コロナも極まれりという感じです。いったいいつになったら収まるのか、まったくお先が見えません。しばらく活動を停止していましたが、季節も少しずつ良くなってきましたので、そろそろ再開しようかと思います。
前回の更新が21年4月なので、約半年ぶりです。
臼子城の紹介
臼子城について、「三河国二葉松」に以下のコメントがありました。
佐惣大膳或ハ佐伯大膳ト書シ物モ有、白雪云、此城ヲ見物ス、大手ヲ杵坂ト云、其傍ニ蓑石ト云モ有、後ニ此大手所ニ奥平休可ト云兵法ノ師住ス、此休可と戦シ石地蔵杉山ニ有、奇特アリトテ今モ信仰ス、白雪モ旧子カラ杉山之石地蔵へハ度々行。
佐惣大膳は、作手奥平氏の家臣だそうです。奥平氏はもともと作手亀山城が拠点でした。そこから東方面、新城の方へ行く道がありますが、臼子城は、山を越え、新城の平野が開ける起点の位置にあります。
臼子城の位置(グーグルマップより)
天文14年(1545) 新城古城 の 菅沼定継 に攻め滅ばされました。その後、奥平貞勝の嫡男貞能が菅沼氏の臼子城を攻めて城を取り戻し、先の城主佐宗勝重の子重昌を城代としました。奥平休可という武将もこの臼子城の城代として入りました。「兵法の師」と三河国二葉松が記載しているので、軍師だったと思われます。(白雪とは、三河国二葉松の筆者の一人です)
天正18年(1590年)、奥平氏が徳川家康 に従って関東に下り、臼子城は廃城となりました。(参照、ネット「東三河を歩こう」)
臼子城概要図(原図:高田徹氏、愛知県中世城館跡調査報告書Ⅲ(東三河地区)より)
上が西になっています。
臼子城探索
臼子城は、国道301号線の側の小高い小さな丘の上にあり、すぐ分かりました。国道に登り口が接していて、そこから登りました。登りきると墓地がありました。この墓地が櫓台のようです。下の曲輪より2メートルほど高くなっていました。今はまわりが木で見通せなくなっていましたが、昔は新城方面が見渡せたのでしょう。
櫓台
櫓台から下の曲輪は、杉林になっていました。
曲輪
櫓台下の曲輪は結構広く、ここが本丸と思わせました。というか単郭のようにも見えます。
この曲輪を西の方(地図では上)に歩いていきますと、南下の方(地図では左)に腰曲輪が見えました。腰曲輪はこの下にもあり、二段になっていました。
南側の腰曲輪
曲輪の中を西(上)へ進みますと、一段低い曲輪があります。大きさや南(左)の帯曲輪との関連から、ここが虎口かも知れないと思いました。
西側の一段低い曲輪
曲輪を北(右)の方に移動し、下を見ると立派な切岸がありました。
北側斜面の切岸
北側斜面を見ながら、今度は東の方(下)、櫓台のあった方に進んで行きますと、北側(右)に急な谷が見えました。これは、おそらく堀切ではないかと思います。ネットで堀切についての言及がないので、心配ではありますが、山側からの敵に対して切岸、堀切を設け、曲輪への侵入を阻止していたと考えることができます。
北側の堀切
それに対して、平野側(南側)は腰曲輪を設け、弓矢、鉄砲などで防御したのではないかと考えられます。
臼子城は、はじめ櫓台だけが残る城かと思いましたが、腰曲輪や堀切などの遺構が感じられ、見ごたえのある城でした。
前回の更新が21年4月なので、約半年ぶりです。
臼子城の紹介
臼子城について、「三河国二葉松」に以下のコメントがありました。
佐惣大膳或ハ佐伯大膳ト書シ物モ有、白雪云、此城ヲ見物ス、大手ヲ杵坂ト云、其傍ニ蓑石ト云モ有、後ニ此大手所ニ奥平休可ト云兵法ノ師住ス、此休可と戦シ石地蔵杉山ニ有、奇特アリトテ今モ信仰ス、白雪モ旧子カラ杉山之石地蔵へハ度々行。
佐惣大膳は、作手奥平氏の家臣だそうです。奥平氏はもともと作手亀山城が拠点でした。そこから東方面、新城の方へ行く道がありますが、臼子城は、山を越え、新城の平野が開ける起点の位置にあります。
臼子城の位置(グーグルマップより)
天文14年(1545) 新城古城 の 菅沼定継 に攻め滅ばされました。その後、奥平貞勝の嫡男貞能が菅沼氏の臼子城を攻めて城を取り戻し、先の城主佐宗勝重の子重昌を城代としました。奥平休可という武将もこの臼子城の城代として入りました。「兵法の師」と三河国二葉松が記載しているので、軍師だったと思われます。(白雪とは、三河国二葉松の筆者の一人です)
天正18年(1590年)、奥平氏が徳川家康 に従って関東に下り、臼子城は廃城となりました。(参照、ネット「東三河を歩こう」)
臼子城概要図(原図:高田徹氏、愛知県中世城館跡調査報告書Ⅲ(東三河地区)より)
上が西になっています。
臼子城探索
臼子城は、国道301号線の側の小高い小さな丘の上にあり、すぐ分かりました。国道に登り口が接していて、そこから登りました。登りきると墓地がありました。この墓地が櫓台のようです。下の曲輪より2メートルほど高くなっていました。今はまわりが木で見通せなくなっていましたが、昔は新城方面が見渡せたのでしょう。
櫓台
櫓台から下の曲輪は、杉林になっていました。
曲輪
櫓台下の曲輪は結構広く、ここが本丸と思わせました。というか単郭のようにも見えます。
この曲輪を西の方(地図では上)に歩いていきますと、南下の方(地図では左)に腰曲輪が見えました。腰曲輪はこの下にもあり、二段になっていました。
南側の腰曲輪
曲輪の中を西(上)へ進みますと、一段低い曲輪があります。大きさや南(左)の帯曲輪との関連から、ここが虎口かも知れないと思いました。
西側の一段低い曲輪
曲輪を北(右)の方に移動し、下を見ると立派な切岸がありました。
北側斜面の切岸
北側斜面を見ながら、今度は東の方(下)、櫓台のあった方に進んで行きますと、北側(右)に急な谷が見えました。これは、おそらく堀切ではないかと思います。ネットで堀切についての言及がないので、心配ではありますが、山側からの敵に対して切岸、堀切を設け、曲輪への侵入を阻止していたと考えることができます。
北側の堀切
それに対して、平野側(南側)は腰曲輪を設け、弓矢、鉄砲などで防御したのではないかと考えられます。
臼子城は、はじめ櫓台だけが残る城かと思いましたが、腰曲輪や堀切などの遺構が感じられ、見ごたえのある城でした。
もう、沈没かな・・・、と思いましたが、やっぱり浮上しましたか?
私も久しぶりに山城らしい遺構を拝見して、嬉しくなりました。こちらはコロナのお陰で、せっかく再開した山城講座も1ヶ月の延期に。
10月に一乗谷城、11月に波多野城に登城する予定です。
愛知の山城見学も楽しみにしています。
コメントありがとうございます。
お返事が遅れました。すいません。ぼちぼちと再開しています。
少しずつアップしたいと思いますので、よろしくお願いします。