Ⅰ郭虎口跡
Ⅰ郭をさらに西へ進みますと、虎口の跡がありました。縄張り図では北西と南西に2箇所虎口跡があることになっていますが、かなりなだらかな坂になっていました。
Ⅰ郭北西虎口跡
Ⅰ郭南西虎口跡
Ⅲ郭土橋
そこから一段と低いところにⅢ郭が西の方に伸びていました。途中土橋がありました。これは、結構はっきりと遺構が残っていました。
Ⅲ郭中央部の土橋
Ⅲ郭北方面
このⅢ郭の北の方には小さなこぶみたいな台のようなものがありました。これは北側の守りとして、そこで弓矢や鉄砲などで敵を攻撃するために設けられたものではないかと思いました。
植林されたⅢ郭?
Ⅲ郭で気がついたことは、そこに植えられている木(杉?)がきれいに植えられていることです。自然に生えたものではなく、植林によって植えられたものではないかと思いました。則定鈴木家は江戸時代も初期にはこの椎城のふもとに陣屋を構えていましたので、椎城も当然鈴木家の城としてここにあったと思われます。それがいつの頃からか、林業としての土地に変遷していったのかなと思いました。
整然と植林されているⅢ郭の木
出丸?
さらに注目は、Ⅰ郭のすぐ南下にある細長い曲輪状の突起です。縄張り図では、そこからさらに階段状の遺構がいくつか伸びています。これもⅠ郭を守るための曲輪ではないかと思いました。話が少し飛びますが、大坂城で「真田丸」という出丸があり、大坂の陣のときに真田信繁(幸村)が徳川軍に打撃を与えたということを思い出しました。
Ⅰ郭南下の「出丸」
椎城跡に出かけたのは9月のシルバーウィークの最終日でした。10月に近いので、すこしは登りやすいかと思いましたが、蚊とくもの巣に大変煩わしい思いをしました。カメラをむけるために立ち止まると「ウーン」と蚊が出てきて、ここはどうなっているのかと、進もうとすると顔面にくもの糸が懸かりました。
しかし、見学の元の情報は「愛知の山城ベスト50」ですが、そこでふられていないものを見ることができたので、収穫の多い見学だったと満足しました。
Ⅰ郭をさらに西へ進みますと、虎口の跡がありました。縄張り図では北西と南西に2箇所虎口跡があることになっていますが、かなりなだらかな坂になっていました。
Ⅰ郭北西虎口跡
Ⅰ郭南西虎口跡
Ⅲ郭土橋
そこから一段と低いところにⅢ郭が西の方に伸びていました。途中土橋がありました。これは、結構はっきりと遺構が残っていました。
Ⅲ郭中央部の土橋
Ⅲ郭北方面
このⅢ郭の北の方には小さなこぶみたいな台のようなものがありました。これは北側の守りとして、そこで弓矢や鉄砲などで敵を攻撃するために設けられたものではないかと思いました。
植林されたⅢ郭?
Ⅲ郭で気がついたことは、そこに植えられている木(杉?)がきれいに植えられていることです。自然に生えたものではなく、植林によって植えられたものではないかと思いました。則定鈴木家は江戸時代も初期にはこの椎城のふもとに陣屋を構えていましたので、椎城も当然鈴木家の城としてここにあったと思われます。それがいつの頃からか、林業としての土地に変遷していったのかなと思いました。
整然と植林されているⅢ郭の木
出丸?
さらに注目は、Ⅰ郭のすぐ南下にある細長い曲輪状の突起です。縄張り図では、そこからさらに階段状の遺構がいくつか伸びています。これもⅠ郭を守るための曲輪ではないかと思いました。話が少し飛びますが、大坂城で「真田丸」という出丸があり、大坂の陣のときに真田信繁(幸村)が徳川軍に打撃を与えたということを思い出しました。
Ⅰ郭南下の「出丸」
椎城跡に出かけたのは9月のシルバーウィークの最終日でした。10月に近いので、すこしは登りやすいかと思いましたが、蚊とくもの巣に大変煩わしい思いをしました。カメラをむけるために立ち止まると「ウーン」と蚊が出てきて、ここはどうなっているのかと、進もうとすると顔面にくもの糸が懸かりました。
しかし、見学の元の情報は「愛知の山城ベスト50」ですが、そこでふられていないものを見ることができたので、収穫の多い見学だったと満足しました。
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