形原城は三河一向一揆で家康側松平氏の形原松平氏松平紀伊守家忠(きいのかみ いえただ)のお城です。

形原城の遠景。形原城を海のほうから見た。手前の家は関係ありません。奥の小山が形原城です。

入り口は、稲荷神社の鳥居でした。左の石碑に「古城 稲荷社」と記されていました。

形原城址の看板
お妙塚

頂に着く前に「お妙塚」というものがありました。詳しくは、案内板にあるとおりです。言うことを聞かないわがまま君主を守った乳母のようです。説明文で、「又七郎」が、途中で「又三郎」に変わっているのは、何かの間違いではないかと思いました。

曲輪跡?
「お妙塚」は、道の左側にありましたが、右側は少し広い平地になっていました。これはいわゆる曲輪ではないかと思いました。

曲輪と思われる平地。左上は頂です。
形原城址

「形原城址」の石碑

「古城稲荷社」の社
疑問 形原松平氏の収入源
ここで、疑問がわきました。蒲郡(形原)は、海の近くでたぶん産業としては漁業で栄えた地域と思われます。とすると、形原松平の収入源は米というより水産物だったのではないか。米も収入源としてあったとしても、水産物の割合も高かったのではないだろうか。ということ。さらに、戦のときの兵隊は漁師だったということだろうか。
形原城址関連地図

地図を見ると、「東古城」(形原城址のあるところ)「北古城」「南古城」というお城に関係した地名が見られました。
光忠寺
近くに形原松平氏のお墓があるというので、立ち寄りました。「光忠寺」です。

ものすごい松がありました。(写真左側)

お墓は、お寺を入って左側に立派に区画されていました。

形原城の遠景。形原城を海のほうから見た。手前の家は関係ありません。奥の小山が形原城です。

入り口は、稲荷神社の鳥居でした。左の石碑に「古城 稲荷社」と記されていました。

形原城址の看板
お妙塚

頂に着く前に「お妙塚」というものがありました。詳しくは、案内板にあるとおりです。言うことを聞かないわがまま君主を守った乳母のようです。説明文で、「又七郎」が、途中で「又三郎」に変わっているのは、何かの間違いではないかと思いました。

曲輪跡?
「お妙塚」は、道の左側にありましたが、右側は少し広い平地になっていました。これはいわゆる曲輪ではないかと思いました。

曲輪と思われる平地。左上は頂です。
形原城址

「形原城址」の石碑

「古城稲荷社」の社
疑問 形原松平氏の収入源
ここで、疑問がわきました。蒲郡(形原)は、海の近くでたぶん産業としては漁業で栄えた地域と思われます。とすると、形原松平の収入源は米というより水産物だったのではないか。米も収入源としてあったとしても、水産物の割合も高かったのではないだろうか。ということ。さらに、戦のときの兵隊は漁師だったということだろうか。
形原城址関連地図

地図を見ると、「東古城」(形原城址のあるところ)「北古城」「南古城」というお城に関係した地名が見られました。
光忠寺
近くに形原松平氏のお墓があるというので、立ち寄りました。「光忠寺」です。

ものすごい松がありました。(写真左側)

お墓は、お寺を入って左側に立派に区画されていました。
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