愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

新城城 新城市

2021年01月26日 17時35分32秒 | 新城市
新城城は、城がダブっていて、なんか変な感じです。でもそれには、理由があったようです。
新城市のHPでは、以下のように説明しています。

新城の由来
「新城の名前の由来は、長篠・設楽原の戦いで功績のあった奥平信昌が徳川家康の長女亀姫をめとり、現在の新城小学校の地に新しい城を築いたのが、「新城城(しんしろじょう)」です。天正4年(1576年)のことでした。「新城城(しんしろじょう)」と名付けられたのは、それより44年前の天文元年(1532年)に菅沼定継という殿様が石田の崖上(幽玄川河口)に築いた城が「新城(しんじょう)」と呼ばれており、それと区別するためで、これが「しんしろ」の名の由来です。」

いやあ、それなら「新新城」になると思いましたが。
まあそれはさておき、新城小学校を訪ねました。「ごめんね、職員室はどこかな」遊んでいる子どもに聞いて、職員室に行きました。「城めぐりをしているものですが、写真を撮らせてもらっていいですか?」教頭先生に対応していただき、「グランドの南に2つ建物があります。その間の辺りに少し残っているそうです。」丁寧に、遺構の所在まで教えていただきました。


新城城イメージ図(ヤフー地図に加筆)

土塁跡

グランド南の土塁跡

土塁跡には、看板と「新城城址」の石碑が建っていました。

堀跡

土塁外側の堀

けっこう深い堀でした。

土塁?(新城開府400年)
グランドの外側(南側)を通ってプールの南側まで来ると、また土塁らしきものが見えました。そこには、「新城開府400年」の記念碑が立てられていました。奥平信昌による築城が1576年なので、このイベントは1976年に行われたのでしょうか。そこからまた45年の歳月が流れています。

新城開府400年記念碑

ここから方向転換し、東へ進んで行きました。すると道の東側がこども園ですが、さらにその東側の川との境に堀らしきものがありました。(図に示しました)

新河岸の渡し跡
道に戻って、坂を下りていきますと、「新河岸の渡し跡」という所に出ました。ウィキペディアに「慶安元年(1648年)に丹波国より菅沼定実が7,000石で入って旗本(交代寄合)となり、同時に陣屋を構えた。定実の時代に、川舟と中馬の中継地点として栄える基盤が整えられ、新城陣屋周辺の商業地は山湊(さんそう)と称された。」という記述がありましたが、湊で栄えた所でもあったことが分かりました。いまは、「桜淵公園」になっていて、桜の名所だそうです。

新河岸の渡し跡

なにも遺構はないのかと思っていましたが、土塁や堀など結構見ごたえがありました。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (邇波 某)
2021-03-28 09:31:04
唯一天皇称号とされた、倭 建(天武)天皇は、父の聖大君(聖徳太子の原型の実在人物)が毒殺され幼少時代隠棲してました。 都をこの場所に遷都し様としてましたが、反対され断熱したのです。 当時は内陸部迄、海が入ってました。
返信する
Unknown (邇波 某)
2021-03-28 10:40:48
新城はニイキに漢字を宛てシンシロと呼ばれる事に為ります。
返信する

コメントを投稿