長島とは
3連休、天候にも恵まれ、念願の長島に行ってきました。
長島は、三重県桑名市にあります。というより、「長島スパーランド」といったほうが分かりやすいかもしれません。この地で、450年ほど前一向一揆があり、多くの人が亡くなられているのです。いわゆる「長島一向一揆」です。
長島城は、今中学校に
長島一向一揆は、最終的には長島城に農民たちがこもり、織田信長によって攻められ、2万人もの人々が焼け死んだそうです。長島城は、今は長島中学校の敷地になっています。その中学校の門は、城を意識したしゃれた門になっていました。
長島中学校の門
中学校のすぐ南には、長島中部小学校がありました。その間ぐらいに長島城の案内掲示板がありました。
長島城は、一向一揆のときに落城しますが、江戸時代には増山という藩主が居住していたようです。城の縄張り図は、江戸時代の城でしょうか。まわりには、侍屋敷や町屋敷が並んでいます。また、田んぼも整然としています。
この城の大手門が蓮生寺という寺の山門として残っているというので、行って見ました。案内板によると、縮小されて再建されているそうです。明治9年に移築したそうです。
蓮正寺山門(長島城大手門)
一向宗の拠点 願證寺
長島城が戦いの拠点なら、この願證寺は一向宗の拠点でした。ただし、もともとの願證寺は、杉江というところにあり、今は長良川の川底になっているそうです。現在の願證寺は、もともとの願證寺の流れを受け継いでいますが、はじめ誓来寺といい、あとで願證寺と名乗ったそうです。また、願證寺は他にも名古屋にもその流れがあり、現在の本願寺名古屋別院となっているそうです。
江戸時代に、この「願證寺」が建てられたのですが、行ってみると寺がとても低いところにありました。長島の当たりは、土地が低く台風や大雨で何度も洪水にあっている地域です。他の民家は、石垣で高くして家が造られているのですが、この願證寺は、田んぼの中にあり、低いところに建てられています。今まで洪水の被害にあわなかったのでしょうか。なぜこのような低いところに建てたのか、ふしぎです。
願證寺には、「長島一向一揆殉教の碑」がありました。碑の裏に碑文があり、頼山陽の「日本外史」にも惨状が詳しく記されているとありました。
3連休、天候にも恵まれ、念願の長島に行ってきました。
長島は、三重県桑名市にあります。というより、「長島スパーランド」といったほうが分かりやすいかもしれません。この地で、450年ほど前一向一揆があり、多くの人が亡くなられているのです。いわゆる「長島一向一揆」です。
長島城は、今中学校に
長島一向一揆は、最終的には長島城に農民たちがこもり、織田信長によって攻められ、2万人もの人々が焼け死んだそうです。長島城は、今は長島中学校の敷地になっています。その中学校の門は、城を意識したしゃれた門になっていました。
長島中学校の門
中学校のすぐ南には、長島中部小学校がありました。その間ぐらいに長島城の案内掲示板がありました。
長島城は、一向一揆のときに落城しますが、江戸時代には増山という藩主が居住していたようです。城の縄張り図は、江戸時代の城でしょうか。まわりには、侍屋敷や町屋敷が並んでいます。また、田んぼも整然としています。
この城の大手門が蓮生寺という寺の山門として残っているというので、行って見ました。案内板によると、縮小されて再建されているそうです。明治9年に移築したそうです。
蓮正寺山門(長島城大手門)
一向宗の拠点 願證寺
長島城が戦いの拠点なら、この願證寺は一向宗の拠点でした。ただし、もともとの願證寺は、杉江というところにあり、今は長良川の川底になっているそうです。現在の願證寺は、もともとの願證寺の流れを受け継いでいますが、はじめ誓来寺といい、あとで願證寺と名乗ったそうです。また、願證寺は他にも名古屋にもその流れがあり、現在の本願寺名古屋別院となっているそうです。
江戸時代に、この「願證寺」が建てられたのですが、行ってみると寺がとても低いところにありました。長島の当たりは、土地が低く台風や大雨で何度も洪水にあっている地域です。他の民家は、石垣で高くして家が造られているのですが、この願證寺は、田んぼの中にあり、低いところに建てられています。今まで洪水の被害にあわなかったのでしょうか。なぜこのような低いところに建てたのか、ふしぎです。
願證寺には、「長島一向一揆殉教の碑」がありました。碑の裏に碑文があり、頼山陽の「日本外史」にも惨状が詳しく記されているとありました。
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