近藤景春のお墓
沓掛城の北東ほぼ3キロメートルのところに「東郷製作所」があり、その裏山(天神山)に近藤景春のお墓があります。
近藤景春のお墓
近藤景春は討死をしました。
沓掛城はその後桶狭間の戦いで功績のあったとされる簗田出羽守政綱が城主となりました(甫庵「信長記」等)。里村紹巴「富士見道記」では永禄10年に紹巴と簗田父子が酒を酌み交わしたという記述があります。しかし、「松平記」では桶狭間の戦いと簗田が城主となる間に「織田玄蕃」という武将が沓掛城に住み、岡崎衆(松平元康)と「せり合った」との記述があります。
それらを総合すると、近藤景春の後は、織田玄蕃、簗田出羽守政綱、そして沓掛城の現地案内板にある織田信照、川口宗勝へと受け継がれ、1600年ごろ廃城となったようです。
沓掛城の北東ほぼ3キロメートルのところに「東郷製作所」があり、その裏山(天神山)に近藤景春のお墓があります。
近藤景春のお墓
近藤景春は討死をしました。
沓掛城はその後桶狭間の戦いで功績のあったとされる簗田出羽守政綱が城主となりました(甫庵「信長記」等)。里村紹巴「富士見道記」では永禄10年に紹巴と簗田父子が酒を酌み交わしたという記述があります。しかし、「松平記」では桶狭間の戦いと簗田が城主となる間に「織田玄蕃」という武将が沓掛城に住み、岡崎衆(松平元康)と「せり合った」との記述があります。
それらを総合すると、近藤景春の後は、織田玄蕃、簗田出羽守政綱、そして沓掛城の現地案内板にある織田信照、川口宗勝へと受け継がれ、1600年ごろ廃城となったようです。
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