愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

西広瀬城、東広瀬城の歴史 豊田市

2015年04月27日 07時35分56秒 | 豊田市
西広瀬城、東広瀬城についての歴史を紹介します。

西広瀬城
案内板によれば、「城主、天文年間以降、尾張織田信長の臣佐久間氏一族が居城した。」とあります。「愛知の山城ベスト50」では、「佐久間全孝、あるいは佐久間信盛兄の佐久間信直と伝えられる。佐久間全孝は、徳川家康の父松平広忠の暗殺を仕組んだ人物、広忠は、全孝が送り込んだ岩松弥八によって絶命した」とありました。

東広瀬城
案内板によれば、「1344年児島高徳が築城したといわれ、1560年(永禄3年)徳川家康に攻められ落城した。」とあります。
ベスト50では、「三宅氏の居城であった。児島高徳の築城とされるが、高徳を祖とする三宅氏が後に唱えたものと考えられる。永禄元年(1558年)に初陣の徳川家康に攻撃され、同6年(1563年)再び家康の攻撃を受けた。」とありました。

家康による攻撃の年代が異なるので、いろいろみてみました。

◎豊田市のあゆみ「弘治4年(1558年)今川義元、寺部城を攻める。このとき、元康(家康)の初陣。翌年(1559年、永禄2年)、元康は、佐久間兵兵衛の広瀬城を攻めています。」「永禄3年、元康は広瀬の三宅高貞を攻め、さらに翌4年、広瀬・伊保の2城を攻めています。」

「豊田市のあゆみ」
この本は、平成23年に豊田市市制60周年を記念して発行された市史の概要版です。

◎「三河物語」(斉木一馬校注、岩波思想大系26)では永禄元年の記事で、家康の大高城兵糧入れのことが記載されていますが、斉木氏の注意書きとして、「永禄元年戊午の年 戊午の2字は『丁巳』の上に貼紙で訂正されている。大高城の兵糧入れは永禄3年5月のことで、永禄元年元康17歳の年のこととしているのは誤。なお、下文の元康の初陣は永禄元年17歳の春で、それとの順序も誤っている。」としています。そして、「三河物語」本文で上記大高城兵糧入れの記事の後に家康の初陣について、岡崎城から、寺部の城、梅ガ坪の城、広瀬の城、衣の城などを攻撃したことが記載されています。つまり、家康が広瀬城を攻撃したのは、永禄元年のこととしているのです。

くわしくは、豊田市史などを調べてみないとわからないようです。