愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

第10回小谷城 愛教労城の会見学会報告 愛教労城の会

2022年03月23日 12時05分32秒 | 愛教労 城の会
 寒暖がめまぐるしく移り変わる3月。この日は風が冷たい日でした。はじめに出丸を見学しました。土塁がぐるっと回っていて、下からの敵を撃退するためのものであることがよく分かりました。今日は、たくさんの遺構を見るため、途中までの登山を省略し、車で中腹(番所)まで行きました。
番所から、一つひとつ確かめるようにしながら登っていきました。番所では案内図を見て、現在の道と当時の道は違っていることが話されました。御茶屋では土塁跡や庭石の跡を確認し、最後奥の方に竪堀を見ました。御馬屋では、周りをしっかりした土塁が囲っていて、「これは別の曲輪ではないか」との感想が出ました。馬洗池は現在も水が溜まっていて、地下水が湧いているのだろうかと思いました。桜馬場の突き当りは、とても見晴らしがよく、小谷城の戦いの舞台である虎御前山、山本山、丁野山、中島砦が一望できました。


 桜馬場で休憩をし、次は赤尾屋敷です。浅井長政が最後に自刃した場所です。大きな段曲輪が見えました。そして、いよいよ黒鉄門です。石垣と土塁でできた立派な門です。ここが小谷城の正門と言えます。その次に大広間。石がごろごろ転がっているようで、よく見るとまっすぐに並んだ石があり、屋敷の礎石と確認できました。ここでお市や浅井三姉妹が暮らしていたわけです。大広間からは天守台の石垣が見えました。大きくはありませんが、形を揃えて積んでいる様子が分かりました。天守台は、鐘丸だったとも言われています。天守台の裏は大堀切。大変大きな堀切で、一同圧倒されました。


 大堀切から上は、小谷城の中でも古い時代のものです。はじめは中丸です。段々になっていて、上から何重にも攻撃ができるようになっていました。その上は、京極丸です。浅井氏が守護である京極氏を形式的に主君とするために造られました。南側に大きな土塁があり、厳重な守りになっていました。京極丸の上は、小丸で、広い腰曲輪がありました。そして、この一連の連郭の頂点が山王丸です。山王丸には、立派な石垣がありました。本丸の石垣とは異なり、大きな石を野面積みによって積み上げていました。山王社の石垣として造られたのではないかという話でした。
 車で中腹まで行きましたが、それでも1時間40分を要し、次から次へと遺構が現れ、充実のひと時でした。
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