世の中はすっかり桜の季節になりました。
近くの神社の桜(3月26日撮影)
3月31日、東郷町に出かけました。
諸輪(もろわ)城です。
諸輪城は北、中、南の3つの城があったそうです。
諸輪北城
丹羽氏識(うじさと)の隠居後のお城だそうです。
丹羽氏識は、小牧・長久手の戦いで徳川家康側について、豊臣秀吉軍と戦った丹羽氏次・氏重兄弟のおじいさんに当たります。丹羽氏識は、岩崎城の城主でした。当時から徳川家康側についていて、織田信長と対立していました。しかし、織田信長と徳川家康が同盟を結んだ後に、隠居してこの地に来たそうです。
丹羽氏系図(抄)ウィキペディアより作成
横山の戦い
さて、この丹羽氏識には、叔従父丹羽氏秀との戦いがありました。丹羽氏の本家争いです。当時藤島城に居た叔従父の丹羽氏秀は、織田信長に味方していて、徳川家康に味方していた丹羽氏識を倒そうとしたそうです。織田信長は、丹羽氏識のいる岩崎城を目指して攻めてきましたが、丹羽氏識・息子の氏勝は横山のあたりに待ち伏せして、織田信長の軍を散々な目に合わせたそうです。織田信長軍は、今の赤池から平針の方面へ逃げ散ったそうです。また、丹羽氏秀は豊田の広美のほうに去ったそうです。
この戦いは、丹羽氏の記録「丹羽氏軍功録」にはありますが、「信長公記」にはないそうです。織田信長にとって負け戦なので書かれなかったのだろうということです。
(「岩崎城だより」 NO3 館長の話 より)
藤島城
ついでなので藤島城にも行ってきました。
藤島城跡の石碑
石碑をじろじろ眺めていましたら、地域の方に話しかけられました。そしていろいろと教えていただきました、「この石碑は、お屋敷の南端で北側にもっと大きな屋敷が広がっていた。藤島というのはもともとは福井のほうから来たと言われている。福井にも藤島城というのがある。織田氏が福井から来た時に、この城の人も一緒に来たのではないか。」
というものでした。この城の丹羽氏秀が織田方に与していたことと話が合います。福井に藤島という地名があることも間違いないことです。(有名な藤島高校もあります)おじさんの話に大変興味を持ちました。
上城保育園
話を戻して
諸輪北城は、現在は上城保育園だそうです。
上城保育園
桜が満開でした。上城というのは、おそらくここに城があったということから付けられたのではないかと思います。上というのは、上市の上だと思います。というのは、3つ城に呼応するかのように北城に上市、中条に中市、南城に下市という集落があるのです。なので、上市の上と北城の城を合わせて「上城」となったのではないでしょうか。あくまでも想像ですが。
上城保育園は写真のように階段で登っていくほどの高台にあり、城があったことの痕跡が残っていました。
諸輪中城
次に中城があったという清安寺に行きました。中城も丹羽氏識の隠居後のお城のようです。
清安寺 残念ながら本堂は工事中で足場と青いシートでおおわれていました。
この寺は「道休山 清安寺」と言います。道休というのは、丹羽氏識が隠居した時の名前です。これにちなんで道休山というそうです。痕跡はないかとぐるっと歩いて回りましたが、見つかりませんでした。
諸輪南城
最後は南城があったという尾三消防署です。
諸輪南城は、丹羽氏ではなく柘植道昌という人が築城したようです。今は尾三消防署です。
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尾三消防署
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近くの神社の桜(3月26日撮影)
3月31日、東郷町に出かけました。
諸輪(もろわ)城です。
諸輪城は北、中、南の3つの城があったそうです。
諸輪北城
丹羽氏識(うじさと)の隠居後のお城だそうです。
丹羽氏識は、小牧・長久手の戦いで徳川家康側について、豊臣秀吉軍と戦った丹羽氏次・氏重兄弟のおじいさんに当たります。丹羽氏識は、岩崎城の城主でした。当時から徳川家康側についていて、織田信長と対立していました。しかし、織田信長と徳川家康が同盟を結んだ後に、隠居してこの地に来たそうです。
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丹羽氏系図(抄)ウィキペディアより作成
横山の戦い
さて、この丹羽氏識には、叔従父丹羽氏秀との戦いがありました。丹羽氏の本家争いです。当時藤島城に居た叔従父の丹羽氏秀は、織田信長に味方していて、徳川家康に味方していた丹羽氏識を倒そうとしたそうです。織田信長は、丹羽氏識のいる岩崎城を目指して攻めてきましたが、丹羽氏識・息子の氏勝は横山のあたりに待ち伏せして、織田信長の軍を散々な目に合わせたそうです。織田信長軍は、今の赤池から平針の方面へ逃げ散ったそうです。また、丹羽氏秀は豊田の広美のほうに去ったそうです。
この戦いは、丹羽氏の記録「丹羽氏軍功録」にはありますが、「信長公記」にはないそうです。織田信長にとって負け戦なので書かれなかったのだろうということです。
(「岩崎城だより」 NO3 館長の話 より)
藤島城
ついでなので藤島城にも行ってきました。
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藤島城跡の石碑
石碑をじろじろ眺めていましたら、地域の方に話しかけられました。そしていろいろと教えていただきました、「この石碑は、お屋敷の南端で北側にもっと大きな屋敷が広がっていた。藤島というのはもともとは福井のほうから来たと言われている。福井にも藤島城というのがある。織田氏が福井から来た時に、この城の人も一緒に来たのではないか。」
というものでした。この城の丹羽氏秀が織田方に与していたことと話が合います。福井に藤島という地名があることも間違いないことです。(有名な藤島高校もあります)おじさんの話に大変興味を持ちました。
上城保育園
話を戻して
諸輪北城は、現在は上城保育園だそうです。
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上城保育園
桜が満開でした。上城というのは、おそらくここに城があったということから付けられたのではないかと思います。上というのは、上市の上だと思います。というのは、3つ城に呼応するかのように北城に上市、中条に中市、南城に下市という集落があるのです。なので、上市の上と北城の城を合わせて「上城」となったのではないでしょうか。あくまでも想像ですが。
上城保育園は写真のように階段で登っていくほどの高台にあり、城があったことの痕跡が残っていました。
諸輪中城
次に中城があったという清安寺に行きました。中城も丹羽氏識の隠居後のお城のようです。
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清安寺 残念ながら本堂は工事中で足場と青いシートでおおわれていました。
この寺は「道休山 清安寺」と言います。道休というのは、丹羽氏識が隠居した時の名前です。これにちなんで道休山というそうです。痕跡はないかとぐるっと歩いて回りましたが、見つかりませんでした。
諸輪南城
最後は南城があったという尾三消防署です。
諸輪南城は、丹羽氏ではなく柘植道昌という人が築城したようです。今は尾三消防署です。
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尾三消防署
壱岐守護職を経て、家督を弟の氏重に譲り自らは古代豪族の丹羽氏の丹羽郡移住。丹羽道家で、丹羽 氏従と作る
丹羽 矢野
氏員、丹羽氏の入婿
丹羽 氏員
長男は氏興で早世、次男は
本郷城主の左馬允氏頼、三男は氏清で、四男は氏満で、家督争いが始まります。
氏満の息子右京亮氏秀が藤島城に、孫の弥四郎秀信は赤池城主として、岩崎城の氏識に対抗して戦争を仕掛け横山で敗退。 藤島城の士気も低下し氏秀も秀信も逃亡します。織田の出兵は虚偽です。
丹羽 氏次 勘助。丹羽氏勝の入婿 (市岡盛吉の子息との噂も流す) 実際は、豊前の彦山に逃れ甥の土橋 氏康に見逃せて貰った宗像 氏続です。 宗像の地には、一子 氏男が有り氏勝の入婿後に氏資、氏信を儲けます。
この邇波というのは、丹羽氏と関係があるのですか。興味があります。
丹羽氏についての詳しい情報ありがとうございました。勉強になりました。
また、横山の戦いで織田信長は出兵していない、出兵は虚偽とのこと、ご指摘ありがとうございます。ウィキペディアにも真偽は定かではないとあるので、虚偽かも知れません。もし、横山の戦いの史料で信長の出兵が虚偽であるということが分かるものがありましたら、教えてください。
三男の氏清と四男の氏満の熾烈な争いでした。
(和邇氏は、邇波氏をひっくり返しただけで記紀の創作です)
邇波 荒田の子、依網。依網の子は、蔓木 垂見。
垂見の子は、摩理勢。摩理勢の子は、毛人。
垂見は記紀の蘇我 稲目
摩理勢は記紀の蘇我 馬子
毛人は記紀の蘇我 入鹿
です。
依網の兄弟、塩子の子、角子の子、広高の子、
良世の子、忠叙の子、忠貞は記紀の太秦 嶋麿です。
忠貞の子、菅原 清貞の子、興善の子、是善の子、
道善が、菅原道真です。
邇波 忠貞の子には、惟頼が居り、その子が、惟季の子、季光、その子は、惟光、その子は、惟季、その子季高、その子原 高成と為ります。
平安時代初期から系図群の書き換え、事実は暗号化されてます。系図から役職や悪口を除いたり、収歛すれば、本物の系図が浮かび上がると伝わります。
1536年 氏勝岩崎城復帰
1551年 藤嶋合戦 丹羽茂昌弓矢撃退
1556年 織田氏から出生や丹羽氏祖先を疑われた氏続(氏次)伊勢の慶徳家へ、潜伏へ(一色氏祖先の系譜を持参して行きます)