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松平記p17
翻刻
け出る、弟筧平十郎参り、兄とつれて早々岡崎へにけ来る
上和田衆追いかけけれとも、不叶筧ハ大高名致し無難罷帰
申候間、廣忠御感のあまり筧平三郎に御感状被下候、知行
羽栗にて百貫給る
横文 今度三左衛門生害之儀、忠節無比類候、此忠於子々孫
孫忘間鋪候、然者為給恩万疋之知置候、雖為何儀於
末代不可有相違候、在所別日記出置候也
天文十六年
十月廿日 広忠
筧平三郎とのへ
現代語
(に)げて出た。弟の平十郎も来て、兄と一緒に早々と岡崎に逃げてきた。上和田の(松平三左衛門忠倫の)家来どもが追いかけてきたが、捕まえることはできず、筧は大きな高名を得て、難なく帰ってきたので、廣忠は、たいそう感激し、筧平三郎に感状を出され、羽栗に知行地百貫を与えた。
横文 このたび三左衛門忠倫を殺害したこと、廣忠への大変な忠節である。この忠節子孫まで忘れることはない。であるので、その恩、万疋の知行を置き、「雖為何儀」末代まで相違があってはならない。在所については別日に記して置くこととする。
天文16年
10月20日 廣忠
筧平三郎殿へ
コメント
筧平三郎は筧重忠、弟の筧平十郎は筧正重です。「寛政重修諸家譜」で弟の正重にはこの松平三左衛門暗殺事件は書かれていませんが、兄の重忠の項には詳しく書かれていました。また、この「寛政重修諸家譜」には、「万疋之知」について「三河国野羽にをいて、萬疋の地を宛行はる」と記述されていました。
ここで、疑問が湧きました。「羽栗」には百貫の知行が与えられています。その他に「野羽」に「萬疋の地」は与えられたのか、それとも、この「羽栗」と「野羽」は同じところなのか。素直に読めば違うところのようですが、そうすると、筧平三郎重忠は、ものすごい恩賞を得たことになります。逆に言えば、廣忠が松三左衛門忠倫をかなり脅威に感じていたことが分かります。