域の思いについてお話しさせていただきます。
(第一回口頭弁論:7月3日15:00東京地裁103号法廷)


▼ 福島事故から建設再開まで(訴状第1章「はじめに」)
2011年(平成23年)3月、東京電力福島第一原子力発電所において、世界を震撼させる未曾有の大事故が発生し、
このことによって、原発の安全神話は完全に崩壊し、多くの国民に不安を与えるとともに、これまでの原発政策に大きな不信を抱かせたところであります。

私自身も、福島原発事故が起こる前は、安全神話を信じておりましたが、
福島の事故が、原発の立地地域にとどまらず、広範囲の周辺地域に大きな被害を及ぼすとともに、
国や事業者のずさんな事故対応を目の当たりにし、原発の安全神話に浸かっていたことを大いに反省いたしました。

原発は、一度事故を起こせば、一地域にとどまらず、場合によっては国を崩壊させるリスクがあることを知り、
そして、津軽海峡を挟んで、函館市の目の前で建設されている大間原発で、事故が起きたときの状況を考え、
先行きに対する不安が、一気に高まりました。

事故から1か月半後の4月に、市長に就任し、6月には、北海道とともに、
国や電源開発株式会社に対し、大間原発について不安を抱いている住民へ、説明責任を果たすよう要望をしましたが、
福島の事故直後にも拘わらず、ただひたすら建設継続の必要性を説く、国や事業者の対応に落胆し、
このときはじめて、私の中に、場合によっては訴訟も辞さず、との考えが浮かんだものであります。


福島第一原発事故について、国会事故調の報告書では、
何回も対策を打つ機会があったにも拘わらず、歴代の規制当局および東電経営陣が、それぞれ意図的な先送り、不作為、あるいは自己の組織に都合の良い判断を行うことによって、安全対策が取られないまま3.11を迎えたことで発生したものである』とし、
それは『自然災害』ではなく、明らかに『人災』であると断じております。


福島の原発事故では、函館市の主要な産業分野においても、実際に大きな影響を受けました。
観光分野では、国内だけではなく、海外からの観光客も大幅に落ち込み、それによるホテル・旅館業への直接的な影響だけではなく、
水産加工品や農水産物の納品の減少、飲食・物販などの売上減少など、関連する産業全てに影響がありましたし、
風評被害により、海外への水産物の輸出も滞るなど、水産加工業を含む水産業も、多大な損害を受けたところであります。

このようなことから、私は、少なくとも建設中や計画中の原発は、当分凍結すべきと考え、
その後も、近隣自治体の首長や議長とともに、国や電源開発株式会社に、大間原発建設の無期限凍結を要請してまいりました。

しかし、事故発生から1年半後となる2012年(平成24年)10月1日、
電源開発株式会社は、福島の事故を起こした審査基準のまま、突然大間原発の建設を再開しました。

福島の事故では、原発が立地されている地域にとどまらず、広範囲の周辺地域に大きな影響が及んだにも拘わらず
その現実に目を背け、福島の原発事故以前と同じように、北海道側には何の説明もなく、私たちの意見を聴くこともなく、
また、私たちの意向を一切斟酌することもなく、一方的に再開を通告しに来た
だけであります。


原子力施設の事故は,国際的に8段階で評価を行っております。1979年のアメリカのスリーマイルの原発事故はレベル5,福島第一原発事故はレベル7です。アメリカの方が低いレベルだったのですが,それでもアメリカは30年以上原発を新設していません。


福島の原発事故からたった1年半で、大間原発の建設が再開され、
地震や津波対策など、ハード面だけ多少強化すれば、あたかも事故は起こらないがごとく建設が進められており
また以前の安全神話に戻るのではないか、という疑念さえ抱いております。


▼ 地域防災計画(訴状第2章「本件訴訟の法的根拠」、第9章「大間原発の具体的危険性(その3)シビアアクシデント対策には限界がある」)

大間原発の建設再開後、国は、原子力災害に関わる地域防災計画を策定すべき重点地域を、
福島原発事故前の8ないし10km(EPS)から,30km(UPZ)に拡大し,函館市もその地域に含まれることになりました。

2005年(平成17年)10月に、原子力安全委員会の主催による「大間原発の原子炉の設置に係る公開ヒアリング」が大間町で開催され、
函館市の当時の担当部長が、大間原発で過酷事故が起きた場合の、本市への影響などについて質問いたしました。

それに対し、原子力安全・保安院からは、
*炉心が溶融するようなシビア・アクシデントの発生する可能性は、極めて小さい
*シビア・アクシデント対策により、函館市への影響を及ぼすおそれはない
*8ないし10km(EPS)の外側では、防護措置が必要ではない

などと、住民の不安を一蹴しましたが、それが完全な誤りであったことが、福島原発事故により明らかになりました。

原発事故が起きれば、大きな被害が及ぼされる危険な地域が、原発から半径30km圏内の市町村に拡大し、
避難計画の策定を義務づけられ、住民を安全に避難させる責任を負わされたにも拘わらず、
国や事業者は、30km圏内の市町村には、説明会や意見を言う場を設定しない、
ましてや、建設の同意を求めるということを一切行わず、無視している
状況にあります。
私たちには、それが全く理解できません。

そもそも自然災害とは異なり、原因者が明らかである原子力災害では、
避難計画をつくるのは、周辺自治体の同意を得ずに原発を造る事業者、あるいは、それを認めた国がやるべきだ、と私は考えております。
実効性のある避難計画の策定が可能な地域かどうか、原発の立地に適した地域かどうかを、改めて検証することもなく、
また、原発の建設に関する手続きや手順を、福島の事故を踏まえ、改めて見直すこともなく建設続行するのは、
極めて横暴で強圧的なやり方だ
としか、言いようがありません。



アメリカでは、スリーマイル島の原発事故以降、実効性のある避難計画がなければ、原発を動かすことはできません。
事前の計画で、避難先も定め、どの方法でどの道路を通るかも決めており、それらは全て、連邦政府の審査を受けております。
実際,避難計画を立てることができないという理由で、一度も稼働せずに廃炉となった原発があるといいます。

日本の場合、実効性のある避難計画の策定を、原発運転の必要条件にしておりません
緊急時の避難計画の作成は、自治体に丸投げされ、責任をもって実効性をチェックする、国の機関はありません

政府は、原子力規制委員会の新規制基準を『世界一厳しい基準』と繰り返しておりますが、
その根拠について質されると、『世界最高水準になるよう策定した』と、答えになっていない答弁書が提出されました。


日本の政府が、根拠を示すことができない『世界一厳しい基準』との主張を繰り返す一方
欧州では、炉心が溶け落ちる大事故に備える、コアキャッチャーの設置や、格納容器の二重化など
日本にない、新たな安全対策が始まっているといいます。

万が一の事故の際に、安全な避難が可能かどうかというチェックが全く行われず、
審査が、根拠のない『世界一厳しい基準』により行われているということは、
『第二の安全神話』をつくっているに過ぎない、と言っても過言ではありません。



▼大間原発の問題点(訴状第7章「大間原発の具体的危険性(その1)想定地震の問題点」,第8章「大間原発の具体的危険性(その)テロ対策は不可能である」)

大間原発には、他の既存の原発と違う、いくつかの問題点があります。
一つ目は、
福島第一原発事故を招いたずさんな審査基準により許可され、現実に建設が進められていることです。
原子力規制委員会の新規制基準の策定も待たずに、建設を再開したことは、全く理解できるものではありません。

電力需給に関係する既存原発の再稼働でさえ、原子力規制委員会の審査を待っております。
少なくとも、規制委員会の審査をクリアしたうえで、建設を再開するのが筋であったはずです。
建設ありきで、安全は二の次だと言わざるを得ません。

二つ目は、
ウランよりも非常に毒性が強いプルトニウムとウランとの混合燃料を、全炉心で使う、世界初のフルモックスの原子炉だということです。
通常の原発以上に制御が難しく、万が一の事故の場合には、比較にならないほど大きな危険性があることを指摘されておりますが、
実験炉、実証炉による検証をすることもなく、いきなり商業炉として稼働させることとしております。
しかも、電源開発株式会社は、これまで原発を、建設も稼働もさせたことのない企業であります。

三つ目は、
大間原発の北方海域や西側海域には、巨大な活断層がある可能性が高い、といわれていることであります。
電源開発株式会社では、『耐震設計上考慮しなければならない断層ではない』と断定しておりますが、
福島の事故以前の活断層調査や安全審査においては、活断層が無視されたり、過小評価されてきたことが指摘されており、
電源開発株式会社が行った調査は、信憑性に欠けると言わざるを得ません。

四つ目は、
大間原発が面している津軽海峡は、国際海峡であり、領海が、通常の12海里(22㎞)ではなく、3海里(5.5㎞)しかないことです。
国籍不明船であろうが、どのような船でも自由に航行でき
時速数十キロの能力のある高速艇であれば、あっという間に原発に突入することができるという、テロ集団にとって格好の位置に建設されております
しかも、フルモックスの原発であり、標的にされやすく、安全保障上、世界で最も大きな危険性を抱えた原発といえます。

五つ目は、
既存原発の再稼働とは異なり、電力需給の問題を全く生じるものではないことです。
企業や家庭の省エネや節電が定着し、現在ある発電所で、電力需要を十分賄ってきたことを踏まえると、
あえて大間原発の建設を、続行する必要性はありません


このほか、使用済のモックス燃料は、大間原発では20年分しか保管できないうえ、処理が難しく、危険性が高いと指摘されていますが、
その処分の方法については、全く見通しがたっておりません


こうした多くの問題点について、私たちは一貫して、国や事業者である電源開発株式会社に申し上げてきましたが、
納得できるような説明は、これまで一切ありません

電源開発株式会社は、函館市側に、説明や情報提供をしてきたと言っておりますが、
それは建設推進を前提とし、しかも、会社のホームページやパンフレットに記載されている程度のものに過ぎず、
私たちの不安や疑問に応えるものではなく、アリバイ的に行っているにすぎません


そもそも電源開発株式会社は、福島原発事故以前から、
『立地地点である大間町、その隣接村である佐井村、風間浦村以外で理解活動を行う考えはない』として、住民説明を拒んできました

そして政府は
『稼働するにあたっては、立地自治体を始め、関係者の理解を得る最大限の努力をする』と、一方的に建設ありきの発言を繰り返し、
住民の不信感や不安を、払拭しようとする姿勢は感じられません


▼ 函館と大間の位置関係と避難の困難さ(訴状第10章「大間原発で過酷事故が発生した場合の函館市の損害」)


建設途中で止まっている大間原発

こちらは、函館市と大間原発の位置関係を示すパネルですが、



函館市は、大間原発から最短で、23kmの位置にあります。
しかも、間は津軽海峡ですから、遮るものはなく、晴天時には、肉眼で工事現場が見えるほどの至近距離にあります。

函館市は、30km圏内に一部入り、50km圏内にはほぼ全域が入ります。
50km圏内の人口は、青森県側が約9万人に対し、北海道側は約37万人ですが、北海道側の意見は全く無視されています。
ひとたび原発事故がおきれば、自治体の境界は、全く意味をなしません。
北海道と青森県で対応が異なることは、理解しがたいものがあります。

仮に、大間原発で過酷事故が起きた場合、避難経路は、北へ逃げる国道5号と、国道227号の2本しかありません。
海岸沿いに、東西に向かう道路はありますが、大間原発に面していますので、使うことはできません。
国道227号はカーブが多く、峠を越える山道なので、主要な避難経路としては適しておりません
唯一使える道路は、札幌に向かう国道5号です。
しかし、この道路も、函館から20kmほどのところに峠があって、トンネルがあります。
ゴールデンウィークや夏休みなどに、大渋滞を起こす道路で、隣接する北斗市と七飯町を合わせた35万人が、逃げられるような道路ではありません

福島原発のすさまじい事故を見た人々を、放射能の見えない恐怖の中で、
30km圏内の住民と30km圏外の住民を区別して、迅速かつ安全に、そして計画的に避難させることが現実的ではないことは、誰の目にも明らかです。

高齢者や障がいのある方などをはじめ、自家用車を持っていない多くの市民を、避難させるためのバスや、
命をかけて運転してくれる人を大量に確保することは、至難の業であり、人口集積地では事実上不可能
です。
ガソリンスタンドは閉鎖され、燃料を確保することもできなくなります。
そして同時に、地震や津波などの自然災害が起きていたら、さらに、冬期間で吹雪であったら、避難は一層困難を極めます。
原発の事故は、地震や津波などの自然災害と、全く異なるのです。
これだけ多くの人口を抱え、実効性のある避難計画を立てられない函館市の対岸に、大間原発が建設されているのです。


福島原発事故以前の、『事故は起きるはずがない』という安全神話を前提とした、机上の避難計画であれば、作ることはできます。
福島原発事故を目の当たりにした中で、最悪の事態を想定した、実効性のある避難計画を作るためには、
まず被害の想定をし、多くの課題について十分な検討をする必要がありますが、
その前提となる事故の想定が、国や事業者から何一つ示されておりません

万が一事故が起こった場合、最大でどの程度の放射性物質が放出され、どれぐらいの時間で北海道側に到達し、どのくらいの期間にわたり、どの範囲まで影響が及ぶのか、そして、どの程度の被害が生じるのか。
このようなことが全くない中では、そもそも避難計画の立てようがありません。


▼ 大間原発で事故が起きたとき(訴状第10章「大間原発で過酷事故が発生した場合の函館市の損害」)

函館市は、「歴史」「街並み」「自然」「食」など、一言では語り尽くせないほど、多くの観光資源に恵まれた素晴らしいまちです。
民間のコンサルタント会社が行う「魅力ある市町村ランキング」において、昨年、函館市は全国2位になったほど、観光が主要産業となっているまちです。
2015年度末(平成27年度末)までに予定されている、北海道新幹線の開業もありますし、
観光は、地域活性化の原動力として、市民の大きな期待を担う分野であり、その振興に力を入れて取り組んでまいりたい、と考えております。

大間原発で過酷事故が起きた場合は、
その観光産業をはじめ、津軽海峡を操業の場としている漁業や、食糧基地の一翼を担っている農業を、基幹産業としている道南地域の経済に、壊滅的な打撃を与えるだけではなく、
地域が放射性物質で汚染され、土地は奪われることとなり、住民は散り散りとなって、家族の離散も生じ、
そして、自治体の機能が失われ、崩壊することになります。

過酷事故ではなくても、大間原発でトラブルが生じた場合、風評被害により、地域経済に甚大な打撃を与えます。
さらに、危険な原発が近くにあるというだけで、企業誘致さえも進まなくなります。

避難計画の策定を義務づけられた自治体である、ということは、原発事故によって、そうした事態が起こり得る危険な地域である、ということを意味するのです。


▼ 要請活動等(訴状第1章「はじめに」)

国や事業者に対し、大間原発建設の無期限凍結を求める要請は、大間原発の建設再開前に2度行い、
建設再開後も、渡島管内11市町の全ての首長と議会、経済界、農業漁業団体、さらには町会連合会などの連名で、2度行ってまいりました。

国からは、『安全性に関しては厳しくチェックをする』
事業者からは、『稼働にあたっては原子力規制委員会が安全性を確認する』などといった、
建設を前提とした発言があった程度で、私たちの不安が解消されるものではありませんでした

このように、これまで4回に亘って要請活動を行ってきましたが、国や事業者からは、何の配慮も対応もしていただけませんでした


▼ 南相馬市と浪江町へ(訴状第5章「福島第一原発事故による自治体の被害」)

2013年(平成25年)7月には、福島第一原発の周辺自治体の状況を、自分の目で確認するため、
私と函館市議会の正副議長、および各会派の代表で、南相馬市と浪江町を訪問しました。

南相馬市へ向かう際、福島第一原発から30km圏外においても、除染作業中の防護服を着た作業員の異様な姿が目につき、
山あいの飯舘村では、津波被害もなく、家々は崩壊はしていませんが、人の気配は全くありませんでした。
飯舘村を少し過ぎたところでは、持参した線量計の数値は、最高の1.26マイクロシーベルトを示しました。
原発事故が及ぼす現実を目の当たりにし、言葉が出ませんでした。

南相馬市では、桜井市長から、
事故の対応を判断するための情報が、国や事業者から全く届かなかったのが、一番悲しかった。精神的によく持ちこたえてきた
南相馬市の住民を全て受け入れると、新潟県知事から言っていただき、言葉に表せないほどの安心感があった
という、事故当時のお話しをお聞きし,住民の命を守るために、大変苦労されたことがよくわかりましたし、
ずさんな安全対策や事故対応をしてきた、東京電力に対する強い怒りと、福島の事故について、国民の意識が薄れていくことへの不安を抱いていると、感じたところであります。

また、南相馬市の小高区を視察しましたが、
放射能に汚染された地域は復興が遅れ、土地は雑草で荒れ果て、廃墟と化した家々やがれきなど、津波の爪痕が生々しく残り、
人影がなく、多くの商店が閉まったままの姿を見て、函館がこの状態になったらと考えると、背筋が凍る思いでありました。

次に私たちは、二本松市にある、浪江町の仮庁舎を訪ねました。
浪江町は、除染もできない帰還困難区域に指定され、事故から2年以上経過しても、バリケードで閉鎖されております。
馬場町長からは、
津波で流された方々を、必死で捜索していたが、原発の事故により、中断し避難しなければならなかったことが一番悔しかった
情報提供や避難バスの手配、支援物資の提供などで、立地自治体とは大きな格差があった』など、事故当時のお話しをお伺いし、
また、避難に伴って、役場機能を4回も移転し、住民は散り散りになっている現状についてもお聞きし、
原発事故が起きれば、生まれ育った故郷を無理矢理追われ、多くの住民が犠牲になることを、思い知ったところであります。


私は、この視察により、
原発事故が起きれば、立地自治体のみならず、周辺自治体までも壊滅的な状況になり、
住民の生命、安全を、必死で守らなければならないのは、最終的には、基礎自治体である市町村であることをあらためて認識し、
自治体としても、原発と真剣に向き合う必要があると考え

大間原発について、様々な疑問や矛盾があるなか、その建設については、『無期限で凍結すべき』との思いを、一層強くしたところであります。


▼ 市長会などの決議、市民等の支援(訴状第1章「はじめに」)

大間原発の建設については、函館市議会において、無期限凍結を求める決議をしておりますし、
訴訟の提起については、一人の議員の反対もなく、全会一致で可決されたものであります。
従って、大間原発の建設凍結を求めることは、函館市民の総意であります。

また、渡島管内11市町の総意として、無期限凍結を求め、共同で行動してきましたし、
35市からなる北海道市長会や、北海道市議会議長会におきましても、大間原発建設工事の中止を求める決議をしております。
さらに、北海道議会においては、国や事業者に対し、誠意を持った説明責任を果たすよう求める決議がなされ
北海道知事も、国や事業者へ要請し、全道あげて、私たちを支援していただいております。

そして、私が公の場で提訴を表明した以降、全国からたくさんの応援メッセージが寄せられており
また、訴訟費用につきましても、市内外、法人・個人を問わず、多くの方々からご支援をいただいております


▼ 結び

安倍首相は、
原子力規制委員会が定めた、世界で最も厳しい安全基準を満たさない限り、原発の再稼働はない』と述べる一方、
原子力規制委員会の田中委員長は、
規制委は、新基準への適合性を審査するだけで、再稼働の是非の判断はしない
規制委は、”絶対に安全”とは言っていない』と述べております。

原発再稼働の判断をめぐって、政府と原子力規制委員会が責任を押し付け合い、事業者は経済性を優先し、確実な安全安心から目をそらしています
そもそも、福島第一原発事故では、誰も責任を取っておりません
このような無責任体制では、福島のような原発事故が、繰り返されてしまいます

原発の安全の確保や、万一の事故が起きた場合に、誰が責任を持ってあたるのか。
政府なのか、原子力規制委員会なのか、事業者なのか、その根本のところが極めて曖昧なまま、原発の建設が進められています


電源開発株式会社という、営利を追求する一民間企業の事業のために、
27万人の人口を擁する函館市の存立そのものが、同意もなく危険に晒され、
そこに住む市民の生命と、平穏な生活、そして貴重な財産が、一方的に奪われかねない、
そんなことが、この民主主義国家において、許されるのでしょうか。



福島第一原発事故を見れば、原発が本質的に危険なものであり、どんな対策を講じてもゼロリスクにはならず、万一の事故があり得ることは明らかでありますので、
司法の場において、自治体の責任者として私が申し上げたいことは、

一つ目は、
福島原発事故を起こした審査基準で許可され、建設が続けられている大間原発は、建設をただちに止めるべきだということであります。

二つ目は、
建設や稼働にあたって、実効性のある有効な避難計画が、策定できるかどうかの確認がなされていない大間原発は、建設を即時中止すべきだということであります。

三つ目は、
避難計画を義務づけられる、30km圏に含まれる函館市に同意権を与え、本市が同意しない限り、建設をするべきではないということであります。


国や電源開発株式会社には、地域の不安になんら配慮をしていただけず、
私たちに残された手段は、訴訟するか泣き寝入りするしかありませんでした。
私は、函館のまちを守り、そして市民の安全安心を守るため、万やむを得ず訴訟を提起いたしました。

福島の原発事故によってはっきり分かったことは、
ひとたび原発の過酷事故が起きると、地方自治体、その地域が、事実上半永久的に消え去る事態に陥るということです。
地方自治体の存立そのものが、将来に亘って奪われる、このようなことは、原発事故以外にはありません

地震や津波のような自然災害も、大きな被害をもたらしますが、まちを再建することはできます。
人類は昔から、それを経験してきました。
しかし、そのことで、半永久的に住めなくなった地域はありません。

戦争も、まちに壊滅的な打撃を与えますが、復興は可能です。
ある意味で、人間はそれを繰り返してきました。
戦争による最大の悲劇ともいうべき原爆投下を乗り越えてきた、広島・長崎も再生しました。


しかし、放射能というどうしようもない代物を、広範囲にまき散らす原発の過酷事故は、
これまでの歴史にはない壊滅的な状況を、半永久的に、周辺自治体や住民に与える
のです。
チェルノブイリや福島が、それを証明しています
函館が、その危機に直面しています
電気をおこす一手段に過ぎない原発によって、まちの存立そのものが、脅かされることになります。

世界中を見ても、今までの法理論では想定されないような事態が、原発事故によって、今この日本で起き、函館市にふりかかっているのです。

私たち函館市民は、承諾もなく、近隣に原発を建設され、いざというときに、避難もままならない状況の中に置かれることになります。
自分たちのまちの存続と、生命を守るために、この訴訟を起こしたのです。
それ以外に残された道はなかったということを、是非ご理解いただきたいと思います。


私は、反原発、脱原発の立場で、原発を論じたことはありません。
世界を震撼させた福島原発事故を起こした、我々世代の責任として、
最低限、立ち止まって考えるべきだということを、申し上げたい
のです。
そのため私が訴えてきたのは、原発建設の無期限凍結なのです。

福島の事故を目の当たりにし、その後の福島の現実を見て、原発に大きな不安を抱く多くの人たちに対し、
国や事業者は、真摯に向き合い、もっと丁寧な対応をすべきだ、ということを申し上げたいのです。
今は、その努力、姿勢が、全く欠けていると言わざるを得ません。


いろいろ私の思いを述べさせていただきましたが、市民の生命や財産を守り、函館市という自治体を、将来の世代に引き継いでいくためにも、
大間原発の問題点、そしてその進め方の乱暴さ、また、地域の思いというものを、主張させていただきました。
どうか、私たちの願いをご理解いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2014031100330/files/260703_iken_genkoku1.pdf
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じゃあもう無理ね⇒「安全だとは申し上げないと、国会でも何でも何回も答えてきた」原子力規制委員長田中氏

2014年07月17日 | 日本とわたし
福島の原発事故が起こり、
そのあと、なんの解決も得られないまま、汚染だけがどんどん増して、
住民は棄てられ、無視され、無かったことにされようとしているのに、
そんなことが、今の日本で、現在進行形で存在しているというのに、

いまだ、こんなふうに考えている人たちがいる。
こんなふうに考えざるを得ないと信じている人がいる。

原発というものの恐ろしさは、原発そのものが危険極まりないもので、
事故が起こらなくても、事後処理に途方もない時間とお金がかかるということだけでなく、
そういうものだからこそ、誘致において、凄まじいウソとカネと脅しが使われること。
だから、人が、ここまで狂ってしまうのだ。
ウソとカネを使う方も、ウソとカネを受け取る方も。

原発が生きている限り、日本は変わらないのだ。
原発を生かせている限り、日本は変われないのだ。
だからこそ、原発の息の根を止めて、日本を変えなければならないのだ。


↓以下は、幸雄さんがFacebookで教えてくださった、植草一秀氏の『知られざる真実』からの抜粋です。

原子力規制委員会の田中俊一委員長は、
基準への適合は審査したが、安全だとは私は言わない
と述べた。

どういうことか。

原子力規制委員会は、
「基準に適合しているかどうかを審査すること」
だけを任務としており、原発の安全性を保証する機関ではない

また、原子力規制委員会は、
稼働させるかどうかには関与しない
のである。

他方、政府も、
稼働させる政治判断をしない
立場である。

再稼働の判断は電力会社と立地自治体に委ねられる
国民の生命、幸福を追求する権利に、重大な影響を与えうる原発の再稼働が、
このような、無責任体制の下で推進されている

http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-88b0.html


↓以下、きーこさんが、各局のニュースからまとめてくださったものを、ここに転載させていただきます。
転載はじめ

川内原発再稼働を待ちに待っている人々(NHKニュース9・7月16日放送)
田中俊一「安全だという事は私は申し上げません」


基準の適合性は見ていますけれども、
「安全だ」という事は私は申し上げません!





川内原発の再稼働を待ちに待っている人々

NHKニュース9(2014年7月16日放送)

街の人(公の方々ではないので、写真の掲載を控えます)

■地元ではない、街を歩いていた男性
原発の再稼働っていうのは、必要なところもあるのかなと思っています。
エネルギー価格とかそういうのを考えていった時に、
いー、安全性を確認すれば、必要な事なのかな。

■飲食店経営50代男性
一日でも早く再稼働してほしいし、これで食っている方も沢山いると思うんですよ。
見ての通り昼間でもこの商店街なんかがシャッター街になっているという事は、やっぱりそういうのが多いですよね。
影響が大きいと思いますね。

■タクシー運転手60代
動いてもらった方が、景気の活性化になりますよね。


News 23(2014年7月16日放送)

■地元市民
国からの審査が出れば、川内市の、ま、活性化っていうか
やっぱり原発に頼っている方が多いもんですから、そういうのではいいんじゃないかなとは思いますけど。

■岩切秀雄薩摩川内市市長


それはやはり、国が決めた基準をですね、審査しての結果ですから、安全だと思っています。

■三村明夫日本商工会議所会長

待ちに待ったというか、私はひとつの大きな、あーー、
私はひとつの大きな、ステップが前に進んだと、あーー、このように理解しております。


報道ステーション(2014年7月16日放送)

田中俊一 原子力規制委員会委員長

私どもとしては、十分、これで十分だと言ぃうつもりはないですけれども、
相当あの、我々があの、考えられることについては、あのー、
相当慎重に、きちっと評価をしてきたと。
一つのヤマを越えたと言ぃぃうところかと思います。

■安倍晋三総理大臣

ま、これは、はー、えー、前進、ま、一歩前進、と、いうこと、なんだろうと。
え、規制委員会が、ま、科学的、え、技術的に、い、しっかりと、おー、え、審査をし、
えー、その上においてですね、えーー、それが、安全だと、おー、そういう結論がハァー、出ればですね、
立地、自治体の、ほぉー、皆さんの、お、ご理解をー、いただきながら、
あー、再稼働をま、進めていきたいと、考えて、え、います。

■細田博之 自民党電力安定供給推進議連

非常に喜ばしいことだと思っております。
これからも次々に申請が出されておりますのでね、
速やかな審査をしてほしいものだと。


■三村明夫 日本商工会議所

ま、待ちに待ったっていうか、
出来るだけ早い時期に稼働に結び付けて欲しいなと、
このように思っております。

■田中俊一

安全審査ではなくて、基準の適合性を審査したという事です。
ですからあのー、これも再三お答えしていますけれども、
あの、基準の適合性は見ていますけれども、
「安全だ」という事は私は申し上げません!

「安全だ」という事は私は申し上げませんということをいつも、国会でも何でも何回も答えてきたところです。

*******************************

国会で何度も話しているんじゃぁ、安倍は「安全という事じゃない」というのは知っているのね・・・。

安倍晋三:
規制委員会が科学的、技術的にしっかりと審査をし、
その上においてそれが、安全だと、そういう結論が出ればですね・・・


↑安倍は嘘つきだね。
それともバカすぎて、国会での田中俊一の話が理解できないのか!?

↑転載おわり


こんなはっきりとした原発無理論ありますか?
規制委員会が科学的、技術的にしっかりと(かどうかはわかりませんが)審査をし、
その上において、それが安全だと、そういう結論が出れば
っていうことなら、

ああもう、絶対に無理、廃炉にするしかない。
あかんわこりゃ。


ということですね。
コメント (9)
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