10月28日、丹野城に登りました。丹野城は、御堂山の頂上にあります。御堂山は登ったことがありませんので、ネットで登り方を調べました。すると、近くの砥神山を経由して御堂山に至るルートが紹介されていました。山登りのコースとしてちょうどいいと思い、このコースで丹野城を目指すことにしました。
砥神山、御堂山(丹野城)登山コース(国土地理院地図より作成)
丹野城については、面白いお話がありました。
「文明元年(1469)備後州の剌史(しし)、萩原芳信が全福寺(礎石が現在市指定史跡)の資産を取り掠め山頂に拠って城郭を築き、あるところの仏器を融して兵器となす」全福寺の僧徒を動員して構築した山城である。その後萩原芳信が備後林(現御津町赤根)で死亡してから全福寺とともに荒廃した
<昭和49年3月7日指定 蒲郡市教育委員会>
※刺史とは、国司のことで唐風の呼び名です。
御堂山ふもとの掲示板
これは、御堂山のふもとにあった案内板の説明です。頂上の石碑(平成6年、1994、相良町西共有)にはもう少し詳しく解説があり、萩原芳信が死亡したのは、翌年(文明2年、1470)で、牛久保の牧野氏が攻めてきたことで死亡し、しかもネットでは、家来の寝返りによって死亡したということらしいのです。なんとも、かわいそうな武将でした。
御堂山頂上の石碑

ふもとのファミマから見た砥神山
ここからちょっと登ったところに砥神山の登山口があります。

登山口
右側の山道を登っていきます。途中、面白い石がありました。
亀石

カエル石
しかし、陽気な石とは裏腹に登山は大変でした。特に急な石段が続き、休み休みでした。

砥神山山頂(行者尊像)
やっと頂上につきました。眺めも最高でした。

砥神山山頂からの眺め
丹野城 つづく

砥神山、御堂山(丹野城)登山コース(国土地理院地図より作成)
丹野城については、面白いお話がありました。
「文明元年(1469)備後州の剌史(しし)、萩原芳信が全福寺(礎石が現在市指定史跡)の資産を取り掠め山頂に拠って城郭を築き、あるところの仏器を融して兵器となす」全福寺の僧徒を動員して構築した山城である。その後萩原芳信が備後林(現御津町赤根)で死亡してから全福寺とともに荒廃した
<昭和49年3月7日指定 蒲郡市教育委員会>
※刺史とは、国司のことで唐風の呼び名です。

御堂山ふもとの掲示板
これは、御堂山のふもとにあった案内板の説明です。頂上の石碑(平成6年、1994、相良町西共有)にはもう少し詳しく解説があり、萩原芳信が死亡したのは、翌年(文明2年、1470)で、牛久保の牧野氏が攻めてきたことで死亡し、しかもネットでは、家来の寝返りによって死亡したということらしいのです。なんとも、かわいそうな武将でした。

御堂山頂上の石碑

ふもとのファミマから見た砥神山
ここからちょっと登ったところに砥神山の登山口があります。

登山口
右側の山道を登っていきます。途中、面白い石がありました。

亀石

カエル石
しかし、陽気な石とは裏腹に登山は大変でした。特に急な石段が続き、休み休みでした。

砥神山山頂(行者尊像)
やっと頂上につきました。眺めも最高でした。

砥神山山頂からの眺め
丹野城 つづく
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